101 白い牙4/その名は、白い牙
おまえは、首元をいじりまわしている。
鋼鉄製の首輪は、重く、つめたい。おまえの隆起しつつある僧帽筋のうえで、不快な感触をつたえつづけている。森のなかのごつごつとした地面をあるくごとに当たりかたが変わるから、いつまでも慣れない。
おなじ首輪を、若旦那さまのまわりを歩く猟犬たちも着けている。これは犬の首輪なのだということは、それで知れた。
そしておそらく、じぶんもまた犬なのだということも。
若旦那さまと、何人かの友人たちがいっしょだった。
筆杖はたずさえてはいたものの、油断しきった顔だ。しかし、襲うことはできない。
首輪には、真述の鎖が着けられている。おまえには真述の知識など露ほどもなかったが、ようするに、目に見えない鎖が若旦那さまの筆杖から伸びているということらしい。首輪を巻かれたものは、巻いたものを攻撃できない。真述の鎖を断ち切ることも、真述なしにはできない。めったなことはかんがえるなと、ここにくるまえに召使が念押ししてきた。
だからおまえは、すべてに関心をうしなったような顔で、ただ歩いている。ときおりちらちらとこちらを見てくる天人貴族の視線は、かんぜんに黙殺したまま。
やがて、猟犬の一匹がなにかを嗅ぎつける。
みなが静まり、固唾を飲む。
猟犬が草むらにおどりこんだしゅんかん、茶褐色の野兎がとびだしてくる。
「やれ」
若旦那さまが言う。
おまえはくちびるを動かさず、ちゃら、と鎖を鳴らしてみせた。
「離すわけがないだろう、奴隷。おまえは犬とちがって信用ならないからな」
「そら、逃がしちまうぞ!」
天人のひとりがさけんだ。
おまえは若旦那さまから目を離すと、小石をいくつか拾い上げる。手のひらににぎりこんでしまえるほど小粒で、なるべく丸いかたちのものを選んだ。
かなたで、猟犬が兎を追っている。
おまえは持ち前の動体視力で難なく野兎を捕捉すると、そこから視線を逸らさぬまま、小石の一粒を指先に乗せた。二本の指と、親指とで摘むようにして持ち、機を待った。
打った。
兎が、進路を変える――そうせざるを得ないのだ。足元に弾けた飛礫の衝撃で、逃げる方向を転換させられたから。おまえは第二撃、第三撃を打った。さらに二度、兎は方向転換を図る。
そして、兎はおまえの正面へと駆けてくる。
こうなると、もはや方向転換はままならない。おまえが待ち受けているのは、斜面の下だからだ。斜面を駆け下りてくるあいだ、兎は曲がることができない。無理に曲がろうとすれば、転げてしまう。後ろから追ってくる猟犬の牙に、捕らわれてしまう。だから兎は、おまえに正対し、ただ駆けてくるしかない。
おまえは、二本のナイフを抜きはなつ。
かがやく刀身を下に向け、両腕を交差させるようにして、顔のまえに、構える。まるで剣歯虎の二本の牙のように、月光を受け、刃がしらじらときらめく。
兎が来た。
おまえは、機を逃さなかった。
*
兎の耳を持ち、まるまると肥った肉をぶら下げる。眼下では荒い息をつく猟犬が、うらめしげにおまえを見上げている。
にらみつけた。
それで、犬たちは荒い息を止めた。尻尾を、まるめていた。
若旦那さまが高笑いしながら、おまえの肩を叩く。
友人たちに対し、自慢げにおまえの猟果を示している。いや、それは若旦那さまの猟果なのだ。おまえに権利はない。
なにやら演説をぶっているらしい若旦那さまのくちびるを、おまえは読む気になれない。若旦那さまの笑い声が聞こえなくてよかったと、そうかんがえている。
兎を見る。
その、ものと成り果てた目玉を、見つめる。
――わたしは、かりがとくい。
*
白い牙、とおまえは名づけられた。
先住民の名づけを、若旦那さまが真似たのだ。お気に入りの猟犬を侍らせるように、おまえを絶えずかたわらに置くようになった。
おまえが口を利かないのも、若旦那さまにとっては都合がよかった。まるで犬に対してそうするように、若旦那さまはなにくれとなくおまえに話しかけ、断片的なつぶやきやひとりごとのたぐいを浴びせかけた。それらによけいな返答がないことを改めてたしかめるように、かならず最後には、
「なあ、白い牙!」
と、同意を求めるようなことばを投げかけてくる。
おまえはうなずきを返すこともせず、ただ若旦那さまの顔を見返した。そうすると、若旦那さまはうれしそうに笑うのだ。
おまえを『猟犬』として手に入れたことは、若旦那さまにとってはまさに僥倖だった。
なにせ、狩りの成績が目に見えて上がったのだ。
友人たちが嫉妬し、じぶんのところの洞人をひっぱり出してきたとしても、『白い牙』には敵わない。洞人ばなれした長身と、先住民ばなれした筋肉量をもつおまえのまえでは、並の洞人はいかにも貧相に見えたし、じっさい太刀打ちなどできようはずもなかった。
やがて、若旦那さまのもとめに応じ、おまえは大量の肉を喰らい、重いものを持ち上げる訓練をくりかえし、さらにからだをおおきくするよう努めた。肉体はもとめに応じ、みるみるうちに厚みと横幅を増していった。
いまや、丸太のように発達した二の腕と、六フィート半を超えて若旦那さまから頭ふたつぶんおおきくなった身長とは、そこにたたずんでいるだけである種の威圧をもたらすようになった。
若旦那さまは天人男性としては小柄で、友人たちにくらべると押し出しに欠けた風貌であったから、おまえをかたわらに立たせることで、周囲が萎縮と緊張を見せるさまを、ことのほかよろこんだ。
とうぜん、おまえにあたえられた衣装はドレスなどではない。
猛々しさを強調するような、装飾過多な戦闘衣装こそが、おまえの日常着であり、正装だ。先住民と洞人の民族衣装の特徴を混ぜた結果、どちらの伝統にもそぐわなくなった威嚇的な意匠は、若旦那さまとお抱えの仕立て屋が知恵を出し合いつくりあげた作品で、おまえの意向などはあたりまえに無視された。
この動きにくい戦闘衣装をまとったまま、おまえは若旦那さまにともなわれ、あらゆる社交の場へと連れ出された。
タキシードやドレスをまとった天人らが、奇異なものを見る目で、おまえの顔を見上げる。おまえの顔は戦化粧にいろどられている――牙を剥き出しにした狼の口が、顔の下半分を埋め尽くすように描かれているのだ。その獰猛きわまりない化粧のなかで、いつもおまえの口はかたく結ばれていた。ことばを発したことのない、白い歯を覗かせもしない口を、かたく。
そのくちびるがかたちを変えるのは、やはり、狩りのときだけだ。
けものを、飛礫とナイフとで迎え撃ち、躍動する生命から血をほとばしらせて骸に変える、そのしゅんかん。ほんのひとときだけ、おまえのくちびるは開かれる。
愉悦ではない。
恍惚でも、陶酔でも、酷薄さでも、達成感でもない。
ただ、悼むような悲哀が、ほんの一滴、にじむのだ。
狩った獲物のおおきさに狂喜する若旦那さまが、気づくはずもない。気づいたとして、理解できるとは思わない。ほんのいっしゅんにじみ出た、おまえの感情の揺らぎなど。
このころのおまえの心情を、ことばで語るのは困難だ。
おまえは、ことばをほぼ持たずに生きていたからだ。ことばではなく、感覚をもとにかんがえ、若旦那さまに対しては命令だけに反応する。それで事足りた。ほかの奴隷が話しかけてきて交流を図ろうとすることも、絶えてなかった。
おまえは屋敷の一隅に寝床をつくり、ひとりで眠った。
文字どおり、犬として、おまえは暮らしたのだ。
ただし、すべてのことばを喪失したわけでは、ない。
おまえのなかには、まだ、『とくい』という言い回しが残されていた。概念が、残存していた。
『わたしは、かりがとくい』
『わたしは、こわがらせるのがとくい』
『わたしは、ひょうじょうをかえないでいるのが、とくい』
後年、おまえが手にする深い洞察の基盤は、このころの自己分析にもとづいている。とはいえ、これらのことばが出力されることはない。
おまえは、犬だった。
犬を、まっとうした。
犬であることは、奴隷であることよりもらくだった。すくなくとも、おまえにとってはそうだった。役に立ち、必要とされているあいだは、殺されない。役に立たなくなれば、殺される。足を折って復帰が見込めぬ猟犬が、撃ち殺されるのとおなじこと。
シンプルだ。
それでもときおり、犬には存在しない感情がおまえを捉えることもあった。たとえば屋敷の一隅で身をまるめるようにして眠りに落ちようとしているとき、あの日撃たれた仔ヤギのふるえを思い出すのだ。小きざみにふるえながらいのちがうしなわれていくさまを、腕のなかの感触として思い出すのだ。ふしぎと、兄のことを思い出しはしなかった。あえて思い出そうとすれば、あの耳鳴りがまた頭蓋を揺らした。だからおまえはあきらめて、また仔ヤギへと意識を向けた。そうして、眠った。眠ってしまえば、もう、夢を見ることもなかった。




