狭間で惑う
冬休みももうすぐ終わる。
安寧とは程遠い日々から、地獄のような日々に戻るまでを、懐中時計は狂うことなく刻んでいく。
──サモンの魔力の変化さえも。
喉が焼けるような熱と、肌の痛みに目を覚ます。
重いまぶたの向こうにあったのは、純紅の炎で、人間には到底生み出せない魔法だった。
サモンはどうして自分が炎に包まれているのかも、なぜまだ生きているのかも理解できなかった。
この炎ならば、人間は三秒で骨も残さず、燃えて消えてしまうのに。
「どうして」
なんて、言葉にしたって。
「こっちのセリフだ! 間抜け!」
そう返ってくるに決まっているのに。
横を見れば、青ざめた様子のツユクサとホムラが立っていて。
二人が炎からサモンを助けようとしていた。サモンは起き上がることも出来ずに、それをぼうっと見つめていた。
「ホムラ! もう少し炎を抑えてくれ!」
「やってんだよ! 今! つーかさっきからずっと!」
ツユクサの魔法が、炎に負けている。精霊の魔法と同等の炎が、一体どこから出ているのか。
「興味深いね」
「何を呑気に言ってんだ! ツユクサに怒られろ!」
「君が怒れ! 仕方ない、溺れるんじゃないぞ!」
ツユクサはそう言うと、魔法の詠唱を始めた。
「水よ絶えず流れ 留まるなかれ
水よあらゆるものを流し その一切を残すなかれ
歓喜も 憤怒も 慟哭も
葉から零れ落つる露に同じ
浄罪の一雫よ 生命の根源よ
その温情を示せ」
露草の持つゴブレットから、水が溢れて、部屋に満ちていく。
サモンは自分を包み込む水を眺めて、口から溢れた泡沫に手を伸ばした。
ツユクサは水の中で、ゴブレットを差し出す。
低い声で発せられた呪文は、少なくとも恵みではないだろう。
「『流転する純水』」
水は見えない何かに引っ張られて、部屋の中を渦巻いた。
ゴブレットに向かって流れていく水は、自分の帰る場所を知っている。
(……私は分からないのに)
全ての水がゴブレットに流れると、サモンは自分が部屋にいたことを思い出した。
「あぁ、寝てたんだっけ」
「そんなことも覚えてなかったのかよ」
ホムラの呆れた声の後に、サモンは強い力で体を起こされる。
「君は自分が炎を出した自覚がないのか?」
静かに尋ねるツユクサに、サモンは無言で返す。
下を向いて、表情が見えないツユクサから、何色とも言えない水の色が見える。
「──それは、何の感情?」
寝ぼけたサモンがそう尋ねれば、珍しく激昂するツユクサの顔が、鼻を噛まれそうな距離に近づいた。
「こんなことになるまで放って置いたのか!!」
ツユクサの叫びに、サモンは子供のように顔を逸らす。
「こっちを見なさい! サモン!!」
母のように叱るツユクサは、荒っぽくサモンの胸ぐらを掴んで揺さぶった。
サモンはようやく覚醒する。
自分が置かれた状況に、ちょっとした危機感を覚えた。
尋常ではないツユクサの様子に、ホムラが慌てて仲裁に入る。けれど、ツユクサの手は震えるくらい力が強く入っていて、解けることは無かった。
「おい、ツユクサ! 落ち着け!」
「落ち着けるか! さっきの精霊の魔力だ! 人間が耐えられるような力じゃない!」
「でもサモンは耐えた!」
「次はどうなる!」
ツユクサは「どうして相談しなかった」と、己の不甲斐なさに憤る。
「そんなに頼りないか!」
もう、八つ当たりだった。
助けられなかった時の不安もあるのだろうが、頼ってもらえなかった悲しみが強い。
皮肉や文句には定評のあるサモンも、何も言い返せずに俯いた。
自分なりに対処はしていた。ヒントになりそうなことも知った。
まだ構想の段階だっただけ。
実験に移る手前だっただけ。
話すのは、その後でいいと思っていただけた。
感情がコントロール出来ないツユクサに変わって、ホムラが諭す。
「俺らはさ、あんたの口から聞きたかったんだ。エリスの手紙じゃなくてよぉ。考えがあったんだろ? あんたは賢い子だ。そして優しい子だもんなぁ」
ホムラはサモンの隣に腰掛けて、肩に手を置いた。
「心配かけたくなかったのか? ん?」
話を聞こうとしてくれるその優しさが嬉しかった。けれど、それが辛かった。
何がと言われたら言語化出来ないが、心に踏み込もうとしてくることが、怖いような。恐ろしいような。
サモンはそれから逃れたくて、適当に話を誤魔化した。
「別に。忘れていただけだよ」
「嘘だ」
「今年は色々、トラブルも多くて、絡んでくる生徒もいたし」
「それは本当だ」
「だから、忙しくて忘れてたんだよ。薬で抑えられてたし、魔法を使っていれば問題なかったし」
「嘘だ」
「ツユクサ、頼むからやめてくれない?」
「本当のことを言えばいいだろう」
ギスギスした雰囲気を、ホムラが「やめろ」といさめる。ツユクサは眉間にシワを寄せて、腕を組んだ。
サモンがため息をつくと、ホムラはサモンの顔を覗き込む。
サモンはホムラの目を見つめて、話す決意を固めた。
「どうしろって言うのさ」
口から零れた不安と、ドス黒い感情。
力を抑えることも出来ない。使いこなすことも出来ない。
ただ荒ぶるそれを、使わない選択だけがあって、対処も出来ない。
薬も、強力なものに変えて、毒にすらして、氷の精霊の件で無意味と知って。
魔力の濃い精霊の森に帰れず、かといって、学園ではいつ被害が出るかも分からない。
どこにも行けないでいて、何も出来ないでいる。
これを、どうしろというのか。
「何とかしてる最中なんだよ。私なりにね。それを、君たちに知られたくないって、思ったらいけないのかい」
サモンの弱音を受け止めて、ツユクサは深く息を吐いた。
ホムラもサモンを強く抱きしめる。
二人とも、何も言わなかった。それがとても心地よかった。
「このことを知っているのは、いるのか。私たちの中で、君の状態を知るのは」
ツユクサはそう尋ねる。震えた唇が、サモンに罪悪感を植え付けた。
サモンは口を噤む。ツユクサはそれを見て、悲しそうな顔をした。
「分かった」
その言葉の意味は分からない。
けれど、サモンに背中を向ける彼は、とても小さく見えた。
先に帰ってしまったツユクサに、サモンは自分のゴブレットをなぞる。
ホムラが「気にするな」と言ってくれたが、気は晴れない。
「拗ねてるだけだって。ほっときゃいい。そのうち機嫌直すだろ」
「でも、私も、相談くらい」
「ツユクサには謝るなよ? 不機嫌はそいつの問題だ。あんたがしたことは、間違ってねぇんだからよ」
ホムラはサモンを励ますと、ツユクサの後を追いかける。
サモンは一人残された塔の中で、自問自答を繰り返す。
これが本当に正しい事だったのか。
自分は一体、何者になるのか、と。




