01.憧れの人はクマ
「ふふんふんふ〜ん」
ユーミラは鼻歌を歌いながら、騎士の鍛錬場へとやってきた。
日は沈みかけているが、いつもより少し早い時間。
鍛錬場の掃除をすれば、今日の仕事は終わりだ。そう思うと、足取りも軽やかになる。
「さて、騎士の皆さんはもう帰ったよね。終わったらなにかお菓子でも買って……」
終業後の自分を想像しながら騎士の鍛錬場の扉を開けると、そこにはなぜかクマがいた。
「クマぁぁああああ!!?」
「おわぁあああああ!!!!」
目の前の大きなクマに雄叫びを上げられたユーミラは。
そのまま気を失い、倒れてしまったのだった。
***
ユーミラの父は、国から委託されて鍛錬場の管理を任されている人だ。
と言っても、朝は鍵を開けるだけ。夜は掃除をしたあと鍵を閉めるという仕事である。
父親が忙しい時は、ユーミラが代わりにその仕事をやっていた。ほぼ毎日と言っても良かったが。
そしてこの日も、いつも通りに掃除に来ただけのはずだった。
「う、うーん」
「大丈夫か、ユーミラ殿」
「はっ!!」
名前を呼ばれて、ユーミラは飛び起きた。
けれど体がふわりと宙に浮いていて、うまく体を動かすことができない。
ハッとして見上げると、そこには長身の憧れの人が心配そうにユーミラを覗いていて──
「ぴゃ! ベアモンド様!?」
ユーミラが声を上げると、ベアモンドは抱き上げている体を降ろすべきかと迷っているようだった。
ベアモンドはストーンクラッシャー家の伯爵令息だ。
長男であるのに騎士団に入隊する例は珍しい。
しかしベアモンドは体躯に恵まれた長身である。腕も胸板も太ももも、服に隠れているというのに一目でわかる筋肉量。
子どもの頃から魔物をちぎっては投げて遊んでいたという逸話の持ち主なのだ。
ひとたび剣を握らせれば鬼神のような強さで、この国の剣舞祭では十五歳のころから毎年のように優勝している人物である。
十七歳でぜひにと騎士団にスカウトされ、現在二十五歳。
本人が頑なに辞退しているらしく、現在の地位は副隊長だが、いつかは隊長、そして団長にだってなれる実力を持っている男だった。
しかし見た目がいかつくて怖がる令嬢も多く、婚約者はいないという話をユーミラは漏れ聞いて知っている。
(こんなに柔らかな空気をまとった方なのに)
心配そうに自分を見つめるベアモンドを見て、ユーミラは顔に熱を集める。
「気をしっかり持ってくれ」
「っは! はい、大丈夫です……!」
「降ろして大丈夫だろうか?」
「あっ、重いですよね、降ろしてください!」
「別に重くなどないが」
想像したよりずっと優しくユーミラを降ろしてくれた。
しまった、もう少し抱かれていればよかったと思うも、あとの祭りだ。
「すまない、怖い思いをさせてしまった」
「あ! あのクマ! どこに行ったんですか?!」
「えーと、あのクマは……」
「ああ、ベアモンド様がやっつけてくださったんですね!」
「え、あ、まぁ……俺の気合いで逃げていった」
「さすがベアモンド様です!」
クマが人の気合いだけで逃げて行くとは、さすがベアモンドである。
「けれどこの鍛錬場は町外れにあるとはいえ、クマがやってくるようになるなんて……騎士団に討伐を要請しなきゃいけませんね」
毎朝毎夕、鍵の管理に来ているユーミラだ。また鉢合わせては、たまったものではない。
今回はたまたまベアモンドが残っていたから助かったものの、もし一人だったらと考えるとゾッとする。
「……ユーミラ殿は、クマは嫌いか?」
なぜか暗い声を出したベアモンドを、ユーミラは見上げた。
ベアモンドならば、クマを討伐するなど容易だったはずだ。なのに見逃した。意外に動物好きなのかもしれないと、心がトゥンクと鳴る。
「好きとか嫌いではなく、単純に怖いですね……私より大きく、力もかなわないですし」
「俺もユーミラ殿より大きく、力も強いが」
「ベアモンドさんは人間じゃないですか! ちっとも、まったく、怖くなんてないです!」
ユーミラはそう主張するも、ベアモンドの表情は渋いまま変わらなかった。
確かに、ベアモンドは大きく強く、顔だっていかつくて恐ろしいと言う人の方が多いかもしれない。
(だけど、ベアモンド様の表情は……いつも優しいのよ)
顔の造形と表情は違うのだ。みんな見た目で判断してしまいがちだが、人や動植物に対してこれほど優しい扱いをする人はいないとユーミラは思っている。
日々の鍛錬にしても、剣舞祭にしても、手加減しているように見えるのだ。
ベアモンドが本気を出せる相手は、きっと魔物だけ。
人に対しては傷つけないように、細心の注意を払っているとユーミラは気づいていた。
そんな優しいベアモンドだというのに、見た目で多くの人に怖がられてしまう。
子どもたちは彼を見た瞬間に泣き出し、女性の多くは逃げ出したりその場で失神したりした。失礼な話だ。
その度にベアモンドが傷ついた顔をしていることを、ユーミラは知っている。
「……俺の目を見て話してくれる女性は、ユーミラ殿だけだ。感謝している」
「ベアモンド様……」
(どうしよう、かわいいわ!)
少し悲しげな目をしているのが気になるが、ユーミラの心臓はズギュズギュと鳴り始めた。
ユーミラの父は元は貴族であったが、侯爵の位は伯父が継いだため、次男である父は家を出て交易関係の仕事をしている。つまりユーミラは、一般庶民と変わらないのだ。
伯爵令息であり、家を継ぐであろう長男のベアモンドに恋をしても、どうにもならないとはわかっている。
けれど、目を見て話せる女性はユーミラだけだというのなら。
(もしかして、身分差でもチャンスはある……!? 無理を頼めば、伯父様の養女にしてもらえなくもないし!)
今は誰もいない、二人っきり。
こんな告白のチャンスなど、そう転がってはいない。
(勇気を出すのよ、ユーミラ! 断られるのが当然なんだから、怖いものなんかないわ!)
ユーミラはぐっと拳を握り締め、頭二つ分大きなベアモンドにキッと目を向ける。
「どうした、ユーミラ殿」
「あの、ベアモンド様、私……!」
「うん?」
(心臓がはち切れそうだわ!!)
ユーミラは荒い息を飲み込んで、もう一度口を開いた。
「私、ベアモンド様をお慕いしています!」
「……お死体?」
ベアモンドは世にも奇妙な言葉を聞いたとばかりに首を傾げている。通じていない。
「お慕い、です! 好き、ということです!」
「す、好き???!」
目を丸くするベアモンドは貴重だ。それだけで告白して良かったとユーミラは満足しそうになった。
もちろん、本当の本当は、断られるなど嫌だ。なにをしてでも付き合いたいとは思っているが。
「待ってくれ。どうして俺なんぞを……」
「そんな風に言わないでください。ベアモンド様は優しくて気遣いできる、素晴らしい方だと思っています」
「けれど、ユーミラ殿はクマが嫌いだろう?」
「クマ?」
どうして今、クマの話が出てくるというのか。
実はベアモンドは無類のクマ好きで、将来クマを飼いたいとでも思っているのかもしれない。
(クマを飼いたいという人を許容できる女性はまずいないわ! 私が受け入れられれば、ひょっとしたらひょっとしちゃうかも!)
「嫌いとは言ってません! ずっとそばにいれば、きっとクマも好きになれます!」
「……本当か?」
そう聞かれて、先ほどのクマを想像する。
大きくて迫力があって、手を振り下ろしただけでユーミラの命など即絶たれてしまいそうな勢いの恐ろしいクマ。
思わず身震いしそうになったが、ぶんぶんと思考を振り切った。
(子グマから飼えば、きっと愛情も芽生えるわよ、うん!)
不安そうに見つめるベアモンドに、ユーミラは大きく首肯して見せた。
「本当です! ベアモンド様が好きなものなら、私だって好きになれます! それくらい、ベアモンド様が好きです!」
伝えた瞬間に、ベアモンド顔はカァァアッと音が出そうなほど真っ赤になった。ユーミラの決死の告白は届いたようだ。
しかし返事はどうなることかと、一気に不安を募らせた。
「ユーミラ殿……実は……」
「実は?」
赤くしたままの顔を、ユーミラに向けてくれる。
その茶色い瞳は優しく、不安よりも期待が高まっていく。
「実は俺も、ユーミラ殿のことを好ましく思っていた」
「ほ、本当ですか……??」
「ああ」
肯定の言葉を聞くと、あまりの嬉しさで涙が滲んでくる。
(まさか、ベアモンド様も私のことが好きだったなんて……! こんな嬉しいことがあっていいの?!)
「うー、うれじいですーっ!」
「な、泣かないでくれ。俺も信じられない気持ちでいっぱいで……あっ」
「あ?」
ふと見ると、ベアモンドの頭になぜか丸くてふわふわしたものが生えていた。
「……耳?」
ベアモンドが慌てた様子でその耳を押さえる。しかし押さえた手も、何故かゴツくて大きくて、たくさんの毛が生えていて。
(ベアモンド様って、こんなに毛深かったかしら?)
「み、見ないでくれ! コントロールが……っ」
「コント……ロール?」
「っくうう!」
ブチンと音がして、ベアモンドの着ていたシャツのボタンがふっ飛んだ。
(きゃ、こんなところで脱ぐなんて! そんな性急な……!)
と思ったのも束の間、今度はバリバリ音を立てながら全身の服が破れていく。
その中から現れたのは、人の肌ではなく──
「クマぁぁああああ!!?」
「あああぁぁあああああ!!!!」
長身のベアモンドよりもさらに大きなクマが、その場で丸くうずくまった。