9 良い話
ラーニャが短い休憩を終え、ファイサルの元へ戻ると、長椅子に行儀悪く寝そべり、何やら考え事をしているようだった。
「ファイサル様、戻りましたよ。」
周囲に誰もいないことを確認し、やや砕けた口調で話しかける。二人でいる間は、そうするのがファイサルの望みだった。
「…ああ、随分と早かったな。焦らせて悪い。」
「いえ、もともと長く休むつもりではなかったので。」
ファイサルは気怠げに身を起こした。緩く癖のある髪が、はらりと額に掛かる。
「…あの二人とは、仲が良いんだな。」
「サナとマリアムですか?それは、子供の頃からの付き合いですから。」
「実は、ラーニャに良い話を持ってきたんだ。」
「まあ、お給料でも上げてくださるのですか?でしたら大歓迎です。何をそんなに気にされてるんです?」
「給料は上がるし、待遇も良くなるはずだ。だが、お友達と差ができてしまう。その、気まずい思いをさせないかと、今さら悩んでた。」
ラーニャは一瞬きょとんとし、すぐに声を上げて笑った。
「無用な心配ですよ、ファイサル様。その程度のことで、私達の繋がりは変わりません。」
孤児院での日々を懐かしく思いながら、ラーニャは胸を張って言う。
「孤児院は、複雑な場所なんです。親を亡くした子、親に捨てられた子、親から逃れてきた子、みんなそれぞれ他の子を羨んでる。あの二人とは、そんな場所で色んな感情をぶつけ合って、たくさん喧嘩して、血よりも強い絆を築いて来ました。」
もちろん今だって、腹の立つことや嫉妬をすることだってある。それでも3人は、互いのためなら人を殺すことだってできてしまうだろう。
「そうか…良い友達だ。うん。じゃあ、行こうか。」
ファイサルはまだ少し躊躇いが残ってる様子だったが、意を決した顔でサッと立ち上がった。そのまま部屋を出ていこうとするので、ラーニャは慌てて後を追う。
「ファイサル様、私はなんの御用で呼ばれたんです?」
「ひとまず今日は、手紙の代筆を頼みたいんだ。」
「はあ。」
手紙の代筆なら、既に似たようなことをしている。どこが良い話なのだろうか。
(あれ?書斎も、資料室も、居間も通り過ぎちゃった。)
ファイサルは、ラーニャがなんとなく当たりをつけていた行き先を一瞥もせず素通りしていく。
ラーニャは不安になり、潜めた声で尋ねる。
「あの、どちらまで向かってるんですか?」
「あれ、言ってなかったか?お祖母様のところだ。」
ファイサルが事も無げに言う。
ラーニャは自分の喉が奇妙な音を立てるのを感じた。
「ちょっと待ってください!それならそうと言ってください!こんな身なりじゃ奥様の御前には出れません!髪も乱れてるでしょう!?」
ラーニャは顔面を蒼白にして訴えた。お仕着せは少しよれているし、脚立をしまうのに物置に入ったので埃が付いているかもしれない。ファイサルの祖母エバ・ナルジスといえば、ナジャー家の屋敷で最も身分の高い人間だ。なんと言っても貴族なのだから。こんな姿を見せて良い相手ではないのだ。
「大丈夫だって。細かいところは老眼で見えやしないよ。髪は…ほら、これで良い。」
ファイサルの男らしく節ばった指が、ラーニャの額をかすめた。そのまま簡単に髪が整えられる。
思わず息が止まった。
(この人は、なんで息をするようにこんなことが出来るんだ…。)
ラーニャは、何事もなかったかのように再び前を行くファイサルの広い背を、恨みがましい目で睨みつけた。そうしながら、優しい指使いの温もりを留めるように、髪の生え際に両手を添える。
やがて目的の部屋の前に着くと、ファイサルの声に応じて、寝室の内側から扉が開かれた。
「お祖母様、お待たせしました。例の者を連れて参りましたよ。」
「ファイサル、何もお前が呼びに行かなくても良いでしょうに…。じっとしていられない子ね。」
「性分なもので。」
エバは、寝台から半身を起こし、大きなクッションに身を預けていた。孫の得意げな笑顔に小さくため息を吐き、ラーニャへ視線を向ける。
「お前がラーニャね。孫が驚かせたのではないかしら。ごめんなさいね。」
「滅相も無いことでございます。」
家政婦長の教えを必死に思い出しながら、出来うる限り最上の礼をする。
「早速だけれど、試しに書いてくれるかしら。必要な物はそこにあるわ。」
「かしこまりました。」
ラーニャは、素直にエバが指した側机に向かう。手紙の代筆にあたり、ラーニャがどのような文字を書くか確認しておきたいのだろう。ファイサルが立っているのに自分だけが椅子に掛けて良いものかと内心逡巡したが、座らねば書けない。何も思わなかったことにし、ひとまずオミウ湖の美しさを讃える有名な詩を書いて見せた。
「まあ!素晴らしいわ!少し遊びに欠けるけれど、十分よ。追々覚えてもらえれば良いもの。実は期待していなかったのに…。思いがけないこともあるものね。」
エバは目をすがめてラーニャの文字を読むと、心底嬉しそうに笑い、頬を紅潮させた。
ラーニャはひとまず、エバを満足させられたことに安堵する。
「早速だけれど、取り急ぎ書いて欲しい返事があるのよ。長らくお返事できなかったものだから、きっとご心配をお掛けしているわね。着替えはしなくても良いから、頼んだわ。」
「…かしこまりました。」
着替えに言及したということは、ラーニャの身なりが気になるのだろう。ラーニャは身を硬くし赤面した。
「ファイサル、お前はもう出ていきなさい。お前がいては恥ずかしくて返事を考えられないじゃないの。」
エバが、用済みだと言わんばかりにファイサルを追い出しにかかった。
「お祖母様、では、ラーニャは合格ということで宜しいでしょうか?」
「分かり切ったことを聞かないで頂戴。ほら、早く。」
「だそうだ、ラーニャ。おめでとう。」
本人が分からない話を、通じ合っているかの様にするのはやめて欲しい。下手に調子を合わせてぼろが出たときに困るのはラーニャなのだ。
「…恐れながら、『合格』とは…?」
恐る恐る尋ねると、エバが「まあ。」と目じりを吊り上げた。
「ファイサル、さては肝心なことを何も伝えずに連れて来たのね。かわいそうじゃないの。」
「あ~。遠まわしには匂わせましたよ。」
「それは伝えていないと言うのよ。」
エバは孫の言葉を一蹴し、ラーニャに優しく微笑んだ。
「お前は、今この時からわたくしの侍女になったのよ。これから、よろしく頼むわね。」
視界の端に、ラーニャが今着ているお仕着せとは違う物を纏った侍女の姿が入る。
(着替えって…そういうこと…。)
ラーニャの喉が、本日二度目の奇妙な音を発した。