やり直しすぎた悪役令嬢は、皇子の溺愛に気付けない
窓の外からピチチと聞こえる小鳥の囀りで、私は目覚める。
──また、はじまった。やり直しが百回を過ぎたころには、何度目か数えるのも止めてしまったけれど。
「おはよう、マリア。今日の着付けは自分でするわ」
「は……? はい!?」
部屋の外に向けて声をかければ、戸惑いがちな返事が聞こえ、そこに控えていた侍女のマリアが慌てた様子でドアを開ける。
ほぼ同時にベッドから跳ね起きた私が、空中で高速横回転しながら彼女の前に着地したときには、すでに寝間着から菫色のドレスに着替えを完了していた。
何度目かのやり直しで私を暗殺した男が、東方の忍術なる技を使う暗殺者だったので、その次の回に大金を積んで弟子入りし、数十回かけてこれを極めたゆえの芸当だ。
この技のおかげで、大抵の暗殺はさくっと防げるようになった。まあ暗殺を防げたところで、結局は断罪されて首を刎ねられるのだけど。
──そうしてどんなに足掻いても、今日より一年後までには何らかの形で命を落とす。それが、幾度やり直しても変えられなかった運命。
どうやら私は、とてつもない凶運の星の下に生まれてしまったらしい。
「はえっ……エリーゼお嬢様……これは、いったい……」
ようやく理解力が現実に追いついたマリアは、整った顔を戸惑い一色に染めながら問いかけてきた。いつも通りに。
「実はね、私ずっと本気を隠していたの。でも今日から全力で生きることにした。あと昨日までいろいろ我儘で困らせたことも謝ります。本当にごめんなさい」
私は腰まである黒髪を前に垂らして、深々と頭を下げた。
「そそそのような!? おやめ下さいお嬢様、私のほうこそ、ずっとおそばに居たのに気付くことできず……」
「──それじゃ、お互い様ってことにしましょ!」
マリアが謝罪をはじめたのを見計らって勢いよく顔を上げると、目を白黒させる彼女の花のような唇に人差し指を添えて話を終わらせる。
ごめんだけれど、もうやり尽くしたくだりだから、どんどん先へと進めさせてもらう。
「…………わかりました」
きっと疑問はまだまだあるだろう。けれど、これでマリアは飲み込んでくれる。これまでの繰り返しの中で、どんな展開になろうとも三つ年上の彼女だけは最後まで絶対私の味方だった。
ほんとうに最高の侍女──いいえ、姉妹以上のかけがえのない存在。感謝しかない。
マリアが大鏡をこちらに向けてくれた。
髪も一人じゃ結えないくせに、プライドばかり堆く積み上げた世間知らずの初回と変わらない、華奢で色白な十八歳の小娘──
公爵令嬢にして五人の皇妃候補の一人──エリーゼ・ヴィオレッタが、やがて狡猾な女狐のしるしと疎まれる切れ長のツリ目で、鏡の向こうからまっすぐ見詰めてくる。
その瞳の琥珀色だけが、これまでくり返した分の深みを湛えていた。
「よし」
私は静かに呟いて、鏡像とうなずき合う。はじめよう、今度こそ最後の人生を。
◇ ◇ ◇
「はい、そこまで」
私のかけた言葉に、男は汚いお尻を丸出しのまま振り向くと、目を剥いた。
「はぇ!?」
無理もない。内側から施錠した小部屋に突然、覚えのない女──つまり私が現れたのだから。
「…………くっ曲者ッ!」
たっぷりニ呼吸ぶん硬直してから男は、ズボンと一緒に床に脱ぎ捨てた剣に手をのばし、抜刀しながら立ち上がる。
判断が鈍すぎる。私が本当の曲者なら、とうに斬り捨てられている。
「どの口が言うか、痴者」
私はぴしゃりと言葉を返す。
だらしない巨腹に組み敷かれていた年若い下女が、すすり泣きつつ小部屋の隅に這い逃げるのを目の端で捉えつつ。
「ッ……だまれだまれっ!」
男は激昂し斬りかかってきた。
その見飽きた太刀筋には、忍術を使うまでもない。右半歩だけ下がった私の頬すれすれを、刃がかすめ空を切る。
バランスを崩して前のめりになった足元に爪先を軽く引っかけてやれば、勢いのまま倒れ込んだ男は、顔面を床に強打して「ぷぎょ」と情けなく鳴いた。
「白昼城内での破廉恥な所業に飽き足らず、お妃候補たる私に刃を向ける。明るみになれば何もかも失うことでしょうね、近衛大臣どの」
「……お妃……? ではそのドレスの色は、ヴィオレッタ家の……? お……お待ちを……見逃していただけるなら金でもなんでも……もちろん、お妃選びについてもご助力を……」
「ええ。じゃあ早速、私のお願いを聞いていただこうかしら」
冷えきった声色で囁きながら、拾い上げた彼の剣の尖端で汚いお尻をちくちく刺す。
そのたび、びくんびくんと全身を震わせては「おふゥ」などと妙な声をあげた。
「はっ、はひ……仰せの、ままに……」
屈みこんで耳元に囁く私の「お願い」に、ひたすら頷く。実はこの瞬間に、秘めていた被虐性癖が開花した彼は、以後すっかり私の言いなりになる。
これがまあマリアの次くらいに信頼できて役立つ協力者になるのだから、なんとも複雑だ。
「ではこれにてッ……!」
大臣が服を整えながらそそくさと小部屋を出ていくと、部屋の隅で怯えていた下女は、おずおずと礼を伝えてきた。
「あの……ほんとうに、ありがとうございます。どうお礼をすればよいか……」
「気にしないで、もののついでだから。そうそう、あなたは紅を取りにきたのよね」
「えっ? ええ、はい」
「じゃあ、それをすこしいただけるかしら」
彼女は備品を収納するこの小部屋から、食紅を取ってくるよう言いつけられたのだ。
そしてなぜか待ち伏せしていた大臣に手篭めにされかけた。おおかた、上の人間に金でも握らせたのだろう。
私はそれを更に、棚の隙間に隠行して待ち伏せしていたわけだ。
下女がうやうやしく差し出した小箱から、鮮やかな紅を小指につけて唇に塗る。紅い炎のように。
「すてきです」
「ありがとう。悪いようにはしないから、ここでのことは内緒にしてね」
うっとりこちらを見つめる下女の、ほんのり紅潮した頬の輪郭を手のひらでそっと撫でる。彼女は素直に頷き返した。
彼女の名はメイといって、とても料理上手な女の子だということを私は知っている。彼女が恐ろしい目に遭う前に救うこともできたし、そうしたこともある。
けれど今回、私は大臣の弱みを握るためにそれをしなかった。
罪悪感なんてとうに涸れているけれど、いずれ何かで埋め合わせするから。
──さあ、これで準備は整った。あとは決心を極て、あの御方と対峙するだけ。
◇ ◇ ◇
小部屋から出て、本来なら案内人なしではたちまち迷子になる入り組んだ通路を、真っすぐ前だけ見据え、迷うことなく進んでゆく。
途中で一度だけ足を止め、中庭に面した大窓を左右に開け放つ。
抜けるような青空が目に染みる。
待ち構えていたように私の耳元でバサバサと羽音を響かせ、何かが外に飛び出していく。目で追えば、空に向かって羽ばたく一羽の小鳥。上空でもう一羽と合流し、ピチチと鳴き合い旋回して、飛び去っていった。
自然と、頬がゆるむ。
ここに初めて来たときも、窮屈そうに城内を飛ぶ小鳥に気付き、渋い顔をする案内人を待たせて、引き戸から青空に解き放ったものだ。
それがなんの意味も持たない行動だと、私は知っている。何羽目かはもう覚えていないけれど、そろそろ願いを空に届けてくれてもいいのよ。
ちなみに今日は案内人に会っていない。なにせ正門を通らず、皇族しか知らない地下の隠し通路で城内に潜入したから。そして案内役には今ごろ近衛大臣から「今日の謁見はとりやめになった」と伝わっているはず。
再び迷いなく歩を進める。何度かの岐路と階段を経て、計算通り誰ともすれ違うことなく、目的の部屋の前に辿り着いた。
皇子の執務室。両開きの大扉の左右に、本来は控えているべき侍従の姿はない。これも、近衛大臣より急遽の交代が伝えられたから。
「──失礼いたします」
自身で左右に扉を開く。部屋の中に一歩踏み出し、後ろ手で閉じる。
書物棚の並んだ広いそのの奥に見えたのは、中庭に面して大きく開いた窓から覗く青空を背景にして、窓枠に背をあずけ横向きに腰掛けた人影。
逆光のなか浮かぶ横顔の、鼻梁から頂までの優美な稜線に捉われる視線を引きはがし、深々と礼をする。
「お初にお目にかかります。エリーゼ・ヴィオレッタにございます」
国皇は神の子孫とされ、夢の中に現れる神の言葉を代弁して国政を執り行う。そして国皇の齢が五十を越え、皇子が二十五歳を迎えると、皇位継承の神託がある。
現皇はすでに六十歳手前、皇子はつい先ごろ二十五歳になられたところ。
早ければ、今日明日にも神託は下される。
そしてお妃選びが急がれ、基本的に私が選ばれる。
皇位継承が執り行われ、その後に予定されていた婚礼の前までには必ず、私は死ぬ。
「ああ……早かったね」
背にした青空自体が発したような爽やかで大らかな声が、耳をふわりと撫でる。
そこに混じるわずかな驚きの色。声だけで、彼の感情は手に取るようにわかる。だって──。
「僕がアイアスだ」
窓枠から軽やかに降り立った彼が、そのままの足取りで歩み寄ってくる。
私はゆっくり視線を上げる。
細身の衣装が、すらりと長い脚を際立てる。
藍色の羽織の丈長な裾をなびかせ、逆光から抜け出したお顔立ちは、高貴な血筋を体現するように端正で。そのなかに、春の日差しのようにやわらかな微笑みが浮かんでいる。
「逢えてうれしいよ、エリーゼ」
こちらに穏やかな視線を向ける双眸は蒼く澄んで、背後の空が透けたと見紛うほど。
そんな彼の輪郭がきらめいて見えるのは、けっして幻覚ではなくて、長く真っすぐな白銀の髪が陽光をまとっているからだ。
──そうして私は、また恋に落ちる。
記憶はずっと残っている。他のことならぜんぶ慣れた。けれどこの瞬間の、胸を絞めつける甘い息苦しさだけは、何度でも上書きされてしまう。愛しさが何層も重なっていく。
「そんなに、かしこまらないで。こっちも緊張してしまうよ」
「……はい……」
変わらぬ優しい言の葉。やわらかなまなざし。
蝶よ花よと甘やかされて、欲しいものは何でも手にしてきた初回の私はこのとき、皇子の心も絶対に自分のものにすると決めた。
だから残り四人の皇妃候補たちを手段を選ばず蹴落として、正当なお妃の座を手に入れた。
あのときの私はまるで、物語に出てくる性悪な悪役令嬢さながら──いいえ、そのものだった。
けれどそれらの陰謀が婚礼直前に露見して、私は断罪される。今日からちょうど一年後、処刑場で首をはねられる。
『ざまぁ見なさい、この女狐』
執行日。面会に現れた、皇妃候補の一人で幼馴染のリリアンが、ふわふわに愛らしい顔を歪め吐き捨てた言葉は、いまだ胸の奥底に突き刺さっている。
冷たい刃が首を通り抜けて意識が暗転したあとすぐ、小鳥の声で目覚めた私は、自室の寝台の上で涙を流しながら感謝した。
神様がやりなおす機会を下さったのだと。
だからその二回目は、断罪されず皇子と結ばれる、完璧に幸福な結末を目指した。
初回での知識と経験は活かしながら、陰謀には手を染めずに正々堂々と。
すると半年も経たず私は、かつて自分がそうしたように対立候補陣営の謀略に陥れられ──首を刎ねられ、鳥の声と共に寝台で目覚めた。
どうやら初回の私は知らぬ間に、陰謀をもって陰謀を制していたらしい。
そうして次も、その次も、その次の次の次も、どんなに頑張っても一年後には命を散らす。
やがて、これは初回の罪の贖いとして善行に励むべきなのかという考えた。
弱きを助け強きを挫く、そんな行いをしていると、皇子も自然と私のことを好いてくれたし、民たちからも愛された。
私にとっていちばん自然な生き方は、これだとさえ思えた。
『……あれは都合が悪い……皇子を惑わす女狐じゃ……』
──結果、権力者たちに疎まれ、陥れられて首を刎ねられた。
それなら悪しき権力者どもを根絶やしにしてしまおうと何度も試したけれど、いくらやっても、より根深い闇が姿を現す。
対抗してより強い力を求めた私は、次第に目的を見失っていく。
まあ、おかげで皇国の権力者の、ほぼ全員の弱みが私の手の内にある。
その気になればどいつもこいつもすぐ私の言いなりだ。
ただし、それが巡り巡って自分の首を絞める──というか刎ねることも、身をもって理解している。
そう、すべての選択に正解などないと悟ったのは、忍法を修めつつ、もはや繰り返しの回数を数えるのはやめて、美食を極めたり筋肉を付けたりと迷走した後。
最善手と思える選択肢が、後々に最悪の結末の呼び水になる。
やむを得ず選んだ悪手が、いずれ窮地を脱する鍵になる。
無数の運命の糸が複雑怪奇に絡まった、それこそが人生だと。
だから、まるで皇棋の盤上のように、何手も先まで読み通さなければならないのだ。
──ちなみに皇棋とは、兵種に見立てた駒を取り合う遊びの中で用兵術を磨く、伝統的盤上遊戯のこと。
というわけで私は皇棋の名人に弟子入りし、未来を見通す手段を得んとしていた。
何回目からか強すぎてイカサマを疑われたり、兄弟子に嫉妬されて殺されかけたりしつつ。まあそのころには忍びの技を身に着けていたから、あっさり返り討ちにしたのだけれど。
「──大丈夫? 良ければ座って、すこし話そう」
つい感慨に耽り黙り込んだ私の顔を、首をかしげて覗き込むのは、心配そうに眉根を寄せたお顔。絹糸のような白髪がさらりと肩から胸に流れる。
「いいえ、もったいのうございます……」
私が何回やり直して新しい知識や技能を身に着けても、彼は変わらず温かく接してくれた。けれど、ひとつだけ気になることがあった。
あまりに小さな変化だから、はじめは思い過ごしだと流していたけれど。
初回の彼の髪は艷やかな黒だった。
そこから白髪がほんの数本ずつ、でも確実に増えていった。
伴って、ほんとうに微々たる変化なのだけれど、すこしずつ顔色も青白く覇気も失われていくように思えた。
それでも優しさだけは、ずっと変わらなかった。
くり返しのなか、やがて皇子はときおり病に伏せるようになった。
だから彼を癒すために最新の医術や古今東西の薬学、気功から仙境の秘薬(これは無駄足)まで、健康にかかわるものを、くり返しのなかで片っ端から修得した。
最先端の知識を持ってやり直し、医学を数十年分は進歩させることができた。
おかげで自身が病で時間を無駄にしたりすることはなくなったし、流行り病もすぐに収束させられるようになった。
けれども、皇子のゆるやかな衰弱は癒せなかった。
そのころになると、もはや誰も私を陥れることなどできなかった。すべてを先の先まで見通した振る舞いで、完璧な日々を過ごしていった。
今度こそ一年を越えて生き延び、この繰り返しを終わらせる。
皇子の衰弱も、これで終わりにする。
──そして私は、呪い殺された。
何の予兆もなく大量の血を吐いて倒れ、小鳥のさえずる寝台に直行。
さすがにこれは難関だった。手掛かりがまったくないのだから。
何はともあれ呪術を学びはじめた私は、その基本として人が宿す魂──生命の輝きを見定める瞳術を身に着けた。生命は光の流れとなって、下腹のいわゆる丹田から全身を循環している。
この流れを外部から何らかの手段で阻害するのが「呪い」というわけだ。
そうして私は気付いた。皇子の体を巡る光の経路のところどころに絡みつくような、ひび割れがあること。そこから光が外に漏れ出ていること。どうりで、あらゆる妙薬さえ効かないわけだ。
しかも、ひび割れは私がやり直すたび、少しずつ増え、広がっていた。
そのことに気付いたとき、私は愕然とした。
きっと、これまでもずっとそうだったのだ。
私のやり直しが、愛しい皇子の生命を削っている。あるいは、それがやり直しの代償なのかも知れない。
その瞬間、猶予はなくなった。
なんとしても、やり直しを終わらせねばならない。
「──遠慮することはないよ。我らは夫婦になるやも知れぬのだから、対等だと思ってくれていい」
いま、目の前で柔らかに微笑む皇子。見詰めると浮かび上がる生命の経路には、もはや隈なくひび割れが走っていて、いつ粉々に砕け散ってもおかしくない状態だ。
呪いの主はなかなか見つからず、皇子がこんな状態になるまで、私は更にやり直しを重ねてしまった。少しでも恨みを抱きそうな相手をしらみ潰しにしたけれど、呪いの痕跡さえ見付からなかった。
だって、わかるはずもない。
侍女のマリアが涙ながらに伝えてくれなければ、永遠に気付けなかっただろう。
『おまえなんか私の娘じゃない! おまえの中身はおそろしい女狐! おまえを殺して、私のエリーゼをとり戻す!』
半狂乱で彼女は言った。
そう、呪いの主は私の実母だった。
私が別人のように変わってしまったことを、彼女は魔物にとり憑かれたせいだと思い込んで、娘を救うため呪術に手を染めたのだ。
怒りも、恨みも、哀れみもなかった。
ただ母の深い愛に涙が溢れた。とうに涸れたと思っていたのに。
抱きしめる私の胸を、彼女は懐刀で貫いていた。
──これが私の、最新の最期だ。
「心、ここにあらず、か」
「いえ、決してそのようなことは」
そうして私は決めた。次の一回に運命のすべてを賭けると。絶対にこのやり直しで終わりにすると。
「ただ、その……いえ、とても申し上げられるようなことでは……」
私は目を逸らして、言い淀む。もちろんわざと。こんな言い方をされて、そのままに出来るわけがない。私の大好きな彼はそういう人だ。
「いいから、何でも話してくれ」
「それ、では……」
真摯な眼差しを、痛いほど肌に感じる。ここで終わらせる。私の何より大切なものを──皇子の生命と、母の心を守るために。
「さきほど殿下が私に向けられた、嘗めまわすような目に……ぞっとしてしまって……」
私は搾りだす。偽りを塗り固めた言葉を。
もし案内人が立ち会っていれば、停められているだろう。でも今この部屋の周辺には誰一人いない。私がその状況を作ったから。
「そのお顔も、声も、仕草も、すべてがおぞましく……いまにも……胃の中のものが、込み上げてきそうです……」
ちらりと盗み見た彼の表情は、歪んでいた。
とうに鋼で打ち直されたはずの心臓が、それでもねじれて痛む。そのまま、ねじ切れてしまえば楽なのに。
「ああ……………そうで、あったか。それは、とても済まないことをしたな」
殿下の声は、驚くほど弱々しかった。
それから、世間話めいたことを二言三言は交わしただろうか。
胸の痛みと涙をこらえるのに必死で、あまりよく覚えていない。そんな姿も殿下にはきっと、それほどまでに自分を忌み嫌っていると映ったことだろう。
我に返ったときにはもう、城の外にいた。どうやってここまで来たかも、もはや思い出せなかった。
──これで、いいの。
今日を限りに私、エリーゼ・ヴィオレッタは二度と皇子と会わない。悪人たちにも関わらず、弱きに手を差し伸べることもしない。ただのヴィオレッタ公爵令嬢として、平穏に生きる。
それが、皇棋で磨いた先読みで、数多の可能性の中から導き出した最適解だった。
ほどなくして、遣いがやってくる。皇妃候補を立ててのお妃選びを廃止せよとの神託が下ったという。ゆえに現在の候補五人全員の資格もすべて白紙にすると。
やり直しの過程で、私は知っている。
神託と呼ばれるものが、実際は皇族の支配力を補強するためのまやかしだという最高機密を。
その内容は高官たちと相談して決められ、あくまで政治的に交付されるものだった。
だから都合よく私の資格だけ取り消すこともできるのに、それでは哀れと思われたのだろうか。まったくどこまでも優しい御方だ。
ちなみに、神託がまがい物だとしても国皇は決してお飾りではない。
神の血を引く国皇は、その命と引き換えに神の「奇蹟」を行使できると伝えられている。
かつて海向こうから来襲した、大帝国の無敵艦隊。これを一夜で海の藻屑に変えた神の怒りの如き暴風雨と、命を捧げそれを呼び起こした若き国皇の伝説は、幼子でも知っている。
いわば神皇国を守るための安全装置──それが国皇という存在なのだ。
だからこそ、私は彼のそばに居たかった。
アイアス様が「奇蹟」に命を捧げることなどないように、お守りしたかった。何があっても最後まで、伴に。
──けれど彼と私の時間は、今日までも、今日からも、別々の道を進む。
◇ ◇ ◇
それまで重ねたやり直しと比べたら、時の流れはあっという間……などということは、ぜんぜんなくて。何が起きるかわからない初めての日々は、新鮮な驚きに満ちて、たくさんの思い出を私のなかに残していく。
程なく学舎の教手となった私は、ありあまる知識と技術を、国の未来を担う子供らにたっぷり伝えた。
国皇となられたアイアス様は、古びたしきたりを取り払って偏った権力を解放し、横行していた汚職の数々も白日に晒していった。
その清廉なる改革は国民たちから大歓迎されたけど、既得権益にしがみつく古狸どもから猛烈に反発された。
けれども、殿下は見事に改革を成し遂げられた。
これは風の噂だけれど、その影では謎の怪人が暗躍していたという。
東方風の白い狐面をかぶり男装したその女は、どこからともなく現れて悪人を懲らしめ弱者を救い、幻影のように去っていくという。
彼女はなんでもお見通しで、悪人どもはいつの間にか弱みを握られ追い詰められる。しかも、屈強な用心棒を何十人けしかけようが、華麗に無双し蹴散らしてしまう。
『あの女狐に目を付けられたら終わりだ、ならいっそ先に……』
古狸たちは恐れおののき、ボロを出す前に次々と一線から身を退いていった。
──らしい。
そんな物語の正義の味方みたいな人が、ほんとに実在するのかしらね? ま、私にはまったく関わりないことだけれど。
物語と言えば、色恋めいたこともそれなりに試してみた。
結果として、千回目の私と精神的に釣り合う男はどこにもいなかった。
まあそんなのは言い訳で、いまだに初恋を忘れられないだけかも知れない、なんてことは私自身がいちばんわかっている。
だいたい殿下が悪いのだ、結局あのままお妃を迎えることもなかったのだから。
そうして最終的に甥にあたるユリシス様に皇位を継承されたのがつい先日のこと。余談だけれど、ユリシス様の母親は私の親友のリリアンだ。
──そんなこんなで、あの日からもう二十五年の歳月が過ぎていた。
私は家を出て、郊外に借りたこじんまりとした一軒家に住んでいる。
一人暮らしにはちょっと広いけれど、多くが国の要職に就いた教え子たちや、両親のことをお願いしてあるマリア、いまやご皇母たるリリアンも、みんなが折を見て遊びに来てくれるから、寂しさも退屈もない。
そのなかには、埋め合わせをすると誓ったあの日の下女・メイもいる。彼女には、私がアイアス様の胃袋を掴もうと修得した数々のレシピを伝授した。元々の資質もあって、今ではお城の厨房を統括する料理番になっている。
そんなわけで、玄関はいつも施錠せず開けっぱなし。
マリアには不用心だと叱られるけれど、この国に私の虚を突けるほどの手練れがいるのなら会ってみたいものだ。
──コン、コン。
ちょうどよく、玄関の戸を遠慮がちに叩く音が聞こえた。人の気配は感じていたから、美味しいお茶を二人ぶん準備したところ。
「開いております。どうぞお入りくださいな」
茶碗にお茶を注ぎながら掛けた私の声に、やはり遠慮がちに開いた扉の向こう。
秋空を背に立っていたのは、あのころの柔らかで爽やかな面影を残しつつ、渋みをまとう素敵な大人の男性になられた──
「やあ。久しいね、エリーゼ」
──アイアス様だったから、完全に虚を突かれた私は、注ぎ過ぎたお茶をどばどばと机に溢れさせるのだった。
◇ ◇ ◇
先代国皇殿下は、目の前のお茶の表面を見詰めながら口を開いた。
「ときどき、妙な夢を見るんだ。毎回おなじようで、少しずつ違う夢を」
お互い最後に会ったあの日と似通った、けれど齢相応に落ち着いた意匠の衣装で、居間のテーブルを挟んで向き合う。
目を凝らして見ると、生命の経路のひび割れは、ほとんどが修復されていた。嬉しさで思わず緩む頬を、引き締める。
「夢、ですか?」
それはそれとして。この御方は私の家に突然あらわれ、いったい何の話をしているのだろう。その点については困惑するしかない。
「夢の結末だけはいつも同じ。きみが死んで、私は絶望に暮れる」
──!?
それはまるで、私が繰り返したあの千回だ。なぜ、それがアイアス様の夢に。
「そして私は、自分の絶望を癒すため『奇蹟』に頼ったのだ」
「……は……!?」
思わず声が出てしまう。脳内の皇棋の盤面で、あらゆる可能性が錯綜する。浮かんだひとつの推論に、全身の肌がざわざわと粟立つ。そんな、まさか。
「私は神の力できみを生き返らせようとした。しかし、どうしても死者の復活だけは許されなかった。だから代わりに、はじめて会ったあの日まで時間を巻き戻した。同じ悲劇を繰り返さぬよう、きみの記憶を残したまま」
──ああ、やっぱりそうなのか。それじゃあ、あのやり直しは全て彼が私のために、命を捧げた結果だと?
国皇が「奇蹟」で命を失うのは、その身に「神」を宿らせて過ぎたる力を行使するとき、魂と肉体が負荷に耐えられないからだと書物で読んだことがある。
殿下の生命を蝕んでいったひび割れは、巻き戻しで修復し切れない魂レベルの歪みの蓄積だったのか。
「どうしても、思ってしまうんだ。あれがすべて現実で、私の我儘のせいできみに何度も何度も人生をやり直させてしまったんじゃあないかと……」
私は静かに、彼の言葉を聞いていた。
「きみの中にその記憶があるかわからない。それでも、詫びておきたかったんだ」
その通り、記憶はぜんぶ残っている。けれど、それを伝えようとは思わなかった。
ただ、どうしても腑に落ちないことがある。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか? と言っても、夢の中のことですが……」
「もちろんだ。夢の中のことを、うまく答えられるかわからないが」
繰り返しの中には、皇子と最初に一度会ったきりで、そのまま処刑された回もあったはず。他の目的、技や知識の習得ばかり考えていたことも少なからずあった。
「どうして夢の中の殿下はそんなに……『奇蹟』を使うほどまで私を……?」
問いかけに顔を上げた彼は、私の顔をじっと見つめる。
一国を背負った四半世紀ぶんの重みは、お顔にあのころはなかった威厳と、あのころより深い慈愛を刻みつけている。本当にすてきな齢の重ね方をされていて、再び虚を突かれた私の胸は高鳴る。
「……ああ。それなら、わかる気がするよ。私も同じだったから」
「同じ……?」
「あの日。きみは閉じ込められていた小鳥を中庭に解き放っただろう?」
あのころよりも大らかで落ち着いた声。油断すると、包み込まれて思考がふわふわ定まらなくなってしまう。
「私は部屋の窓から見ていたんだ。小鳥を見送るきみの、晴れやかで優しい笑顔を」
……! そうだったの!? 確かに彼が腰掛けていた窓枠は、私が小鳥を解き放った中庭に面していたけれど、まさか、何の影響もないと思いながら繰り返していたあの行動が……。
「すべての私があの瞬間のきみを目にして、一目惚れしたのさ、この人しかいないと。あれこそが本当の神託なのかも知れないね」
自嘲気味に笑う、くしゃっとした笑顔の落差に見惚れながらも、私は絶句していた。つまるところ私と殿下はあの日、お互いに一目惚れしていたということになる。──きっと、何百回も。
「まあ、私の場合はそれほど想いが膨らむ前に、一刀両断されてしまったけれどね」
……ううっ、ごめんなさい。
「だから、すこし羨ましかった。きみに愛された彼らのことが」
あまりに嬉しい言葉を掛けられすぎて、感情が追い付かない。
「もったいないお言葉です。まあ我ながら、昔はけっこうな娘ぶりでしたものね。殿方からも引く手あまたで……」
誤魔化そうとそんなことを言ってみるけれど「今はもっと素敵な淑女になったね」などとサラリと返される。真に受けて喜んでしまう自分を、抑えられない。
「……ええと、とにかく何やら不思議なお話です。私には何ひとつとして心当たりがありませんが……」
「うん。もし記憶があったとしても、そう言うだろう。きみは優しいから」
見抜かれている。それもまた嬉しかった。ならば。ならばもう、いっそ。
「……それでは殿下。代わりに私の願いをひとつ、叶えてくださいませんか?」
「ああ、もちろんだ。今の私にできる償いが、あるのなら」
控えめに投げかけた私の問いに、思った通り即答して下さる。……いいのだろうか。いや、私にはその権利が、あるはずだ。
「ありがとうございます、殿下。それでは」
「うん」
「もう一度、あの日からやり直しましょう」
まっすぐ私を見つめるお顔が、曇る。
「それは……済まない……皇位を譲った私には、もはや『奇蹟』を行使する権利はない。あの日に戻ってやり直すことはできない」
もちろん、そんなことは知っている。
そもそも私がいる限り、二度と「奇蹟」など使わせるものか。修復されて見えるひび割れだけど、脆くなっていることは想像に難くない。次の一回が致命傷にならない保証はどこにもない。
そうじゃなくて。
「できます。今、ここから」
「……ここから……?」
私は椅子を引いて立ち上がると、机を回り込んで、怪訝そうな殿下の傍らに歩み寄った。
そしてお臍の前に両手を重ね、深々と礼をする。あの日と、同じように。
「お初にお目にかかります。エリーゼ・ヴィオレッタにございます」
息を呑む気配。顔を上げて微笑む私。
「あ……ああ……アイアス……だ」
椅子から立ち上がって私に向き合った殿下は、ためらいがちに言葉を続ける。
「……逢えてうれしいしいよ、エリーゼ」
あの日と同じ言葉。でも今日は──今日からは、嘘を吐かなくていい。殿下にも、自分にも。
「私もです。ずっと、お逢いしたかった。ずっと、ずっと、ずっとお慕いしておりました」
「……! エリーゼ……きみは、やはり……」
真っすぐ見詰め返してくる瞳の引力に、視線を逸らせない。
「私も、同じだよ」
そうして殿下は、穏やかに微笑みを返してくれる。
「私に残された人生で良ければ、すべてきみに捧げよう」
「……あら。まるで残りが少ないみたいにおっしゃるのですね」
「ん……?」
そっと右手を伸ばし、彼の頬に手のひらで触れた。ほんのりと、あたたかい。
「私、医術とか薬学とかもろもろ極めておりますので、殿下には百歳まで生きていただきます。人生はまだ充分ありますわ」
「……! そうか……」
呟くように口にしたアイアス様は、頬の手にご自身の大きな手を重ねる。
「まだ、半分も残っていたか」
「もう逃がしませんからね。なにせ私、おそろしい女狐ですから」
「ああ、望むところだ……」
その手が優しく引き寄せられて、私はなすがまま、彼の胸のぬくもりに包み込まれていた。
──遠くで微かに、ピチチと鳴き合う小鳥たちの声が聞こえた。
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