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水鏡より

夏のホラー2025企画に挑戦、第二弾。

お盆に間に合わなかったけど投稿。

 お盆休み。

 なんとか会社の仕事を遣り繰りして、妻と娘を連れて実家へ帰省した。

 新幹線を降りてからレンタカーで三時間。

 山間の田舎道。片道一車線の道路から、センターラインの無い道路へ。

 午後四時頃、ようやく着いた久々の実家は、上京した時より大分くたびれていたが、懐かしさが湧き出てきた。

 田舎の家は平屋が多く、やたらと敷地が広いので車を停める場所に事欠かない。それでも実家の車の出入りの邪魔にならない場所を見定めて停車した。


「おお、よう来たの。まずは上がって、ゆっくりしや」


 日に焼けた皺だらけの顔に満面の笑みを浮かべた祖父が出迎えてくれた。

 家の裏にある畑は、農家というには狭く家庭菜園というには広い。その畑を世話しているのは今は祖父母だけだ。

 親父は町役場の職員で、母さんは町中のスーパーでパートをしている。田圃はとうの昔に売ってしまった。

 田舎の家特有の、やたらと高い上がり框を登りきれない娘を持ち上げ座らせ、靴を脱がせてやる。壁には、昔は無かった手摺りが取り付けてあるのを見て、祖父母が歳を取ったのを実感した。

 茶の間に入るとエアコンが効いていて、車から降りて家に上がるまでの短い間にジリジリと暑かったのが一気に涼しくなった。

 座卓の上座に祖父が座ってから俺たちも座る。


美波(みな)ちゃん、曾ばあちゃんよ、覚えとる?」


 祖母が美波にオレンジジュースの入ったコップを出しながら訊いてくる。俺たちには薬缶で煮出した麦茶だ。


「ひぃばーちゃん?」


「ばあちゃん、滅多に帰らん俺も悪いが、美波が前に会ったのは一歳の時や。いくらなんでも覚えとらんよ」


 俺は美波の代わりに答える。美波は小学一年生。学校に通うようになって初めての夏休みだ。


「おばあちゃん、お久しぶりです。長いこと来れなくてすみません」


 妻の汐里(しおり)が頭を下げるが、


「汐里さん、ええよぉ、謝らんでも。どうせ浩暉(こうき)が『仕事が忙しい』とか『面倒くさい』とか言って帰って来んかったんでしょ」


と言って俺を軽く睨んだ。確かにその通りなので俺はウヘェと首を竦める。流石に帰らな過ぎかと思ったのと、美波が小学生になったので良い機会だと思って今年は帰省を決めたのだった。


「ばあさん、あんまり言うたるな。ここまで何時間掛かるちか。ワシらだって、向こうにはよう行かんが」


 じいちゃんの援護でばあちゃんも「仕方ないなぁ」と雰囲気を和らげた。


「美波、ご先祖様に挨拶しような」


 茶を飲んで一息ついたので、娘を連れて仏間へ行く。黒光りする廊下を進むと、障子を開け放した畳敷の部屋へ入る。仏間にはエアコンは無いので庭側の障子も開け放して縁側のサッシも網戸になっている。


「美波、畳の縁は踏んだらダメだぞ」


「なんでダメなの?」


「上座と下座……って言っても美波にはまだ早いか。

 偉い人とそうで無い人の座る位置を決める境目だからだよ。境目を踏んだら相手に失礼になっちゃうんだ。

 他にも色々理由はあるけど、今は『畳の縁は踏んだらダメ』って覚えておこうな」


 我が家には和室が無いため今まで教える機会が無かったが、これ幸いと躾をしておこう。友達の家にお邪魔した時に先方に和室が無いとも限らない。

 祖父母が丁寧に管理している黒くて大きな仏壇の花立には、祖母が用意したらしい白百合が雄蕊を取った状態で生けられている。二、三、まだ蕾もあるので昨日か一昨日に買ってきたのだろう。

 俺が物心ついてから今まで実家で葬式を出したことが無いので、本当に“ご先祖様”への挨拶になる。

 仏壇の前に座って燭台の蝋燭に火を灯し、線香に火を移す。先端が赤くなったのを確認して、軽く振って火を消し香炉に寝かせる。

 手を合わせ、南無……と口の中で唱えて頭を下げる。俺の右斜め後ろで汐里が同じようにしている気配がして、左斜め後ろで美波が見よう見まねで礼を取るのが分かった。


「……オブツダン? って、ご先祖様のお家?」


 仏壇に供えられた果物や菓子などを見て美波が可愛いことを訊いてくる。


「お家っていうより窓口ね」


「窓口?」


「そうよ。ご先祖様のお家はお墓なの。お仏壇はこっち(・・・)向こう(・・・)を取り持つ“窓”みたいなものなのよ」


 汐里の言葉に納得したのかどうか、美波は首を傾げつつ「そういうもの」として飲み込んだようだった。

 仏壇の蝋燭の火を消して、また茶の間に戻る。


「姉ちゃんは?」


 俺には四歳上の姉がいる。十四年前に結婚して、実家から車で一時間の所に居を構え、今では二児の母だ。


「えっちゃんは明日、帰って()よるよ。湧介さんは仕事が空けられんて、子供達だけ連れて来るて」


「雫ちゃんと雪也くんか。久しぶりや」


「しずく……ちゃん?」


「美波の従姉妹ね。パパのお姉さんの子供よ。美波も一歳の時に会ってるんだけど、覚えてないわね」


 そう、美波が一歳の時には一応帰省してお披露目をした。ただ、それ以後はなんやかんやと忙しく、そのうち面倒になったりで今日まで帰ってなかった。


「じゃあ、墓参りは一緒に明日行こ」


「そんほうが面倒がないで良いの。お()や休みは大丈夫か?」


「夏季休暇と有給組み合わせてきたで、こっちには八日間(はちんちかん)おるよ。美波に、田舎ならではの思い出作ってやりたいし」


「汐里さんに無理させんねね。温泉でも連れてってあげやい」


「分かっとるよ。計画は大体立てとるから」


 そんな話を取り止めもなくしているうちに親父が帰ってきて、母さんがオードブルを買って帰ってきた。

 汐里と美波の挨拶に二人は相貌を崩し、かなりの歓迎ムードのまま夕食に突入する。


「そう言えば、浩暉は汐里さん達と出かける時は気ぃつけろよ」


 親父がふと思い出したようにそんなことを言った。


「なに? いきなり当たり前んこと」


「ああ、あの噂でしょ」


「噂?」


「今月入ってかい、この辺を不審者がうろうろしてるて。役場(やっば)にもクレームっちゅうか注意っちゅうか、何回か報告があってんの。学校からも生徒のおる家には注意喚起してるて」


「うちも聞いたよ。パート仲間の川井さんが見たち。なんか、無精髭ん生やした五、六十の男て。ヨレヨレの服着て髪もボサボサで、こんくらいの箱かなんか入った買い物袋を下げちょっち」


 言いながら母さんが両手で空間に手刀で四角い形を作る。

 それを見て俺は、なんとなく仏壇に上がっているメロンの化粧箱を思い浮かべた。


「この辺の(もん)じゃねかろて、美波ちゃんを一人にせんけな大丈夫やろ」


「分かった。気ぃつける。

 美波、お出かけする時はパパかママと手を繋ごうな」


「は〜い!」


「まぁ、元気ないい返事やね。良い子やん」


 話の内容は分かってなさそうな美波の返事の元気の良さに、みんなが「ハハハッ」と笑う。実際のところ、美波を一人にするようなことは無いだろうが、相手が男では汐里の手にも余るだろう。もし俺が付いていられない時には親父たちにも手伝ってもらおうと考えた。

 夕食の後は美波の夏休みの宿題を見てやって、風呂に入って……。

 車の運転は俺がしたが、新幹線の駅では人に揉まれたし少しばかり強行軍だったので疲れているだろうと、汐里と美波には俺たちに当てがわれた客間の布団で一足先に寝てもらった。ちなみに俺の部屋は残ってはいるものの、半分は物置と化していて親子三人で寝るにはちょっと手狭になっていた。

 そして茶の間で男たちだけで酒を飲む。母さんとばあちゃんは酒の肴を出してくれると寝室に引っ込んだ。


「五年ぶりの割にはあんまり変わんないなぁ」


「そうでもねぇよ。洋征(ひろゆき)()さんが二年前に逝っしもうた。(おい)と同年代は施設に入ったい、け死んだいでどんどんおらんくなりおるよ」


「ヒロじいやん、亡くなったんか。時間があったら線香あげさせてもらいに行こ」


 洋征さんは親戚ではないがうちと同じ加瀬という名字で、じいちゃんより八歳上の馴染みの爺さんだった。二年前ということは、今年は三回忌か。じゃあ、明後日が法要だろうからその後、落ち着いた頃に行かせてもらおう。

 それからもチビチビと酒を飲み交わしながら、地元の話、俺の仕事の話、近所の話などを語り合った。

 ほろ酔いになったところでお開きにして、俺はそっと客間に入る。

 蛍光灯の電気の豆球がほのかに室内をオレンジ色に染め、妻と娘が一つの布団にタオルケットで寝ていた。

 程よくエアコンも効いていて、寝苦しさはなさそうで安堵する。

 昔なら網戸にして寝ていたものだが、さっきも聞いたようような不審者が出るようなら施錠しないわけにもいかない。

 俺が子供の頃はどんなに自宅が遠方でも子供は徒歩や自転車で学校へ登校していたが、今では親の送り迎えも当たり前らしい。むしろ都会とは別の意味で人目に付きにくい土地柄だから仕方がないのだろう。

 世の中、物騒になったもんだ。

 そんなことを思いながら愛娘の寝顔を確認してから俺も床に就いた。



 翌朝。

 みんなで遅めの食卓を囲んでいたら姉ちゃんが子供たちを連れてやってきた。


「ただいま〜、おはよ〜う。

 浩暉、おかえり〜。汐里さん、お久しぶり〜。美波ちゃんは大きくなったねぇ」


 やってきた早々、騒がしい。


「おはようございます。ほら、雪也も挨拶して」


「……おはようございます」


 姉の永依子(えいこ)は元から活発だったが、長女の雫ちゃんは姉に似たようで溌剌とした女の子だった。確か六年生になってたはずだ。逆に雪也くんは大人しい性格のようで、雫ちゃんより一歩二歩後ろで控えめにしている。四年生のはずだが、その年頃にありがちな煩さが全くない。

 俺たちはとりあえず朝食を食べ、姉ちゃんたちは仏間へ挨拶に行く。

 その後は雑談を交えつつ外出の用意をして、姉家族と自分たち家族で墓地へ出発した。

 仏花と水、そして掃除用具。祖父母が昨日のうちにお参りを済ませたようなので、さほど汚れてはいないだろうが、まあ、気持ちだ。両親は仕事があるので今日は一緒ではない。

 墓地、と言っても徒歩で十五分くらいの距離にある、山の中のこぢんまりとした数基の墓石の集まりだ。当然だが近在の家の物で、最近では地元に残っていた年寄りが亡くなってその子供や親戚が管理者になっているが、遠方に住んでいるため地元の代理人が面倒を見ている家庭もあるらしい。

 午前中の日差しは強く、蝉の声も煩いくらいだ。子供達には帽子を被せているが、すでに汗でびっしょりだ。それでも美波を中心に三人で手を繋いで、仲良く会話しながらテクテクと歩いているのが微笑ましい。

 照り返しのきついアスファルトが終わり、轍の目立つ土の道を行く。道の両側は土手になっていて畑か田んぼが広がっている。遠くの山を見れば入道雲がモクモクと天に伸び、山と田畑の間には木々の緑がびっしりと群れていた。

 一見涼しそうな風景だが、風が吹いても熱風で、墓地に着く前にもう帰りたい気持ちになった。

 そういう訳にもいかないのでなんとか歩みを進め墓地に着くと、先客に気が付く。

 あの位置はヒロじいやんのトコの加瀬家の墓だ。遺族の他に袈裟を着た住職が念仏を唱えているのが見える。どうやら、前倒しで法要をしているらしい。


「浩暉〜、バケツに水汲んで〜」


 姉ちゃんに言われた通りに、墓地の片隅に設置してる水道で、誰でも使えるように置きっぱなしにしてあるブリキのバケツに水を張る。

 墓石の間を縫って実家の墓まで柄杓とたっぷりと水の入ったバケツを運びながら、横目でヒロじいやんの家族の様子をなんとなく窺う。当たり前だが特におかしなところは無い。

 向こうとの距離は八メートルくらい離れてはいるが、できるだけ邪魔にならないように子供たちに静かにするように言い聞かせ、俺たちは墓の掃除を始めた。とは言っても想像していた通り墓は綺麗に掃除が行き届いていたので、上から水をかけて拭き上げるくらいしかやることがなかった。


「? やだ、なにあの人……?」


 すでに花が生けてある花立に隙間を作りながら持ってきた仏花を生けていた姉ちゃんが、ちょっと離れたところにある木立の方を見て小さく呟いた。

 俺も釣られてそちらを見るが、隠れてしまったか立ち去ったか、誰かがいるようには見えなかった。


「なに? 誰かいた?」


「ん〜、知らん人。くたびれた感じの無精髭のおっさん。なんか、じーっとこっち見てたっぽいんだけど……。もういないね」


 俺の問いにそう答えた姉ちゃんの言葉を聞いて、昨夜、親父やじいちゃんに聞いた不審者のことを思い出す。


「なんか、不審者が出おるてゆうとった。気ぃつけろって」


「え〜、そんなの、先にゆうとってよ。こっち、子供連れなんやから」


「でも、もうおらんやろ? こっちは人数も多いし、離れたりせんけな大丈夫やろ」


 俺がそう言うと、姉ちゃんは渋々ではあるが納得してくれた。

 話はそこで終わり、作業の続きをして最後に持って来た水で水鉢の水を入れ替えると


「どうしてお水をそこに入れるの?」


と、美波が可愛らしく訊ねてきた。


「キレイなお水は、ご先祖様のご飯なんだ。お仏壇にお線香をあげただろ? あれと一緒だよ。お香の匂いとキレイなお水をお供えして、供養するんだよ」


「くよう?」


「『あの世で幸せになってください』ってお祈りすることだよ。そうするとね、その優しい気持ちを喜んだご先祖様が、この水鉢の水の水面に姿を見せてくれるって話もあるんだ」


「ふ〜ん。美波にも会いにきてくれるかなぁ?」


「美波は良い子だから、姿を見せてくれるかもしれないよ」


 俺の返事に「やった〜」と喜色満面で喜ぶ愛娘。

 雫ちゃんや雪也くんも、そんな美波を馬鹿にすることなく一緒に喜んでくれている。

 最後の仕上げに線香の束に火を付ける。


「さあ、お待たせ。お参りの準備ができたぞ。火傷しないように気をつけてな」


 言いながら順番に線香を数本ごとに配った。

 俺の分の線香を香炉に寝かせて入れて拝む。




────ずっと来なくて申し訳ありませんでした。これからも、いつ帰ってこられるか分かりませんが、帰れる時は帰ってお参ります。あの世から俺たち家族を見守ってください




「わたしもやる〜」


 美波がそう言って俺の隣にやってきた。 

 見よう見まねで線香を香炉に寝かせて手を合わせてナムナム言っている。可愛い。

 ナムナムが終わった美波が、そっと水鉢を覗き込む。本当にご先祖の姿が映るはずもないが、その仕草が可愛いなと和みそうになった瞬間、


「ぎゃあああぁぁっ! いやぁあああっ、怖いぃ〜っ!! ママぁ〜〜っ!!」


いきなり泣き叫んで汐里へ飛びついた。

 隣にいた俺ではなく咄嗟に母親に助けを求めたことに軽いショックを受けながらも、なにが起きたのか全く分からず、俺は美波を見つめた後、他のメンバーを見回した。

 いきなり飛びつかれた汐里は、張り付いた美波を受け止めていたが戸惑っていて、姉ちゃんも雫ちゃんも雪也くんも呆気に取られている。

 だがそれも美波の次の言葉でさらに困惑することになった。


「パパの嘘つきっ!」


 嘘!? なにが嘘だって言うんだ??

 俺は泣き続ける美波から視線をあげて汐里を見るが、妻も訳がわからないと言いたげに眉尻を下げて首を横に振る。

 姉ちゃんを仰ぎ見てもやはり首を横に振って、汐里の元へ行って美波の頭を撫でた。


「美波ちゃん、何か怖いことがあったの? 伯母さんに教えてくれない? 伯母さん、これでも強いんだよ。美波ちゃんを怖がらせたヤツをやっつけてあげる」


 なんとか場を和ませようとしてくれたのだろう。おどけた調子で美波から原因を聞き出そうと話しかける。


「お水……、怖い……の。……黒くて怖い人が……、映ってる……」


 嗚咽の合間にそう訴える美波。

 一瞬、なんのことかと思ったのは俺だけではなかったようで、汐里と姉ちゃんの二人と目を見合わせた。

 混乱する大人たちを他所に、雫ちゃんと雪也くんがなにを思ったのか俺の隣へ来て、ひょいと美波と同じように棹石の下を覗き込む。


「ヒッ!」

「っ!!」


 声にならない悲鳴をあげて二人は仰け反り、ジリジリと墓から遠ざかる。


「や、やだ、二人とも。なんなの?」


 姉ちゃんがそう訊くのへ、二人は震えながら一斉に指を指す。

 その先は……水鉢?

 水鉢がどうしたのかとさらに訊こうと口を開く前に、俺たちの騒動に気づいたもう一つの加瀬家の面々を引き連れて住職がやってきた。


「何事かおありかな?」


 住職の問いかけに俺は


「す、すみません。お騒がせして申し訳ないです」


と頭を下げる。


「いいえ、こちらはちょうど終わりましたから、お気になさらず。ただ、子供達の様子がおかしいので少し心配になりましてな」


 歳の頃は五、六十といった感じの住職はにこやかにそう言ってくれ、次に優しく雫ちゃんたちに尋ねた。


「何か良くないものでも見えたかな?」


 少し戸惑った様子を見せた雫ちゃんだったが、思い切った様子でこう返事した。


「み、水鉢に、黒い影が映って……。目、目が……、血走って大きく見開いた目がこっちを睨んでた……です」


 雫ちゃんに同意するように雪也くんも黙って必死にコクコクと頷く。

 そんな馬鹿なと思いつつ、だが美波も『黒くて怖い人』と言っていたのを思い出した。

 まさか、……まさかな。

 よせばいいのに、俺は信じられない思いと恐怖心と僅かな好奇心で傍らの、なみなみと新鮮な水をたたえた水鉢の水面をそっと覗き込んでしまった。




 美波は『黒くて怖い人』と言った。

 雫ちゃんは『黒い影』と言った。

 確かにそこに、本来映っているはずの風景を押し除けて、『黒い』何かがあった。

 澱んだ黒い輪郭の中に二つの禍々しい気配を発する目が、水鏡を覗くこちらを凝視している。

 その目は、これでもかと言うほど見開かれ、周りの黒い澱みの不確かさと比べるとやけに生々しく、そしてひどく血走っていて、それでいて光は無く、何かを、あるいは誰かを恨んでいるのか憎んでいるのか……。

 ああ、そうだ。恨みも憎しみもあるが、それ以上に悲しい(・・・)

 信じていた人に裏切られた。殺された。捨てられた。

 水底に沈み行く身体。水面を掴もうとするかのように伸びる()の髪。

 なぜ? どうして? 私が何をした?

 許さない、許したくない、会いたい、会えない、もう嫌だ、まだ何もしてない、諦めたい、もう一度、もう一度会って、会ったら私は……。

 ……あの人は、どこ? ここは、どこ?

 やめて、こんなところに閉じ込めないでっ! 出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して、出して……っ!




「しっかりしないさいっ!」


 バンッ! と背中を叩かれて正気に戻る。どうやら黒い影の狂気に呑まれかけていたらしい。

 ジンジンと痛む背中を無視して隣を見れば、いつの間にか住職がいて、彼が俺を現実に引き戻してくれたのだと解った。

 礼を言うために住職に顔を向けると、しかし彼は俺では無く水鉢を(まなじり)を上げて睨んでいる。


「あ、ありがとうございます」


「ああ、アレ(・・)と貴方はちょっとばかり波長が合うようだ。気をつけなさい。

 ところで、つかぬことを聞きますが、最近お家で葬式をお出しになりましたかな?」


「え? えっと……」


 俺の知る限りで親戚連中を含めても二十年は出していないはずだが、不安になったので姉ちゃんを見ると、姉ちゃんも首を横にフルフルする。


「いいえ、うちは祖父母がまだ元気ですし、曽祖父母が亡くなったのは三、四十年は前でして……」


「ではお宅に縁付いておる者では無いでしょうな。若すぎる」


 そう言ったっきり、住職は何か考えだして眉間に皺をつくった。

 そうやって押し黙ってしまったので、ヒロじいやんのところの加瀬家の者たちが立ち去ることもできずに、所在無げに俺たちの外側に立っている。

 俺たちも、どうすればいいのか分からずに立ち尽くした。空気を読んでか、子供たちも大人しく事の成り行きを見守っている。

 どのくらいの時間だったろうか。

 炎天下なのもあって長く感じたが、実際はさほど経っていなかったかもしれない。住職がおもむろに口を利いた。


「仕方がない、中を改めたほうがよいと思うが、開けてもよろしいかな?」


「え? あ?」


「納骨室を調べさせて頂きたい」


「それは、必要なことなんですね?」


 いまいち飲み込めなかった俺がモタモタしている隙に姉ちゃんがそう訊くと


「そうです。今すぐに解決したければ、今、確かめるのがよろしいでしょう」


住職は何かを確信してるように答えた。


「ではお願いします」


 姉ちゃんの即決で納骨室を開けることになったが、問題が一つある。


「あ、うちの納骨室は地下じゃなくて棹石の下の部分にあるんです」


 蓋石は簡単に動かせないように、それなりに厚みのあるかなり重い御影石で、プロが使うガラス吸盤のような強力な吸盤でないと動かせない。もちろん吸盤は実家にあるが、もう長いこと使っていないので劣化してるかもしれない。


「それならうちにあるのを貸すよ。淳一、ひとっ走りして持ってこい。場所は分かっとるな」


 もう一つの加瀬家の家長である満雄さんが躊躇いもなくそう言ってくれた。

 むこうの加瀬家の墓も同じタイプなので持っているのだ。しかもこの墓地から俺実家より近いところに家があるので、俺が取りに戻るよりずっと早い。

 満雄さんの孫である淳一くんは高校生で、陸上部だと聞いたことがある。だからだろう、汗だくになりながらも五分もかからず帰ってきた。


「じいちゃん、最近これ使(つこ)た? 物置の棚の(べっ)とこに置いてあったで。すぐ見つかったから良いけど」


 汗を肩で拭いながら淳一くんはそんなことを言ったが


()さんぬ納骨してからは触りもしとらん。それより、ほら、浩暉くんに貸したれ」


満雄さんの返事は素っ気ないもので、促された淳一くんは吸盤を差し出した。

 受け取った吸盤を蓋石にくっ付けてグッと引っ張る。重い石がズズズ……っとずれたので、そのまま邪魔にならないところに立て掛けた。

 蓋石のところにぽっかりと開いた口の向こうに、いくつか骨壷が入っている。

 住職が屈んで中を確かめた。


「ここにはどなたが納められていますか?」


「えっと、曽祖父、曽祖母、伯父、大叔父、曽祖父の姉の五人です」


「ふむ、一人、多いですな」


 えっ? 住職は今、なんと言ったか。一人多い? そんな馬鹿な……。

 住職は念仏を唱えながら納骨室に手を入れる。


「どなたか警察に連絡をお願いします」


 そう言いながら住職が慎重に取り出したのは、ツルツルに光る真新しい円柱形の骨壷だった。

















 津田有里沙(ありさ)、享年二十三歳。

 それが、我が家の墓にいつの間にか紛れ込んでいた骨壷の主だった。


 あれからやって来た警察に説明やら事情聴取やらで大変だった。

 女、子供は早々に解放してもらったが、何度も同じ話をして流石に疲れてしまった。ただ、それでも住職がいてくれたおかげで本来よりは拘束時間が短かったようでもあった。

 なんにせよ、あの、霊障のような現象はさすがに話せない。その辺りは住職がうまい具合に嘘にならない程度に誤魔化してくれたようだ。

 とにかく状況を理解した警察は行動が早かった。

 元々、事件なんてほとんど起こらないのどかな田舎だ。不審者情報もあったので、翌日には容疑者は確保された。

 容疑者である男も、目的を遂げたならさっさとこの土地から去ればいいのに、どうにも気付かれないかが気になって、様子を伺っているうちに逃げる機会を失っていたようだ。

 容疑者の名前は津田修治。

 ヒロじいやんの再従姉妹(はとこ)の息子で、日雇いで職場を転々としている男。最近、近所で目撃のあった不審者本人でもあった。

 津田は妻とは離婚していて一人娘がいたが、その娘が悪い男に引っ掛かって非業の死を遂げたそうだ。

 ここ一年以内の話で、娘を殺した男はすぐに捕まって事件自体は解決している。

 娘は簡素な葬儀のあと荼毘に付されたが、ここで津田に困ったことが起きた。

 津田自身が家族縁に恵まれなかったこともあって親族はなく、本人はその日暮らしの貧困。娘のために墓をと思っても、納骨堂に納めることすらままならない収入。

 いっときは手元に置いていたらしいが、毎日目にすればさすがに陰鬱になる。なんとかしなければと考えて、思いついたのが自分の親戚筋に代わりに供養してもらうことだった。

 とは言っても津田は母子家庭で育って父方の親戚は全く知らない。母の旧姓が加瀬なのは分かっていたので、役所でなんとか戸籍を辿った。

 そうやって苦労してたどり着いた加瀬家では、運良くというべきか二年前に法事があったらしい。それならこっそり墓に遺骨を入れてしまえば自分の娘も一緒に供養してもらえるとの考えに至った。

 なにせ親戚筋といっても母方で、さらに、もはや他人と言ってもいいくらいには血筋は遠い。正直に供養を頼んだところで門前払いされるだけだと分かっていた。

 そして津田はその少し狂った考えを実行に移した。

 無人駅に野宿しながら加瀬家周辺を数日探り、墓の構造を知り、加瀬家から吸盤を拝借してまんまと娘の遺骨の入った骨壷を墓に納め、吸盤はこっそり返した。

 この時期の姿を住民に見られていての不審者騒ぎだったらしい。

 一応目的は達成したが、三回忌法要の時にバレはしないか、他の墓の家の者に気づかれはしないかと気になって、お盆の間は墓地に通い近くの木立から様子を伺っていた。それを目撃したのが俺の姉だったわけだ。

 ここまでの話で「おや?」っと思った。俺だけじゃなく、話を聞いた関係者はみんな例外なく呆れを通り越して脱力してしまった。

 そう、津田は墓を間違えた(・・・・・・)

 実はこの墓地、我が家と満雄さんのところ以外にも加瀬家の墓がいくつかある。田舎の墓地では割とあることだ。

 ともかく、何を根拠に判断したのか分からないが、津田はヒロじいやんの墓に入れるつもりで我が家の墓に娘の骨壷を納めてしまったのだ。



 そして、ここから先は住職から聞いた話になる。



 津田の娘、有里沙さんは前述した通り男に騙され殺された。どうやら泳げないのに池だか湖だかに落とされ、溺死したのだそうだ。

 男の計画は杜撰ですぐに逮捕に至ったわけだが、件の有里沙さんがそれで浮かばれる訳もなく……。

 そういうものが視える住職によると、男に対して恨みつらみはあったらしいが、それ以上に有里沙さんは深い悲しみに囚われていた。その悲しみは津田の精神に悪影響を与え、本能で危機を察知した津田が無意識に有里沙さん本人を遠ざけようとして今回の騒動に発展したとのことだった。

 有里沙さんは縁もゆかりも無い墓に入れられて、出して欲しい一心でいっぱいだった。恨みも憎しみも悲しみも抱え、それ以上に自分を騙した男に対する執着もあって、水鉢の水面に映り込んだのを美波が視てしまった。雫ちゃんと幸也くん、そして俺も……。

 住職曰く、俺は有里沙さんと波長が合うらしい。それで精神的にも引き摺り込まれそうだったのを助けてもらった訳だ。


「これも何かの縁でしょう」


 そう言って住職は有里沙さんの遺骨を引き取った。あの父親ではこの先、どれだけ時間が経とうと墓の用意はできないだろうし、その父親がいずれ亡くなればどのみち供養する者はいない。だから住職の寺の永代供養墓で合祀するそうだ。

 俺たちは、休みが残っていたが早めに切り上げて自宅へ戻った。

 美波にトラウマが残りはしないか心配だったのと、俺自身も精神的に疲労していて、自分のテリトリーでゆっくりする時間が欲しかった。

 幸いにも美波はあの出来事を忘れたようで、自宅から行ける距離のショッピングモールや遊園地に連れて行けば、元気に遊んでくれた。

 汐里によると、あまりに怖かった思い出なので心を守るために記憶を封印したのではないかと。

 トラウマになったと言えばそうなのだろう。いつかのタイミングで思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれない。

 できればずっと思い出さないで欲しいし、俺も汐里も、もうあんな目に遭いたくはない。

 俺の盆休みは終わり、仕事に出勤する日々が始まり忙しくしている。

 まだまだ暑い日差しの中、蝉の鳴き声に茅蜩(ひぐらし)の声が混じり始めた。










 世間ではそろそろ夏休みも終わろうとしている。




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