009 悟り
一時間が経った。
おまえは呆然としたまま、歩をすすめている。
からだが熱かった。じんじんと痛む股のあいだから、どろりとする液体がこぼれて、点々と跡をのこしている。異物感は、まだ色濃い。
なにかが、決定的にそこなわれたことだけは分かっていた。
なにかが、永久にうしなわれ、これからずっと、失くしたままでいるのだ。
うつろなままに、おまえは歩く。
本能にみちびかれるようにして、かろうじて、奴隷宿舎へとたどりつく。暗がりのなかで、母のもとへと這ってゆく。母は小康状態にあるらしく、痙攣することもなく、ゆっくりとした呼吸をくりかえしている。呼気が白くたなびき、暗闇へと溶けこんでいる。
掌には、紙につつまれた薬がにぎりしめられていた。いまはじめてそれに気がついたとでもいうかのように、おまえはその包みをしげしげとながめる。ようやく思い出して、いくぶん温まった井戸水にその粉ぐすりを溶かしこむと、母の唇へと当てがった。
半ばほどを唇のはしからこぼしながらも、母は薬を飲み終えた。
力尽きたように枕へと頭を落とし、苦しげにため息を吐き出したあと、すこしだけ、目を開ける。
おまえを、見つめる。
「したのね」
おまえは、母の瞳を見つめている。
瞳孔のなかに、いのちを糧としたほのおが燃え上がるのを、見て取る。
「……穢れたのね、あなたは」
グレイス。
グレイスよ。
おまえには、まだ分からない。
母のことばには、おんなの妬みが隠れているのだ。嫌悪をみずからのうちでつくりかえて執着へと仕立てあげた歪んだ感情が、おまえを、敵として見させたのだ。めずらしいことではない。じぶんが抱いている激しい感情が、愛に属するものであるのだと、ひとは思いたがる。肌を合わせる相手を、いつまでも憎んでいることはできない。人間とは、そういう動物であるからだ。
けれども、おまえには理解できない。
ただ、母のことばを、そのままに受け止める。
――わたしは、穢れた。
そのことを、あたりまえの認識として、頭のなかに植え付けてしまう。畑に毒草をそれと知らず植えつけてしまうのと、おなじように。おまえは、決定的に呪われる。枷を受ける。
――わたしは、穢れている。
母の瞳のなかの業火を、母の罪ゆえのものと思わず、じぶんを灼き尽くす裁きのほのおとして、受け止める。
やがて、母の目がぐるりと裏返り、瞼が閉じた。
気をうしなうように、母は眠りへとついていった。おまえはなにも考えられない。ただ、母の腕に抱かれて寝む憩いを、じぶんは許されないのだろうと思う。思い込む。
おまえは母の隣へと横たわる。母の肌に触れないように気をつける。じぶんに触れたら、きれいなお母さんまで穢れてしまうかもしれないと、思う。おまえは目をつむる。疲労が、またたくまにおまえを掴み、沼の奥底へと引きずりこんでゆく。
おまえは、夢を見る。
*
安楽椅子に掛けた老女が、おまえを出迎える。
洞人の女性だ。腰ほどまで伸びた髪は、白を超えて銀色にかがやきながら、肘掛けから垂れている。そうとうに高齢なのだろう、とおまえは見てとる。くつろいだ姿勢で、ぎい、ぎい、とここちよい音を立てながら、椅子を前後に揺らしている。
屋根裏部屋にも似た、うす暗く、せまい部屋だ。
掃除が行きとどいているらしく、埃っぽさはみじんも感じられない。古びたいくつかの調度がこぢんまりと置かれ、ランプがその片隅をささやかに照らしている。花瓶に幾本かの花が飾られているほかは、飾りらしきものはなにもない。
完璧に統制がとれた部屋の中心で、老女はおまえと向き合っている。
歌を口ずさんでいる。
旧い歌だ。
北斗七星へ
北極星へ
あのおじいさんが連れていってくれる
ただ北へゆけ
母が、子守り歌によく歌ってくれていたものだ。
夢のなかでおまえは、目を閉じる。安楽椅子の揺れる音が節をとって、おまえは母に抱かれて寝かし付けられている赤子のようなきぶんになる。
ようやく来たね。
老女が歌をやめて、言う。
北をめざしておいで。
老女の銀色の瞳が、おまえをまっすぐに見据える。
ただ北へ。北極星をめじるしに、ただただ北へ。
そうしたら、
わたしたちがかならずおまえをつかまえてあげるから。
ことばに射貫かれたように、おまえは動きを止める。
老女がにっこりとほほえんだかと思うと、目のまえから、またたくまに遠ざかってゆく。おまえのからだが、後方へと、急激に引かれていったかのように。暗闇がおまえの視界を閉ざし、老女の声だけが、おまえのなかで反響する。声じたいが刻印として、おまえの薄っぺらい胸へと刻みつけられる。
ただ北へ。
ただ北へ。
ただただ、北へ。
*
目覚めると、もうおまえは老女と会ったことなど忘れている。
さいごに反響した声だけが、おまえのなかに残されたもののすべてだ。
違和感が、満ちている。
ふしぎなほどに、奴隷宿舎のなかが、静かだったのだ。きょうは安息日である。週に一度だけの、寝坊が許された日だというのに、人っ子ひとりいない。重い沈黙だけが、朝の空気のなかに満ちみちている。
ああ、とおまえは思う。
だからか、と思いあたる。洞人たちは、せっかくの安息日に沈鬱なできごとを目の当たりにすることを、避けたかったのだろう。じぶんたちも同じ運命のただなかにあるのだということから、目をそむけたかったのだろう。
母が、冷たくなっていた。
おまえのかたわらで、固くなっていた。眠りと見まごうことはなかった。魂がうしなわれた肉体は、ひと目で分かる。生きているうちには隅々まで充溢していた生命が、完全になくなっている。つくりもののようだ。これが生きて動いていたのだと聞かされても、にわかには信じがたいほどだ。
涙は、まだ出ない。
おまえは、母のぬけがらを見つめる。
うすく開いた唇を、青ざめたままに固着した皮膚を、乾ききった傷口を、伸ばされたままの腕を、見つめる。腕の先で、固められた拳のなかから、紙片が覗いているのを、見つめる。
枕もとに、蓋が開いたままの小箱が置かれている。
枕の布地が裂け、そこから点々と詰め物のおがくずがこぼれ、箱へとつながっている。母は、枕のなかに隠していた小箱を、さいごの力でとり出したのだ。そして、掌のなかに、そのうちの一枚を握りこんだ。
おまえは、母の拳を開かせ、紙片を手にとる。
母の字だった。
それは、母の字であったのだ。
字を読むのに時間がかかるおまえにも、そのことはすぐに分かった。
グレイス。
グレイスよ。
おまえがもうすこし、愚鈍でありさえすれば、そのことがなにを示しているのか、母がさいごになにを伝えようとしていたのか、悟らずに済んだのだ。奴隷にとっての不幸は、いつも、知恵を多く持ちすぎることから始まる。おまえにとっても、それは例外ではない。
ながいながい時間、おまえはその紙片をながめ、うずくまっていた。
やがて、
おまえは、立ち上がった。




