私は、……
案外、こういうのが電波系っていうのかも知れません(笑)
「はあ……はあ……はあ……」
シャワーの音だけが鳴り続けていた。浴槽には栓がされていないため、いつまで経っても湯が溜まることはない。
浴室の中には、私と彼女の二人だけ。
彼女は、その両の目を見開いたまま、顔面にシャワーを浴び続けている。目と同じく、開きっぱなしの口からは許容量を超えた湯が溢れ、流れ出ていた。
彼女の白いセーターの、その真ん中には文化包丁が深々と突き刺さり、そこを中心に赤い染みが拡がっていく。
「どうしよう。どうしようどうしよう……」
やってしまった。こんなつもりじゃなかったのに。
後悔先に立たずとはこのことだ。彼女の一言に、ついカッとなって刺してしまった。
「なんで。なんでこんなことに……」
そうだ。元はと言えば彼女がいけないのだ。彼女が彼に言い寄らなければ、私はこんなことをせずに済んだのだ。彼は……私だけの彼なのに。
しかし、そんなことをいくら考えた所で仕方がない。とにかく目の前のこれをなんとかしなければ。
──だが、なんとかするといっても、具体的にどうすればいいのだろう。死体の処理などしたことがない。当たり前だが。
ものの数秒考えこんで、私は、とにかくまずはシャワーを止めることを思い付いた。
すぐそばにある蛇口を捻る。シャワーは止まらない。捻る方向を間違えたのだろうか。逆向きに捻ってみる。止まらない。
「どうして!? なんで止まらないのよ!?」
私は、狂ったように蛇口を捻り続けた。しかし、シャワーは止まらない。そして──
「明美?」
背後から声を掛けられ、心臓がビクンと跳ねる。
強張った身体で無理矢理に振り返る様は、ゼンマイ仕掛けのロボットのようだったろう。
そこには、紛れもない彼──日下誠の姿があった。
「……あ……誠。……これは……その」
状況を上手く説明できずにいる私の肩にそっと手を乗せて、誠は優しく微笑んだ。
「大丈夫。何も言わなくていいよ。とにかくここから出よう。このままじゃ風邪をひいてしまう」
そう言うと、すぐさまレバーを引いてシャワーを止めた。
「さ、とにかくこっちへ」
私は誠に言われるがまま、リビングへと戻った。
いつものようにソファーに腰掛け、紅茶を飲みながら電話をしていると、いくらか気分が落ち着いてきた。
「どう? 少しは落ち着いた?」
ケータイから誠の声がする。優しい、あたたかい声。
「茉莉子は気にしすぎなんだよ。あれぐらい誰でもやってるよ」
そうなのだろうか。誰もが他者の命を奪っている?
「でも……赦されることじゃないよね」
「うん。赦されないね」
悲しくなった。その言葉は死刑宣告に近かった。
「……でも……でもね、許せなかったのよ。あの子、誠と付き合うことにしたって。私から奪うって。親友だと思ってたのに」
「よく言うわ。その親友を平気で殺しておいて。ねぇ、嘉穂」
気がつくと、真横に彼女が立っていた。べっとりと貼り付いた前髪を後ろに掻き上げながら、真っ直ぐ私を見下ろしてくる。
「キャーーッ!!」
私は、壁際に逃げて彼女のことを凝視しながらケータイに叫んだ。
「助けて! 助けて、誠!」
そんな私に、呆れ果てたと言いたげな視線を向けて彼女は言った。
「誰なのよ誠って。いい加減にしなさいよ。……いい、紗智? 誠なんて奴は最初からいないんだよ」
信じられないことを言う。現に私は今もこうして彼と電話で話しているではないか。
しかし、そう言えばさっきから返事がない。聞こえるのはプーップーッという妙な音だけだ。
私は、誰と話していたのだろう。今となってはそれすら思い出せない。
「ほら、言った通り。いつだって私が正しかったでしょ?」
そう。こういう態度に腹が立つのだ。親友だのなんだの言いながら、私のことを馬鹿にして、見下して!
「だから殺した?」
無表情に訊いてくる。しかし、私は答えられなかった。
「ふふふ、冗談よ。香織ぃ、そもそもあんたは私を殺してなんかない。だって、私という人間は最初から存在していないんだもの」
彼女はそう言い残して姿を消した。私の目の前で文字通りパッと消滅してみせた。
部屋の中には、私だけが残された。ベッドと小さなテーブルだけの部屋。
そこに一人取り残された私。
念のため、浴室を覗いてみたが、そこにはなにもいなかった。
虚しくて仕方がなかった。親友も彼も最初から存在などしなかったのだ。
こうなると、ただ一人確かな存在であるはずの自分でさえ、ひどく曖昧なものに思えてくる。今更、存在の確かさなんてどうだってよかったのだけれど。
ふと、生きている意味なんてものを考えた。どれだけ考えても、一つたりとも見つからなかった。
急に、何もかもがどうでもよくなった私は、手近にあったナイフを自分の喉元に突き立てた。
ブスリと刺さったナイフ。しかし、なんの感触もありはしない。指先で触れれば、確かに刺さっていることが確認できた。なのに、痛みもなく、苦しくもない。血が噴き出す気配もない。
私は、怒りに任せて勢いよくナイフを引き抜いた。
そして、そのまま左胸へ。何度も何度も刺し貫いた。だが、何度やっても結果は同じだった。
一体なぜ死ねないのだろう。考えてみる。
この、右手に握っているこのナイフが、実は存在していないのではないだろうか。
あるいは、この右手が存在していないのではなかろうか。
はたまた、存在していないのは私自身なのではないか。
いや、もしかしたら、そのどれもが。
その時、私はひとつの可能性に気づいた。信じたくもない、できれば嘘であってほしい、そんな可能性に。
「ゥアア゛アァァッ」
私はナイフを無茶苦茶に振り回した。壁に、家具に、無差別に切りつけた。それらは、抵抗なく切り刻まれ、そのまま消滅していった。
私は、ようやく悟った。
霧散していく身体を眺めながら、景色を眺めながら、小さく呟いた。
「なぁんだ。なんにもなかったんだ」
ダメ出し、クレームお待ちしています(汗