②
麗奈に包丁を投げつけられる一件があってからも、事件はたびたび起こった。
麗奈と一緒にバラエティ番組を観て、「瀧本 環奈、可愛いな」と言えば、その瞬間、腕ひしぎ十字固めを喰らい「環奈じゃなくて麗奈でしょ?」と宣った後 、3日間、口を利いてくれなくなったり――いや、これに関しては俺が悪かったと思うが――
上司に勧められた弁当屋に二人で行った時、店員の女性が全然、俺の好みじゃないのに関わらず、麗奈から見れば可愛く映ったらしく、「ほう、これが目的か」などと呟いた 後、内股を喰らい、5日間、口を利いてくれなかったりと……。
後者に関しては俺に落ち度はなかったと思いたい。
あと、どうでも良いんだけど、タイトスカートでも内股はできるのだな、と感心したついでに、座右の銘が『俺が関心を持って良い異性は、麗奈と母ちゃんだけ』にグレードアップすることとなった。
因みに、母ちゃんの誕生日にカーネーションを贈った時に喰らった技は、蟹挟みからの流れるような三角絞めで、その後、1週間口を利いてくれなかったのだが、桔梗の花をプレゼントして、わざとらしく、
「麗奈みたいに綺麗だから買ったんだけど、桔梗の花言葉ってなんだっけな~? 知りたいな~」
と言ったら許してくれた。
麗奈が過去の恋愛で長続きしなかった理由は、こういうことだったのだが、たしかに並の男では身も心も持たないと思う。
まあ、『恋は盲目』と言うし『あばたもえくぼ』とも言う。
それでも、俺は彼女が大好きだったし、好きな気持ちを伝えれば甘えてくれるのが、最高に可愛いと思っていた。
そんなこんなで、交際期間が3ヶ月を超え、俺達は同棲するために、2DKの安アパートに引っ越すこととなった。
今までの住居はお互い六畳一間のワンルームマンションで、収納が心もとないのと距離が離れていたので、立地的にお互いの職場から見て、中間に位置する街を選んだのだ。
壁の薄い安アパートとはいえ、築年数は新しく内装も綺麗。
駅まで徒歩20分と、今までの不便さから考えれば、それなりに良い物件と言えるだろう。隣人がゲイカップルということを除けばだが。
そして、新しい住居に引っ越したことによって、麗奈の新しい属性が明らかになった。
お互い電車通勤で、今まで俺は自転車で駅まで行く方法を採っていたのだが、徒歩だった麗奈は自転車を持っていない。
なので、今後は二人乗りで駅に到着した後、改札で別れて各々のプラットホームへ向かうことにしたのだ。
同棲初日の通勤時に、改札でキスをしているクソカップルを発見して、「流石にないよね」と、お互い苦笑いしたことから、流石の麗奈も公共の場での立ち振舞いは弁えているようだと、安心したものの、その週末にホームセンターで何やら資材を買い込んできた麗奈が、自転車を改造していたことで、その認識は覆えされることになった。
改造というか、ハリボテの白馬を俺のママチャリに被せただけなのだが、ちょうど鞍に当たる部分がサドルとドッキングして、そのまま走行が可能な無駄なクオリティの高さは何なのか?
どうでもいいが、白馬の名前は『アルタクス』らしい。
麗奈いわく、俺と出会った時のようなハプニングが起きた時に、臨場感を出すためなのだとか。
いや、あの時、俺、徒歩だったし。
麗奈から、あわよくば同じようなハプニングが起きて欲しいといった狂気を感じたが、1番の問題はそこではなく、この恥ずかしさ極まりない『アルタクス号』で通勤しなくてはいけない、ということだ。
思った通り、『アルタクス号』に跨がり、麗奈をお姫様抱っこした状態で、通勤するハメになった俺には、断言できることがあった。
俺達は、改札でキスをしていたクソカップルなんて比べものにならない、クソバカップルということだ。
なんというか、公共の場がどうとか言って、非難の目で見たことを謝りたい。
通勤中、『アルタクス号』の制御に必死な俺をよそに、お姫様抱っこされた麗奈は俺の首に両腕をまわし、うわ言のようにこう繰り返していた。
「あなたは、わたしの命の恩人です」
やかましいわ!
俺は、『我、関せず』の精神を思い出し、俺が周りを気にしないということは、同時に周りも俺達のことなんて気にも留めない、という希望的観測を信じこみ、日々を乗りきることにした。
バカップル上等である。
こうして、自他共に認めるバカップルになってしまった俺達だったが、喧嘩をする時だってある。
何? 今までのは喧嘩じゃないのかって?
それはちょっと認識が違う。
ヘソを曲げた麗奈に俺が許しを乞う――あるいは、麗奈が俺に対して躾をしている、みたいな?
まあ、言いたいことは分かるよ。分かるし、情けなく見えるのかもしれないけど、俺がそれで良いと思っているだけの話だ。
ズバリ、喧嘩の原因は衣食住の“食”に関することだ。
言ってなかったが、俺は食に関して少々うるさい部分がある。
食と言っても、料理は麗奈の方が、断然、俺より上手だし、同棲して家事・炊事を当番制で分担するようになって、俺が食事の当番の時でも、拙い俺の料理を嬉しそうに食べてくれる彼女には、感謝の気持ちしかない。
ただ、たまに気になる時があるというか、なんというか……。
例えばブドウを食べる時、俺はあらかじめ、全てのブドウの皮を綺麗に剥き、皿に盛ってから一気に吸い込むのだが、それを見た麗奈が、
「なにそれ~」
と、ケラケラ笑っているのを見て、フツフツと怒りが沸いてきて、「うるせー」と怒鳴ってしまったことがあるのだ。
だって、母ちゃんが教えてくれた食べ方なんだもん。
普段は温厚な俺が、声を荒げたことがショックだったのだろう。麗奈は寝室に鍵をかけて、ふさぎ込んでしまった。
どう考えても俺が悪いのだが、この時は、何故か麗奈が先に謝ってくれて罪悪感を覚えたものの、同時にスッと心が晴れた気がした。
ずっと思っていたことがあって、カレーの下ごしらえで、ジャガイモの皮を剥く時、俺はピーラーを使うのだが、麗奈は包丁を使う。
彼女の包丁捌きが優れていることは、分かっているが、なぜピーラーという便利な道具がありながら、わざわざ包丁を使うのか?
「嫌味かっ!」
またしても怒鳴ってしまった俺と、ふさぎこむ麗奈。
明らかに俺が悪いので、この時は俺が先に謝ったら、胸に縋って号泣されてしまった。
罪悪感が半端じゃなかったが、何故だか胸がすく思いがした。
1番やばかったのが、お互い仕事が忙しくて、夕飯をカップラーメンにした時だ。
「ダッダーン、ボヨヨンボヨヨン」
謎の掛け声をかけ、お湯を注ぎ始める麗奈だったが、いつになったら時間を計測し始めるのだろう?
やきもきしながら、その様子を眺めていた俺だったが、麗奈がカップラーメンの蓋にキッチリとテープを貼ってから、砂時計をセットしたところで、ついて出た言葉は、
「麺が伸びちゃうだろうがっ!!」
だった。
ビクっと慄いた麗奈は、目に涙を溜めながら珍しく反論してきた。今までのことを、腹に据えかねていたのかもしれない。
「わたし嫌だよ。なんで、よっちゃん、こんなことで怒るの?」
「こんなことじゃねー! お湯が1滴でも麺にかかったら、計測を始めろって、いつも母ちゃんが――」
あっ!!
しまった、と思った時にはもう遅かった。
麗奈は俺に平手打ちを喰らわすと、玄関へと駆け出してゆく。
柔道技以外の暴力を受けたことは、この時が初めてだった……。
まずいと思った俺は、彼女の後を追い、玄関を出たところでなんとか肩を掴み、引き留めることに成功したものの、今度はシンプルに首を絞められた。
これも柔道技ではない。
泣きじゃくる麗奈と、首を絞められているため、声を上げることができずにもがく俺。
「アンタ達、なにやってんの!?」
騒ぎを聞き付けた隣の住人――ゲイの阿保さん――の介入により、事なきを得ることができたものの、このくだらない喧嘩の詳細を、説明するハメになってしまった。
「そりゃアンタ、よっちゃんが悪いわよ。あとでちゃんと謝りなさいよ? それから、レイちゃんも暴力はいけないわ。分かった?」
事情を聞いた阿保さんに窘められた俺達は、二人そろってシュンとする。
気を遣って空気を明るくしようと思ったのか、阿保さんがこんなことを言い始める。
「それはそうと、アンタ達。このアパート、壁が薄いんだから夜のお楽しみは、もっとボリュームを下げてもらわないと困るのよ~」
そして、片目をつむり、親指を人差し指と中指の間に挟んだ、下品なサムズアップをする。
普段なら悪寒が走る仕草だが、この時に限っては、このノリに乗っておいた方が良い気がした。
「いやいや、それはお互い様でしょ。
阿保さんの方こそ、振動を抑えてくださいよ。地震と勘違いしちゃいますんで」
阿保さんに倣って、下品なサムズアップを形作った俺は、それをグーに見立てて、彼とグータッチをする。
「「イエ~イ☆」」
……アホである。
心のナレーションが、幻聴として聴こえてきた気がしたが、お茶を濁すにはちょうど良いアホさ加減だったので、気にしないことにした。
麗奈を見やると、赤面しながら両手で口を押さえていたが、俺の視線に気付くと、冷ややかな目を向けてくる。
この時は、悪ノリしすぎたかな? 程度に思っていたが、その後10日間、口を利いてくれなかった。
ここに来て初めて知ったことなのだが、かつて好きだった部活の先輩(男)を、他の部員(男)に寝取られた経験から、男であろうと麗奈には嫉妬の対象になるようだ。
いや、俺もその先輩に嫉妬しそうだよ……まじで。
兎も角も、俺の座右の銘はこの時を持って『俺が関心を持って良い“人間”は、麗奈と母ちゃんだけ』に、グレードアップすることとなる。