100 白い牙3/狩るものの目
耳鳴りが、止まらなかった。
耳が利かないおまえにとっては、耳鳴りは音ではない。
ただ頭のなかで、なにかがふるえつづけている感覚として、それはつたわった。目覚めているあいだじゅう、そのふるえはおまえの頭蓋を揺らしつづけていて、だからおまえはいつまでもあの夜のつづきを生きていた。
ただひとり、『ことば』を交わすことができた兄をうしなって、おまえがひとと語らうことは絶えている。つねに抱きしめていた仔ヤギも、翌日シチューのなかに放りこまれて奴隷たちの腹に収まってしまったから、おまえの腕をあたためることはできなくなった。
荒んだ目を、している。
奴隷たちは、おまえをそう言って遠ざけた。じっさい、すべてのことばをうしなったおまえの目はけものに似た。
耳鳴りにふるえる頭蓋を押さえようと。こめかみをつねに揉みしだき、ぎらぎらとかがやく目で部屋の隅を見つめている子供を、洞人たちも奴隷監視人ももてあました。
子供に任される落穂拾いも畑の見張りも、おまえには強要されず、ただ、一日を座ったままに過ごす日々がつづいた。
若旦那さまも、おまえからは関心をうしなっていた。
あの夜の遊びは、二度とくりかえされなかった。なにせあの奴隷少年が、ほほえみながら頭を撃ち抜いたのにしらけてしまったのだ。若旦那さまが期待していたのは、死ぬ一秒まえまで死にたくないと泣きながら、それでも自死をえらぶすがただったのだ。あんなふうにじぶんの死を受け入れ、ほかのものに希望を残してけりをつけるような『高潔な』ありようなど、一インチたりとも望んではいなかった。友人たちも、おなじだった。あの小僧が斃れたしゅんかんに、座はかんぜんに冷え切っていた。屍体が召使に片づけられるまえに、その夜の解散が決まってしまったのだ。
――あの餓鬼のせいで。
若旦那さまは歯噛みしていた。
あの場にいた連中に、つまらないやつだと見くびられた。座をしらけさせた。興というものを解さない野暮天だと決めつけられた。そう思うと、耐えられなかった。
――つまらない奴隷は、死にかたまでもつまらない。
そう思い、何度も胸の内でののしった。
折悪しく、仲間内での流行も移り変わろうとしていた。
若旦那さまの好む、部屋にこもりきってのカード遊びから、南部貴族らしい狩りへと、遊びの主流が移っていったのだ。
若旦那さまは、幼いころから細かった。腺病質で、筋肉がつかない。服を脱げばあばらが浮かび、下腹だけがまるく突き出し、日頃の放蕩ぶりを示している。色も白く、日に当たると赤く腫れるばかりで、いっこうに日灼けしない。
この醜いからだが物語るように、からだを動かすことは軒並み不得手である。狩猟なぞもそこに含まれている。馬にも長時間乗っていられないし、陽の下にながくおれば翌日熱を出す。
輪をかけて始末におえないのは、どうしたわけか犬にまったくなつかれないことだ。近隣のブリーダーから高値で買った犬なのに、まったく言うことを聞かない。どれほど声を荒げ、乗馬鞭を振るってみてもだめだった。なでてやろうとうずくまって頭に手のひらを乗せようとしたとたん、犬がいやがって避けたときには、仲間内で爆笑の種となったものだ。その犬は撃ち殺してしまった。
――ぜんぶ、あの餓鬼のせいだ。
逆恨みは、いつまでもつづいていた。
あの夜から三年が経っても、狩猟の流行は終わらず、若旦那さまはみじめな日々を強いられ、死んだ奴隷への憎悪はやむことを知らなかった。
憎むことにいそがしく、若旦那さまは気づかなかった。
奴隷宿舎の隅にうずくまる少女が、急速に成長しはじめていることを。先住民の血によって伸びた手足に、洞人の血が筋肉をまとわせはじめていることを。その静止のなかに、躍動を孕みはじめていることを。
ある夜、である。
農場に、狼が侵入した。だれも、その牡狼の侵入に気づくことはできなかった。
くすんだ灰色の体毛を持つ、老いたはぐれ狼だ。生まれつき異常な兇暴性を秘めた個体で、それゆえに群れになじまなかった。欧州であったなら怪物と認定されて討伐対象指定を受けていただろうが、この大陸ではそこまでの法整備がなされておらず、この狼は長年放置されていた。そのため狡猾で、だのに獰猛だった。家畜はおろか、ひとまでも何人か喰らっている。ひとの血の味を覚えたけものは、おそろしい。ひとをおそれず、むしろ積極的に襲いかかってくる。この狼も、ひとをおそれはしなかった。いくつかの農場を襲い、あらゆる生きものを牙にかけてきた。人間などはおそれるに足りないと理解したこの狼にとって、農場は救貧食堂がごときものだった。肥った家畜が、わざわざ逃げられないようにつながれているのだから。
この日も狼は、口のなかに広がる血の味を思い出しながら、そっと家畜小屋へと這い寄った。眠っていたヤギたちが目を覚まし、騒ぎはじめるまえに、一匹の喉を食い破った。次いで腹を噛み破ると、こぼれ出るはらわたをがつがつと喰らいはじめた。
……おまえは、それを見ていた。
気配を、殺していた。
身じろぎひとつせず、呼吸も時間をかけてちいさくした。
狼の影がヤギの影とかさなり、食いちぎっては血をすするさまが壁に映し出されている。さしこむ月光は、おまえのうずくまっている位置を照らしていない。ヤギたちは、不運な一匹が喰われていることでみずからはまぬかれたのだと思い込んだのか、騒ぐのをやめている。たしかに賢いやりかたであるといえた。つぎに殺されるとすれば、よけいな動きをして狼の関心をひいたものであろうから。
おまえ自身も、きっと例外ではない。
しかし、
おまえは恐怖に身をすくませてなどいない。
ただ、見ている。
狼を、見ている。
毛皮の裏にある筋肉を、それがどのように動くのかを、あるいはどのように動けないのかを、見ている。見さだめている。狩られるものの、目ではない。
それは、狩るものの目だ。
まばたきひとつせぬ凝視が、ひとつ、かがやいた。
気まぐれな月光が、その眼球にさしこんだのかもしれない。狼は野生のけもののならいで、そのかがやきを察し、血に濡れた鼻先を、うえへと向けた。
おまえが、動いた。
*
泡を食ってとびこんできた召使によって、若旦那さまはたたき起こされた。宿酔いと寝不足にがんがんとひびく頭で、要領の得ない話をまとめると、どうやら、夜のうちに家畜小屋に狼が這入ったらしい。
どうでもよい、とあしらってふたたび眠ろうとするが、とにかく来てくれとしつこい。ろくすっぽ服を着替えるひまもないままに連れられ、真っ赤に充血した目をこすりこすり、家畜小屋へたとりついた。
おまえを、見た。
絶句した。
「な――なんだ、これは……?」
一晩を経て、どす黒く変色した血だまりのなかに、灰色の毛皮と、くすんだ白色の毛皮がもつれ合うように突っ伏していて、そのうえに、返り血で全身を汚した少女が、座っている。
肌の色は、洞人。
手足の長さは、先住民。
筋骨のつきかたは、洞人。
そういうすがたの少女が、目を伏せ、手元でなにかをいじりまわしている。
角。
ヤギの、角だ。
根にはもぎとられた痕があり、先端はやはり乾いた血に汚れている。
灰色の毛皮が狼だと、遅れて気がついた。
狼は舌を出したままに絶息し、固まっている。その首すじにひとつ穴が空き、そこからながれた血のすじが、毛皮をぱりぱりに固まらせていた。この穴が狼を殺した傷だと、気がついた。
「おまえ! ……おい、おまえ!」
若旦那さまが、よびかける。
少女は無視している。若旦那さまの顔色を見て、召使があわてて少女の肩を揺すぶり、こちらを振り向かせた。少女の目をのぞきこみ、若旦那さまはようやく、その少女があの夜に呼び出した『妹』だと気がついた。耳が利かないのだと察したが、ほかにどうしていいか分からず、ゆっくりしゃべる。
「これは、おまえが、やったのか?」
こくり、と少女がうなずく。
「どう、やった?」
『妹』はすこしのあいだこちらの目を見つめ、それから手のなかでいじりまわしていた角を、示す。その先端に付着した血と、狼の首すじに空いた穴とを、見比べた。
「ははっ……」
ひきつった顔が、笑いのかたちに変わる。
「ははははは……!」
ヒステリックな笑いごえが、家畜小屋じゅうにひびいた。




