月の浮かぶ湖 3
日が傾き、空が静かに赤く染っていく。
サモンは懐中時計をテーブルに置き、ひたすらペンを走らせていた。
懐中時計の底、時計盤を開いた先には、簡易的な月齢が時計回りに並んでいる。
時計と連動して回る月齢は、満月を示していた。
サモンは頭を抱えながら、ガリガリと紙に何かを書き連ねていた。
「満月かぁ。最悪すぎるにも程があるよ」
月の満ち欠けが人間の精神に影響を与えるように、妖精や魔族にも、月の影響を受けやすい種族が存在する。
今回、サモンが相手をするのは、月の影響をかなり受ける妖精族だ。
「ヴォジャノーイ……。厄介にも程があるよ、ホント」
新月で人が情緒不安定になるように、ヴォジャノーイも大人しくなる。
満月で人が狂気的になるように、ヴォジャノーイも活発で衝動的な行動をする。
剣術学科の生徒たちは不運としか言いようがない。
月が満ちていく頃合いでここに訪れ、ヴォジャノーイが知るとも知らず、彼らに連れ去られてしまったのだから。
「えぇと、ヴォジャノーイの性質……っとぉ」
サモンはうんと背伸びをして、ついでにあくびをする。
ヴォジャノーイは、カエルが髭を生やしたような姿をしている。彼らは変幻自在で、人の姿にも魚にも変わることが出来る。
三百年前には、美女に姿を変え、男を誘惑して湖に引きずり込んだ事件を起こしたと伝わっているし、さらに百年前には苔の生えた巨漢となって、襲ってきた人間を返り討ちにしたとも言われている。
まさに変化の妖精と呼ばれる由縁だ。人に化ける種族の中でも一等上手い。
けれど、サモンが懸念しているのは、そこでは無い。
ヴォジャノーイが、人間が嫌いであるということだ。
妖精学の三学年の授業で、ヴォジャノーイの性質や歴史を学ぶ。
その際に、サモンは口酸っぱくして「ヴォジャノーイには近づくな」と忠告する。
「会ったら逃げろ」「戦うな」「とにかく距離を置け」──ヴォジャノーイの単元では、授業中ずっと繰り返して喋る。
そのくらい、妖精の中では厄介で危険なのだ。
彼らの住処に連れ去られたなら、必要なものは生徒たち全員を連れ出せるだけの魔法か魔法道具。それとヴォジャノーイを出し抜けるだけの何か。
一人で来たのは失敗だった。エリスか魔法学科の教員を誰か、連れて来るべきだった。
サモンはため息をついて、インクで汚れた手で顔を掻く。
「……連れ出す魔法は、まぁ組めるとして。ヴォジャノーイに一泡吹かせるだけのものって何だ?」
サモンはポケットに手を入れた。
指先にゴツゴツとしたものが当たる。
携帯食糧の硬さではない。サモンはそれを取り出した。
「……ドワーフの魂」
昼に食堂で、ロベルトと契約した際に持ってきたものだ。
それはオレンジがかった光を浴びて、幻想的な輝きを放つ。
「あったところで無駄だけれどねぇ。奇病の薬に、幻術。それくらいしか使い道がないわけだし──」
──幻術?
別に彼らを長時間押さえる必要は無い。
剣術学科の足なら、すぐに湖から離れられる。そのまま森を抜けて、学園まで走っていける。
湖から出して、森に溶け込むまでの時間を稼げばいい。
それこそ、五秒から十秒ほど。
ヴォジャノーイが湖から出られない程度に拘束すれば、さらに伸びる。
サモンは小屋の中を漁る。奥の粉引き部屋に置かれたすり鉢を持ち、ドワーフの魂を欠片一つ分砕く。
それを細かくすり潰し、粉状にしてビンに入れた。
そこに、燃えやすいように削った木の欠片と、松ぼっくりや火種になりそうなものを入れる。
それに火をつけて、蓋をしてポケットにギュッと詰め込んだ。
サモンは大きく息を吸って魔法の練習をする。
「さぁて、水の精霊──」
サモンは指揮を執るように杖を振るうが、魔法は失敗する。
形を整えようとした水が、自分に向かって放射された。
「……ッ、クション」
サモンは冷えた体を震わせた。
***
すっかり月が高く昇る。
サモンはようやく完成した魔法に、満足していた。
魔法式を書いた紙が失敗した魔法で水浸しになり、読めなくなった時は焦った。
魔法式を口に出して読みながら、呪文を唱えるのは大変だったが、その甲斐あって予想外の魔法が出来た。
思っていたのとは違ったが、十分な完成度だ。
サモンはポケットで熱を放つビンに目を落とす。
布越しでも熱く燃えるビンの中は、十分すぎるくらいに煙で満たされていた。
「さぁて、お仕事に行こうかねぇ」
サモンは小屋を出ると、両手を広げて湖に落ちる。
ボチャンッ! と大きな音を立てて飛沫が上がる。
満月を浮かべた湖は、岸の反対側にまで波紋を立てていた。




