①
自慢ではないが、俺――香坂 良純――は、女性との交際期間が1年間、持ったためしがない。
原因が分かっていれば、手の打ちようもあるのだが、フラれる時に相手は何も言わないし、俺も追求しない。
要するに、思い悩み、原因を究明するほどの執着がないのだ。
よく、別れた女のことを引きずる男は女々しいと、マイナスに見られる要因になると耳にするが、執着が無さすぎるのも問題なのかもしれない。
そしてこれは自慢だが、そんな俺にも、別れたくないと思える程度には、好きな恋人ができたのだ。
女性との交際期間が“1年間”持ったためしがないとは言ったが、実を言うと、それはちょっとした見栄みたいなものだったりする。
なぜなら、彼女――田ノ上 麗奈――と付き合うまでは、1年はおろか3ヶ月、持ったことがなかったからだ。
つまり、彼女と付き合ってもう少しで1年になる。
記念日には夜景の綺麗な高級レストランを予約したし、指輪も買った。
本気で異性を好きになると、相手に良く見られたい、といった気持ちがわいてくるが、逆を言うと、それは幻滅されることを恐れているということだ。
今までそういった機微に無頓着だったことが祟って、これまでにフラれた原因は分からないが、麗奈を失いたくないという気持ちは本物だ。
彼女に会うまでの俺の座右の銘は、『我、関せず』だったが、それが『我儘を許して良い異性は、母ちゃんと麗奈だけ』に変わったくらい、彼女に執着があると言える。
恋愛に関しての自分の欠点は、相手に対する関心の薄さ――程度の分析くらいしかしてこなかったが、他者のことになると分かるもので、麗奈の欠点は把握しているつもりだ。
“新”座右の銘を彼女に話したことがあるのだが、なにやら“母ちゃん”が自分の名前より先に来ていることが、許し難かったらしく、座右の銘を『我儘を許して良い異性は、“麗奈”と母ちゃんだけ』に変更することを、余儀なくされたことがある。
つまり、彼女の欠点とは、恋人の母親にすら嫉妬する嫉妬深さだ。
本当は座右の銘に“母ちゃん”が入っていること自体、気に食わなかったようで、渋々許してくれたのは、丸1日、口を利いてくれなかった後だったわけだが。
麗奈と出会ったのは、会社の忘年会を一次会で切り上げて、駅に向かっていた時のことだ。
後から聞いた話では、彼女も忘年会の帰りだったらしく、運悪く酔っぱらいの団体に絡まれてしまったのだという。
麗奈は、癖のない黒髪ロングストレートの、タイトスカートが良く似合う、スレンダーな美人OLといった風貌で、動物に例えるのならキツネ顔。
整ってはいるがキツめな容姿からは、近寄りがたい高嶺の花、といった印象を抱かせた。
近寄りがたいとは言ったが、理性のタガが外れた酔っぱらい共には、そんなことは関係なく、むしろ格好のターゲットだったのだろう。
酔っぱらいを擁護するわけではないが、彼女にはそれだけの魅力あり、絡みたくなる気持ちは、少し分かってしまう。
そんな彼女が目に涙を溜めて怯えていればどうだろう。
『我、関せず』がモットーな俺が、酒が入っていたこともあり、柄にもなく義憤にかられ、助けに入ってしまったのだ。
「おい、彼女、怖がってるだろ?」
そう割り込んだのは良いが、特に荒事に慣れていない俺は、すぐにボコボコに叩きのめされた。
いやあ、正直、慣れないことはするもんじゃないと、その時は後悔したね。
だが、今思えば麗奈と知り合えるキッカケを得られる英断を下した、当時の俺を誉めてやりたい。
俺がボコられている隙に、逃げた麗奈の姿を確認して、「まあ、それが普通だよな」と、彼女が無事に逃げられたことを喜ぶよりも、恩着せがましくも寂しさを覚えた俺だったが、暫くして麗奈は警察を連れて現場に戻ってきてくれたのだ。
その時は、女神が降臨したと思ったね。
幸い骨折等はなく、病院嫌いな俺は、翌日、会社を休んで自宅で療養していたわけだが、どうやって調べたのか、ゆるふわファッションに身を包んだ麗奈が家を訪ねてきて、甲斐甲斐しく介抱してくれたのだ。
それが彼女と付き合うキッカケにとなったわけ。
これは、麗奈には口が裂けても言えないが、マザコン気味の俺が、彼女に世話を焼かれたことによって、バブみを覚えたことが、彼女に惚れる決定打だったのだと思う。
後から聞いた話だが、俺が女神が降臨したと感じたように、彼女は彼女で、白馬の騎士が救いに来たと思ったようだ。
俺が白馬の騎士ねえ。
些か無理があるように思えるのだが……。
これをファンタジーに例えると、ゴブリンやオークに襲われる令嬢を、勇ましく助けに入ったはいいが、返り討ちに遭う、勘違いしたクソザコなモブ村人でしかないのだが、彼女が好意的にとってくれたのであれば、良しとしよう。
帰り際、「あなたは、わたしの命の恩人です」とか言って、しなだれかかってきた時にはドキッとしたが、それ以上に「この子、大丈夫かいな?」と思ったがね。
暫しの交際を経て、麗奈の異常なまでの嫉妬心が、身に染みた出来事があった。
彼女も俺と同じく、異性と付き合って長く続いたことがないと言うのだが、それも納得というものだった。
麗奈は、料理や家事全般といった女子力が高く、可愛いというよりかは美人寄りの顔立ちなのだが、小動物のように可愛く甘えてくるギャップが堪らない、俺には勿体ない素敵な女性だ。
だから、さぞかしモテただろうと、過去の恋愛について聞いてみたのが間違いだった。
リンゴの皮を剥きながら、ばつが悪そうに、長く続いたことがないと答えた彼女は、お返しとばかりに、今度は俺の恋愛遍歴を聞いてきた。
相手の過去を聞けば、自分のことを聞かれるのは当然の流れ。深淵を覗く時、深淵もまた、こちらを覗いているのだ――なんてね。
「俺も――」
そう答えた瞬間、何かが頬を掠めた。俺が座っていたソファーの背もたれに、何かが突き刺さっている。
恐る恐る横を向くと、そこには先程まで麗奈が使っていた包丁が生えていた。
「まさかとは思うけれど、よっちゃん(俺の愛称)、わたし以外の女と付き合ったことなんてない……ないよね。ない……よね?」
この世のものとは思えない気配を間近に感じ、視線を正面に戻すと、いつの間に移動したのか、顔を横に傾けた麗奈が、こちらを覗きこんでいた。
重力に従い、顔にかかって滝のように流れ落ちる黒髪は、ホラー映画さながらだ。
どうでも良いけど、その体勢、疲れん?
――などと、素朴な疑問が頭をよぎったが、そんなことを言っている場合ではない。
『こらっ、良純。嘘つきは泥棒の始まりだよっ』
幼い頃、母ちゃんに言われたありがたい言葉がフラッシュバックしたが、そんなことを言っている場合でもない。
「な、なに言ってんだよ。昔も今もこの先も、俺が時間を割く異性は、麗奈だけって決まってんだろ?(あと、母ちゃん)」
嘘も方便ってやつだ。
このままでは命が危ないと思った俺は、咄嗟に出た自分でも驚くほどの、浮気がバレた時のチャラ男っぽい台詞を吐き、彼女を宥めることを試みたのだが――
ソファーごと床に押し倒されてしまった。
この細身のどこに、これだけのパワーが?
柔道でいうところの、袈裟固めの体勢でガッチリとホールドされた俺の耳に、麗奈の吐息がかかる。
「本当? 本当だよね? 信じて良いんだよね?」
どうでもいい話だが、麗奈は学生時代、好きな先輩(男)と、練習に託つけて寝技をする魂胆で柔道部に入部したものの、他の部員(男)に、その先輩を寝取られるといった、苦い経験があるという話を、俺は後に聞かされることになる。
この時は知らなかったが、そんな不純な動機で入部したものの、麗奈は柔道二段の実力のため、彼女がその気になれば、俺ごとき簡単に制圧されてしまうのだ。
「本当、本当だってば。あと、苦しいけど、胸があたって嬉しい複雑な気分……なんてね」
俺の苦し紛れのの反撃に、ハッとして離れた麗奈は、胸を押さえる仕草でムッと睨んでくるが、頬が紅くなっているのを見逃さない。
良し、あと一押し。
「麗奈ってさ、実家が米農家で姓が田ノ上だから、田ノ上じゃなくて“田植え”って、子どもの頃、からかわれたって言ってたじゃん?」
「そうだけど、今する話? それ」
訝しげに眉をひそめる麗奈に、俺はこう続ける。
「俺なんて、実家がイカ漁師だから、アダ名が“よっちゃんイカ”――なんて話はどうでも良いんだけど――その、なんだ……」
付き合ってまだ、そこまで時間が経っていないので、この先を言うのは口ごもってしまうが、窮地を脱するには言うしかない。
というか、自分は過去に男と付き合ってても良いけど俺はダメとかあれか?
わたしの想い出はわたしのもの、お前の想い出はわたしだけ――って、お前はジャイアンかっつーの!
「この先も――って、さっき言っただろ? だからあれだよあれ。そのうち姓が香坂に変わって、香坂 麗奈になるんだから問題ない――ってこと……なんだけど」
ああ、言ってしまった。思った以上に恥ずかしいなこれ。
「もうっ……ちょっと気が早いんじゃないの?」
袈裟固めをかけられた状態から、上半身だけ起こした体勢の俺に抱きついた麗奈は、それ以上何も言わなかった。
気のせいかもしれないけど、なんか俺って、クズ男っぽいムーブしてない?
そんなことを考えつつ、袈裟固めと違った、心地よい抱擁に身を任せ、俺は艶やかな黒髪を撫でた。