三.契約 ~闇精霊のお姉さん
無音――何も視えない。森のさざめきも、燃え上がる炎が弾ける音も、勇者が醜く嗤う音も聞こえない。
(僕は……死んだのか……?)
【そうね、残念だけどあなたの肉体は消滅したわね】
聞こえる筈のない、心の声に反応する呼び掛け。自身の身体すら視えない世界で、レイは声がある方向へ手を伸ばす。
「え? 誰かそこに居るの?」
【視えるようにしてあげましょうか】
急に彼の視界が開ける。そこは、紫宝石色に妖しく染まった厚い雲に覆われた世界。空間をゆるりと流れる透明な泡が景色を投影している。もし死んだのならば、死後の世界だろうか? 見慣れぬ景色にレイは、自身の置かれた状況を把握しようとする。
「僕の身体が……ない?」
心臓の鼓動、四肢が動く感覚、両瞼を閉じる感覚すらない。視えるものは景色のみ。
「だから言ったでしょう? あなたの肉体は消滅したって」
「なっ……!?」
彼が驚くのも無理もない。艶やかな紫色の髪は背景と同化し、紅い瞳を煌めかせている。そんな、瞳と同じ色の紅いルージュを引いた大人の色気を魅せる女性が、黒いレースの下着姿で彼の眼前に迫っていたのだから。
「あら? 魂のみでも興奮するのね?」
「あなたは一体……誰?」
レイの魂は、彼女に問う。妖艶な笑みを浮かべた女性は、彼の問いに答える。
「私は闇精霊ルシア。ルシア・タナトゥス・レーデ。この世界の〝混沌〟と〝死〟を司り、混沌流へと逝き着いたあなたの魂を導く存在」
この世界には精霊が深く関わっている。精霊は火、水、土、風と言った四大元素を司り、精霊の加護によって魔法が存在し、文明発展へと寄与している。しかし、レイの眼前で妖しく微笑む精霊は、理解の範疇を超えていた。
「闇精霊……だって? そんなもの聞いた事はないよ?」
「そりゃあそうでしょうね。魔族でもない限り、私と会えるなんて希少よ。希少中の希少。あなたはこうして私に選ばれたの。おめでとう」
「いや……突然そう言われても困るんですが……むしろ死んだんですよね、僕」
闇精霊ルシアが希少と言う度、黒レースの下着に隠れた闇の林檎が揺れる。胡散臭い宗教にでも勧誘されているかのようで、彼はルシアから視線を逸らしつつ後退る……と言っても彼は今、魂だけの存在なのであるが。
空気が少し軽くなったところで闇精霊は表情を変える。いつの間にか漆黒の羽衣に身を包んでいる。それはまるで、魔界からやって来た闇の巫女のようで。
「そう……記憶が混濁しているようね。あなた……どうやって死んだのか……覚えているわよね?」
「え? それは……」
彼の脳裏に、勇者グラシャス、マーサ、ルン。仲間達に裏切られ、殺される迄の映像が走馬灯のように流れていく。消滅した胃袋から体液も血液も憎悪も哀しみも絶望も何もかもをぐちゃぐちゃにされた塊が沸き上がってくるかのような錯覚に陥る。
「あぁあああああああ」
しかし今彼は、魂だけの存在。胃液すら吐き出す事は出来ないのだ。剥き出しの魂は、全ての感情に只々曝されるのみ。
「あなたはどうしたいの? このまま絶望したまま魂も押し潰され、文字通り死を迎える? それとも……」
「それとも……?」
闇精霊ルシアは、虚ろな魂を見据え、微笑む。彼女の瞳が紅く妖しく発光する。
「私と契約し、もう一度現世へ戻り、復讐を果たすか?」
復讐……レイにとって人生で一番無縁の言葉だと思っていた。正義のために生きる、彼はそう誓ったのだから。
「契約? 復讐? ……僕が……?」
「精霊と心核をひとつにするの。流れ込む奔流に身を任せなさい。ただし、強い意志を持つコト。あなたがどうしたいか? その意思がなければあなたはただの抜け殻となってしまう」
意思ならあると彼は思う。仲間だと思っていた勇者も、マーサもルンももう居ない。レイはそう自分に言い聞かせる。
(死にたくない……生きたい。闇でもなんでもいい。絶望なんかに押し潰されてたまるか!)
「もし契約……しなければ……」
「あなたは死ぬわ」
ならば選択肢はただひとつしかない。彼は決意する。
迷いを断ち切った彼は今、生まれ変わる――
「俺と契約しろ、ルシア」
「いい返事ね。さぁ、闇とひとつになりましょう。あなたは私と契約し、死をも超越する!」
彼へと紫宝石色の世界が全て流れ込む。欲望、絶望、希望、喜び、哀しみ、憎悪、狂気、愉悦、これまで体験した全ての感情が溢れ、闇の奔流と共に彼の魂を呑み込んでいく。
声にならない叫声と共に、闇精霊と彼の魂を象る心核とが融合し、彼の魂が、闇の奔流が新たな人の形を成していく。今迄黒かった彼の短髪は銀色へ染まり、ルシアと同じ紅い瞳の色へと変化していった。
拳を握る感覚。まばたきをする感覚。体内を流れる血潮。鼓動――魂が躍動する音。自身が生きている感覚が彼の脳裏へ押し寄せて来る。空間を流れる泡に映り込んだ、自身の新たな姿を見つめるレイ。
「こ、これは?」
【これが生まれ変わったあなた。あなたは私と共にある。さぁ、行きましょう】
闇精霊ルシアの声と共に、彼の視界は漆黒の闇に包まれ――
彼の魂は、生と死の狭間の世界――〝混沌流〟から消失するのであった。
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