現想湮滅
昔に住んでいた故郷の村を離れて十数年。
山奥にひっそりとあった村に遂に本格的な取り壊し計画が立てられたようだ。その影響で、来月から立ち入り禁止となるらしい。そこは俺達二人にとって思い出の場所であり、二度と行けない日が来ようものなら、それまでに一度帰ってみたいと常々思っていた。
「ねえホーちゃん。ほんとに行くの?」
「最後くらいお前も見ておきたいだろ。昔住んでた村なんだからさ。いずれにしてもこれで見納めなんだぞ。立ち入り禁止になる前に入っといた方がいい」
車で三時間、ギリギリ舗装された道を静かに運転する事がどれだけ苦痛だったか。でも元々俺も彼女も住んでいた場所だ。最後に家族写真をその場所で撮るくらいの気まぐれは、多少骨を折ったとしてもやり遂げたい。
「いい思い出なんてあったっけ。私ぜーんぜんなんだけど」
「バッタ追いかけるのとかは結構楽しかったと思う。俺はね。あ、後あれ。お前と出会えた事が、楽しかったな」
「……ちょ、ちょっとお。ホーちゃんずるいってそんなの。もう新婚って年数でもないんだからね! 惚気なんて、もう!」
妻と出会ったのは本当に、五歳くらいの時だ。同じ村に住んでいたから自然と仲良くなった。村を出た後も……今更理由を探すなんて馬鹿らしくなるくらい自然に合流して、結婚した。
結婚指輪はその証とも言えるし、それを報告したくなったからわざわざこんな辺鄙な場所にやってきた。故郷の村とは言うけれど、事情は少し変わっている。
「予感だったのかな。あるだろ、ナマズが騒ぐとかネズミが逃げ出すとか、危険が起きる前に出るとされる現象。俺達が村を出たのもそれだったりしてな」
「別に、悪い所じゃなかったものね~」
「今に思い返せば不便しかなかったけど、昔は逆に便利を知らなかったからな。田んぼに足を取られたり、トンボを捕まえようとして意地になってたら近所のおじいさんが一瞬で捕まえちゃったり―――今は御免だけど、楽しかったな。出て行ったのは何でだったっけ」
東郷奉乃介にとってあの村は決して忌まわしくもないし、かといって極楽でもなかった。明確な理由があって出たのは確実だけど、そこに拗れた問題があった訳じゃない。覚えていられないような好奇心―――興味と言ってもいい―――が理由なのだろう。だから彼女と一緒に村を出るなんて事が起こった訳で。
一人だと不安でも二人なら大丈夫だろうという認識は、やはり親なら誰しも持ってしまうのだろうか。
「ホーちゃん、トンネルが見えてきたよ」
「そろそろ停めるか。車で無理やり入る事が出来なくも……まあやめとこう。正直まともに歩けるかもあんまり分かってないんだ。所詮は廃村になった地域の通り道だしな。路肩もクソもないけどとにかく端っこに停めよう」
どうせこんな場所には誰も来ない。車を降りてすっかり文字の落ちたトンネルの前に立つと、向こう側から生温い風が吹きつけてきた。
「な、なんか気持ち悪くない……? やっぱり行くのやめる?」
「ここまで来ておいてそりゃないだろ。でもそんなに行きたくないなら車の中で待っててもいいぞ。報告は俺がするから。別に未知の場所に行くんじゃなくて、昔家だった場所を拝むだけだし、そんな時間はかからないぞ」
「うーん……待って、やっぱり行く。故郷を不気味がるなんて変だし」
トンネルは生まれた頃からあったが、村の隅に住むおじいさんがいつも「あそこは俺の祖先が掘ったんだ」とか言っていたっけ。詳しい話は何も覚えていない。トンネルには怖いもの見たさで訪れる若者の落書きのような俗世間的痕跡もなく、ただ昔のまま、俺達を受け入れている。足元は流石に雑草が生い茂って歩きにくいが、本当にそれだけだ。時間を除けば、ここは昔そのもの。タイムトンネルとやらが存在するなら、抜けた先にはもう過去が広がっているのではなかろうか。
「昔はすっごい長いと思ってたのに、今はそうでもないんだ」
「短いよな、ホント。入る前から向こう側が近くで見えてるし。子供の頃は見えなかったと思ってるんだけどな」
だから入り用で外に出ないといけない時は凄く怖かった。お化けを信じるとか信じないとかじゃない。理由もなく暗闇が怖い時期が子供にはある筈だ。俺は誰かと手を繋がないとこのトンネルを通りたくなかった。
五十メートルあるかどうかの一本道を抜けると、変わり果てた故郷の―――その残骸が俺達を待ち受けていた。見る影もないとは正にこの悲惨さを表すのにうってつけの表現だ。誰かが写真を撮ってきたとして、この場所を同じモノと認識するのは難しいだろう。
昔の記憶はあまりに綺麗で、時間の流れという奴は月並みに残酷だ。綺麗に作付けされていた田んぼは水も枯れ踏み心地の悪い単なる地面に。農道との違いなんてあってないようなものだ。なんとなくの面影で判断出来ても、境目までは俺にすらまるで。
「うわ…………変わりすぎでしょ。本当に何があった訳?」
「あの時村に居たら分かったかも。考えだしたらキリがないな」
俺達が夫婦としてくっついたきっかけは、決してロマンチックな理由からではない。最初は恐怖心から彼女が転がり込んできたのがきっかけである。俺達が昔住んでいたこの村は―――災害によって人が住めなくなったとされている。
だけど両親から聞いた話は違う。彼女も、そう。
この村は祟りにあって住めなくなった。
誰に祟られたという話はない。両親は間もなく重い病気に罹って死亡した。脱出直前、『絶対に戻ってくるな』と言われたのが最期の会話だった。妻が何を聞いたのかは分からないが、恐怖のあまり俺を頼ってきて、そこから自然と交際に発展したという訳だ。
……家族写真を撮りたいとか死んだ両親に報告したいとか、それは全部建前に近い。妻を騙すようで申し訳ないけど、俺はただ真相を知りたいだけだ。何もかも終わってしまった後に訪れて何が分かるのかという話だけど、言いつけを破ってまたここに来た。それだけで何か起きてくれたら……いいなと思って。
―――祟られるような村じゃないだろ。
何かを信仰していた……はしていたけど、そんな危ない神様じゃない。この村で崇められていたのは山の神様であり、信心を喪えば作物が育たなくなるとか獣が獲れなくなるとかは言われていたけど、病や災害が襲い掛かって村人を全滅させるなんて話は聞いた事がない。
大体そんな神様は本末転倒だ。実在したとして、ほんの些細なミスで信心する者を根絶やしにするのではいつまでたっても荒神のままというか、まつろわざる神の一角なので信心は得られないというか。
無礼な物言いをするようだが、そんなのはとても神様のする事じゃない。祟りで全滅なんて、まるで復讐のようだ。
「覚えてるか、景色。あそこでよく駄菓子食べたよな。金がないからって盗んでる奴もいたっけ」
「店番のおばあちゃんに見つかって怒られてたのあったねー。懐かしいけど、ここだっけ?」
「ここだろ! 思い出せよ! 見ろこの残骸! どう見てもあそこの屋根!」
「分かんないって!」
いや、俺の記憶ではここにあった。ただ見る影もないだけだ。家屋はすっかり潰れてしまい、老朽化した材木が積み重なっているだけ。在りし日の過去は、現実に照らし合わせてみればなんて無残に砕け散って。下らない幻想だろう。
どこもかしこも見る影もなく、ただの一片も余すところなく思い出は叩き潰されている。意地を張ったけど段々自信がなくなってきた。あそこが駄菓子屋だったっけ。それとも無人販売所(畑の所有者がよく村を出て稼ぎに行っていたからだ)だったけと。
「あ、ねえ見てよホーちゃん、この家! ほらほら! ここってホーちゃんの家じゃない!?」
妻が子供のようにぴょんと跳ねて指さしているのは一際大きな廃屋だ。残骸となりはてていない数少ない建物であり、玄関には昔、俺が筆で落書きした蛙の絵が書いてある。家族に下手と笑われ、意地になってこれは何に見えると聞いて回った記憶が蘇ってきた。
こいつ、家じゃなくてこれで判断しただろ。
「確かにそう……だな。俺の家はかなり大きかった。だから友達を呼んで家で遊ぶって事も多かったよな」
「そうそう。空き部屋も多くてね、かくれんぼとか緊張感あった!」
無駄に大きいだけの家は、家の癖に迷う事もあった。成程、その規模のお陰で面影は他の建物に比べて随分残っている。かなり崩れてしまっているが玄関が無事なのである程度以上は入る事が出来る。
ただ、廃墟に迂闊に入るのは心霊とか祟りとか以前に注意が必要だ。奇跡的なバランスは外部変数によって大きく崩れる。要は、俺達が入った事でなぜか成立している均衡が崩れるかもしれない。
「入ってみるか?」
「危なくない?」
「いや、俺は入るよ。流石に見るからに危なそうな場所は行かないけど」
「えーほんと? 勇気あるね。撮影は?」
「何か思い出の品を見つけてからでもいいだろ。墓についでに供えておきたい。墓が何処にあるかも分からないけど」
じゃあ私、ここで待ってるねーと妻は言う。その方がいいだろう。家の構造は元々の居住者だった俺の方がずっと詳しい。玄関から入って板張りの廊下を踏むと、既に割れそうなくらい大きな軋みが家全体に響いた。
「…………うん。絶対来るな! 危なすぎる!」
妻の事を一旦差し置いてでも、俺にはいかなきゃいけない場所がある。階段を上ったら、子供部屋。そしてその隣にあった―――開かずの間。
――――――勿論今は開いている。
だがこの村に住んでいた頃、ここが開いた事は一度としてなかった。両親には『座敷童』が住んでいるので干渉しないように言われていた。家が裕福なのはそいつが住んでくれているからだと。対外的にもそう説明していて、襖の癖に鍵がかかったように開かないからみんな気にしなかった。
もし祟りがどうのという話が事実なら、それはその『座敷童』が関係しているのではないだろうか。
実を言えば、人生で一度だけ部屋の中から話しかけられた事があった。
あれは……何歳かは覚えてないが、学校が休みだった時の話だ。朝食の前にする事もなくてぼんやりしていると部屋の壁を叩かれて、
「そとにだして」
そう言われた。こんな古い家だ、防音性なんてないから、『座敷童』が居るとは言われていてもその存在を感知出来た事はなかった。普段物音がしないのに、その時だけは話しかけてきたのだ。
「…………」
開かずの間には、遊び道具が転がっている。どれもこれも埃を被っていて古臭い。手毬とかこけしとか人形とかコマとか。ノスタルジックを感じるどころか遊び道具にしたって時代が古い。
話を戻すと、俺はその声に応じた。どんな会話をしたか覚えてないけど、とにかく連れ出すと約束したのだ。だけど当時の自分は素直で、わざわざ親に許可を取りに行ってしまった。そしたら怒られて、それを伝えたら二度と返事はなかった。
今でも思う事がある。あの時、連れ出せていたらどうなっていたのかと。
あれが祟りの原因というのは憶測にすぎない。『座敷童』かどうかも正直怪しい。村を出てから歴史を勉強して知ったが、心に問題があったり面に出せないような病気を患った人間は一生部屋に軟禁するという時代もあったようだ。それが所謂、座敷牢。
村が滅んだという事は、あそこに居た誰かも死んだのだろう。誰が居たのか、それがずっと気になっている。奥には窓があったが、これは風化で板が外れただけであり、俺の記憶が正しければ完全に封鎖されていた。外を見ると、妻がこちらに手を振っている。
「部屋ってそっちだっけ!」
「こっちは開かずの間だよ! ほら、座敷童が居たらしい場所! 流石に時間がたちすぎて開かずの間も密室を維持できなかったらしい!」
あれが俺に話しかけてきた時、何処に居たのだろう。やはりこの押入れの中が壁に近い。ここに入って話しかけてた? 中は空っぽな上に広いから、大人になった今でもギリギリ入る事は出来るだろう。
しかし幾ら懐かしいからってこんな埃くさい場所にわざわざ入る理由はないけ―――
「………………えっ」
今。
確かに。
見逃さなかった。
髪がところどころ白く染まった女の子が、押し入れの中からこっちを見ていたのを。俺に気づくや慌てて引っ込んだけど、そんな馬鹿な。子供が居るなんて。
「ちょっと、待ってくれ!」
「ホーちゃん!? どうかした!?」
「子供が! 子供が居たんだ! 押し入れに!」
体を半分突っ込んで中を覗き込む。だがそこには浅い暗がりが広がっているだけだ。でも気のせいなんて思わない。そんな女の子とは人生で一度も出会わなかったから。
「―――待って! 探しちゃダメだって!」
押し入れの中に体を全部入れてみる。ひょっとすると仕掛けがあるのかもしれない。例えば一度開いたら表側の扉が開くけど、一度閉じたら裏側の扉が開いて別の道が開けるみたいな。タネを言えば開閉の回数で隠しスペースが出たりでなかったりするだけの子供だましみたいなマジックだけど、この家にもそんな秘密が?
襖を閉めた瞬間、強い眩暈が俺を襲った。
「う………………」
こんな時に頭痛なんてついてない。あまりにも埃くさくて脳が環境を拒否しだしたか。外でドタドタドタと階段を上がってくる音がする。
「待って、行くの待って! ホーちゃん! ホーちゃん!」
意識が…………………何で。
「行かないで、ホーちゃん!」
「………………ん」
どれくらい気絶していただろう。自分が意識を失うまでの記憶はハッキリしている。だがここは何処だ。景色が暗いままだ。妻が迎えに来ていたから、俺はてっきり外に運ばれた物かと勝手に思っていた。
手触りだけで周囲の環境を確認する。木製だ。しかも埃が全然ない。いよいよ自分は何処に居るのだろう。これまた手探りで入り口を確認すると襖があった。端を探して、内側から引く。
「…………」
「………………………あ」
髪の所々が白んだ女の子が姿勢を崩して俺の事を見つめている。果たして俺も言葉を失ったのは、ついさっき見た女の子を追い回している事に罪悪感が生まれたからではない。
鏡面のような瞳を介して、自分の姿が子供に戻っていると気づいたからだ。
「あ、た、た、た」
「外に連れ出しに来た! 約束通り…………」
つい、そんな事を口走る。何故そんな事を言ったのかは分からない。でも顔を見つめられたら……あの日の事を責められているように見えて。
「………………なまえ」
「へ。あ、あっと。奉乃介。ほ、う、の、す、け」
「ほー……? の、すけ?」
「ほうのすけっ」
「ホースケ」
「そ、それでいいよ。別に名前なんて、正確じゃなくてもいいし。え、えっと……」
流れで名乗ってしまったけど、この状況にはそもそも理解が全く追い付いていない。どうして俺は子供に戻っている? この押入れが悪いのか? ならもう一度戻れば元の時代に戻れる? いやそもそもタイムスリップ以前にこれは夢なんじゃないか?
様々な可能性が脳裏を過って身動きを縛っていく。これが夢なら自分で起きた方がいい。夢じゃないなら、妻が心配するからさっさと戻った方がいい。体が子供に戻っても心はまともなままだ。押し入れに目を向けて動こうとすると、左手を少女に掴まれている事に気が付いた。
「まってた。ずっと」
ひしと掴んで離さない。このまま押し入れに入ったら彼女も未来に連れていけるなんて、そんな馬鹿な話はないと思う。いや、確証はないけど―――何より約束が違う。外に連れ出すって、そういう意味じゃない。
「…………」
まんま俺の顔を反射する瞳は、普通の人間とは思えない。おかっぱ頭も併せて、確かにこの少女は座敷童なのではないかという気もしてくる。だけど俺の知る座敷童はもっと赤いちゃんちゃんことか、振袖とか、服装は派手だと聞いている。
少女は、白い着物を死に装束のように着ているではないか。
「そと、いきたい」
「そと……外って、村の外?」
こくりと頷かれて、扉を指さされている。どうして襖が開かないのか不思議だったが……成程、内側から棒をつっかえさせているのか。彼女にはこれが理解出来ないからずっと閉じ込められていたと。
「ほーちゃん、おやつ出来たわよー!」
下の階から若かりし頃の母親の声が聞こえる。タイムスリップなのか夢なのか―――それを問うのは後だ。夢なら自己満足に終わるかもしれないが、それでもいい。約束を果たしてみたい。俺にはずっとそれが気がかりだった。
あまりにも昔の事だからこの後母親が何をするかどうかも覚えていない。でもアドリブでどうにかしないと。
「はーい!」
「……ぃっ」
隣の部屋から聞こえる声の主は、恐らく自分だ。過去の自分が居るのは当たり前だが、これ…………本当に俺の置かれている状況はどうなっているのか。タイムスリップなのか、タイムスリップの夢なのか。夢なら俺に都合が悪すぎる。未来の自分と過去の自分が会うとタイムパラドックスが起きるという話を小説で読んだが、今の俺は過去の姿だ。どうなる? 駄目だ、何が起きるか予想もつかないようなシチュエーションを作りたくない。
「ごめん。ちょっと待っててほしいな。外を見てくる」
襖のロックを外し、昔の自分が階段を下りたのを聞いて子供部屋に移動する。ああ、夢にしては鮮明だ。そして現実にしては色素が薄い。だけど確かにここは俺が生活していた部屋だ。窓からは、最初に見たかった綺麗な農道が広がり、そこから少し歩けばトンネルだ。
都会と違って田舎は平面的で、多少の坂や屋敷があろうと畑の関係で全体的には低く、見通しがいい。少し高い所に上ればもう外に出ている人全員が見えるくらいだ。この村で言うと……地蔵が並んでいる丘があり、そこから見下ろすだけでかくれんぼは意味を為さない。
だから俺の家が頻繁に遊び場として選ばれたという事情がある。それがまさか、少女と脱出する上で最大の障害になるとは。
「ど、ど、ど、どうしよう。目立つよな、その髪とか服装」
服は頑張れば家を漁って……いや、うちに女の子は居ないからサイズの合う着物が見つかるとは思えない。それに着物の着付けの仕方も分からない。そういう時代ではなくなったし、その手の服とはまるで縁がなかった。
「…………」
この部屋は昔俺の部屋だった。クローゼットを漁れば服くらい出てくるけど、サイズが合うなんて一言も言っていないし、俺が誰かに服を着せて遊ぶなんてした記憶がない。怪しまれる。その子は誰だと言われたらお終いだ。
「……あ、そうだ。ちょっと待っててくれるか? すぐ戻ってくるから、押し入れの中に隠れてて」
「……かえってきて。すぐ」
「分かってる。約束は守る。遅くなった分、絶対」
一つ作戦がある田舎は娯楽が少ないから、何にでも楽しさを見出そうとする事がある。この屋敷の隣に住むおじさんは自称遊び人として様々な遊びを知っているという部分で親しまれており、俺達のヒーローだった。色々な遊びを教えてくれて、それは外に出た今となっては大した事でもないけど。
その中に草焼球と呼ばれる遊びがあった。おじさんが集めて作った枯草の山に、みんなが燃えやすそうな草を新聞紙に包んで投げ入れるのだ。それで一番火が勢いづいた人が勝ちという、今思えばそれだけの遊びだけど。昔はよくやった。
階段を下りて、昔の自分と会わないように廊下では足音を殺す。机で呑気に煎餅を食べている今なら気づかれる道理はない。靴を使ってしまうと不自然に思われそうなので、靴下のまま飛び出し、日陰に停められたトラックの荷台に声を掛ける。
「えんぞうおじさん! 草焼球やりたい俺!」
「んー…………?」
家は窮屈だからずっとここで寝ているとか言っていたけど、それも今思えば職探しに失敗して家の敷居を跨げなかっただけかも。えんぞうおじさんは大きなあくびを嚙み殺すと、その場で大きく伸びをして荷台から上体を起こした。
「おー坊主。なんだまたやりたいのか? この前やったばかりだろうが。でもま、丁度さっき草刈りを終えた所だ。ベッドに使ってたが、お前さんと遊ぶのにも使える」
そういっておじさんはマット代わりにしていた枯草をポンと叩いて、そのせいで咳き込んだ。草っ葉が口か鼻に入ったのだ。
「んじゃあ乗れよ~。移動はかったるいだろー。本当は駄目だけど、おめえが落ちなきゃいいだけだよ~」
「あ、ちょっとごめんなさい! お母さんに言ってこないと!」
「律儀な坊主だな。早くしろよ」
俺はまた寝ちまうからな、とおじさんは目を擦る。今の内に連れて行こう。
「廊下がめっちゃ滑るぞー! 洗剤ってすごいなー!」
玄関から聞こえる自分の声に思いとどまる。そうそう、廊下に洗剤をぶちまけて滑る遊びもやったっけ。勿論この後怒られて―――部屋に行かされてしまう!
まっず!
過去の自分としての整合性に拘っている場合じゃない。壁伝いに屋根を上ると子供部屋の窓から侵入。この時代はいつも暑くて開放していた。少女は俺を見つけるや押し入れから素早く出て、ひしと抱きしめてくる。
「おそい」
「ご、ごめん。とにかく行こう。早く!」
窓から人一人を連れだす作業なんて過去とか未来とか無関係に初めての事だ。まして体が子供に戻っていると非常にやりにくい。手を滑らせたらと思うと猶更緊張してきたが、どうにか少女を外に連れ出し、そして素早くトラックの荷台に紛れ込ませる。不自然に思われないように、わざわざ運転席付近でぴょんと跳ねて、存在アピールも忘れずに。
「い、言ってきたから大丈夫。もう出して! 早く!」
「おー? よし来た。乗れよ~」
荷台の枯草の中に紛れ込ませれば服装なんて関係ない。えんぞうおじさんと遊ぶのは今日が初めてでもないから周りの目も気にならない。遊ぶ場所は、火が山に燃え移ると大変だからって近くに燃える物がない場所で行う。そう―――トンネルの入り口とか。
「…………………はあ、はぁ」
枯草のマットに身を任せて太陽を仰ぐ。ここまでやっても目が醒めないなら夢ではないようだ。それじゃあ本当にタイムスリップしている……? 彼女を外に連れ出してたとして、そうしたら俺も元の時代に帰れる保証はどこにある? 過去にいるままだったら……なんだ、人生をやり直せとでもいうのか?
それは困る。俺の人生はいつまでも巻き戻したい程過去に縋っていない。何より妻の事が心配だ。こんな事になると分かっていたなら行かなかった。まさかタイムスリップする場所だったなんて、それは一体どんな、有り得ない想定か。
「え、えんぞうおじさんさー! 聞いていい!」
「おう。何だ~?」
「えんぞうおじさんは人生を後悔した事ってある!?」
「…………坊主が生意気な事聞きやがるな~。背伸びしたい年頃か? 俺には勿論沢山あるよ。でも後ろばかり向いたってしょうがねえから、こうして今を楽しんでるのさ」
「やり直せるなら、やり直すべき!?」
「あー………………やり直せるなら、やり直した所で、成功するなんてだーれも言っちゃくれねえよお。だけどまあ、でけえ男になるんなら坊主がやってみな。俺は遊び人で十分さ。成功者はいつだって不可能を可能にするんだぜ」
かっかっか、と軽快な笑い声が木々の間を吹き抜ける。空は快晴、木漏れ日仄かに、カカシの頭についた風車がよく回る―――
やり直しても、成功するなんて誰も言わない、か。
確かに、やり直せるだけだ。選択を変えたらよりよい未来が待ってるなんて確実性はない。悪い事が起きるかもしれない。けど、なんだ。『座敷童』の声を無視しただけ、たったそれだけの心残りが何十年にもわたって尾を引いていた現実を知っている。
それなら俺は、やってみるべきだ。好奇心が猫を殺すとしても、殺した結果を悪しとするまでやるべきだ。頭の片隅に引っかかり続けたらと思うと―――悔いのない人生なんて、永遠に生まれない。
「おしーついたぞ。俺はちっとその辺で小便してくっから、待ってろな」
えんぞうおじさんがぽりぽりと頭を掻きながら雑草の深い所に入っていく。その気を逃すまいと、ずっと枯草から飛び出していた手を引っ張って、俺はトンネルへと走り出した。
妙な事に、大人になって通ったトンネルは先が見えてるくらい短かったのに、子供時代に見るトンネルはどうしてこうも果てしないのだろう。
「―――そと、もうすぐ」
「ごめん、本当に!」
振り返るなんて、そんな恥ずかしい事は出来ない。こういう言い回しがあるだろう。顔向けできないとか、合わせる顔がないとか。俺の気持ちは正に、そんな所だ。
「君の声を無視した。俺は馬鹿で、一々許可を求めに行ったんだ! 最初で最後、君は俺に助けてほしいと思ってしゃべりかけただろうに。本当にごめん! 遅くなった! 何十年も待たせて―――ごめん!」
意味が理解出来なくてもいい。これは単なる自分への懺悔だ。ただこのモヤモヤを晴らしたかった。夢でも現実でも何でもいい。心残りを消化出来るなら形式は大した問題じゃない。
「…………ホースケ」
「ありがとう」
トンネルの先は見えない。それどころか、後ろの入り口すら消えていた。俺達は暗闇を走っている。戻るべきか、いいや進むべきだ。いつか外の景色が俺達を出迎えてくれると信じて。
………………
……………………………
…………………………………………
バカに長い。おかしい。もう体感十五分は走りっぱなしだ。いつになったら到着するのだろう。戻ってみたとて明かりが出る訳じゃない。暗闇に閉じ込められていると勘づいたのは、走りすぎて足が痛くなってきた頃だ。
そしてその時にはもう、少女の姿は跡形もなくなっていた。
「あ、あれ!? おい! 何処だ! はぐれないでくれ! 俺は、約束を果たす為に君と!」
暗い。左も右も上も前も後ろも下も走れるのに、進んでいるという感覚が全くしない。壁もない。床の感触すら消えている。
「何処だ! 待ってくれ! 消えないでくれ! まだ助けてない! 外に連れ出してない! ここが限界なら、せめて名前を―――!」
意識も、次第に。薄れて。いく。名前を、せめて。知りたくて。それくらいのお礼が欲しくて。
でも外に出られたなら、それだけでもいい かも。
「やっと目が覚めた」
「…………はっ。えっ。あっ……」
目が覚めたら、妻の膝の上だった。この年にもなって膝枕か、我ながら恥ずかしい。すっかり朽ちた和室の中でされると、童心にかえった気分になる。
「ゆ、夢………………あれが夢だったのか……」
「押し入れの中で気絶してもう心配したんだよ。最近仕事大変だったみたいだし、睡眠不足がここにきて祟ったんじゃない?」
「…………………」
あれが、夢?
いやでも、荒唐無稽で首尾よく心残りを解消したという意味では夢っぽいけど。
「ねえ、こんな事言うの気が引けるけど、もう帰らない? なんか不気味に思えてきた」
「…………そ、それはそうかもしれない……」
タイムスリップにも似た夢は、控えめに言っても悪夢だったのだろう。全身から汗をびっしょり掻いて、今にも重い病気に罹りそうなくらい顔が赤い。祟りかどうかは分からないけど、でも丁度実感してしまった。廃村になってもこの土地は何かおかしい。
「……家族に挨拶するつもりだったけど、やめた方がいいかもな。線香立てて墓を作ればそれがお盆の時なんかに帰ってくる目印になるみたいな話も聞いたことあるからそっちの方が……出よう。俺も怖くなってきた」
膝枕から顔を上げると、埃を払って周囲の状況を確認する。あれが夢ならここは現実だ。押し入れから入って、トンネルからここに出た……繋がっていない。だから夢だ。そしてここは現実…………
何か、釈然としないような。
「どうかしたの?」
妻は一足先に玄関をくぐると、ぼんやり立ち尽くす俺に振り返って、手を伸ばした。
「行こ、ホースケ」