8 祖母
祖母の手が、色鮮やかな刺繍を撫でる。繊細なそれは、ファイサルがまだ幼いころに祖母みずから刺した物だ。祖母は刺繍の名手で、簡単な図案を基に、驚くほど作りこまれた作品を仕上げてきた。しかし、寄る年波には勝てず、祖母が針を持つことはもう無い。
「このように細かい絵を刺せたなんて、我ながら信じられないわ。これほど顔を寄せても、よく見えないというのに。」
「お祖母様なら、例え目が見えなくなっても刺せそうではありませんか。どうです、久しぶりに刺してみては。」
ファイサルは穏やかに言う。祖母の寝台の脇に置かれた椅子からわすがに腰を浮かし、祖母が眺める水仙の刺繍を覗き込んだが、やはり贔屓目なしに素晴らしい出来だ。
「よして頂戴、拙い物を作っては、私の沽券に関わるのよ。若い頃の様に、新しい商売を考える方がまだましだわ。」
「おや、では是非お願いしたい。今でさえ主力の商売のほとんどはお祖母様が切り開かれたものですから。父も叔母も、新規の商売は行き詰まっているので大喜びしますよ。」
「いやよ、碌に顔も見せない親不孝者達じゃないの。」
寝台の上で身を起こした祖母が拗ねた声を出す。そして澄ました顔で、
「お願いしますお母様、と流行りの菓子でも持ってくれば別だけど。」
と言った。ファイサルも大真面目な顔で答える。
「ええ、そう申し伝えておきましょう。特に父には、きちんと自分で菓子屋に並べと脅しもかけておきましょうか?」
「ああ、良いわね。若い娘の並ぶ店を選んでおいて頂戴。」
「しかと承りました。」
そう言って、祖母と孫は声を出して笑った。
ファイサルの祖母、エバ・ナルジスは、多くに秀でた人間だ。リヤード共々表舞台を退くまでの40年、新しい商材や販路をその頭脳と社交力で次々と生み出し、今なお多大な影響を残している。その名声は高く、彼女の助言を求め、他国から客人が訪ねてくることもあるほどだ。エバ無くして今日のナジャー商会は無い。
「ファイサル、あなたと話をすると、とても気分が良いわ。都なんか捨てて、ずっとオミウにいたら良いのに。」
「ご容赦ください、姫。体調が思わしくないと聞けば、貴女の騎士は、またすぐに飛んで来ますから。」
「あら、仮病が上手くなってしまうじゃないの。新しい趣味は役者も良さそうね。誰か良い教え手を探さなくては。」
「…失言でしたね。お祖母様は本当にやりかねない。」
わざとらしく視線をそらすと、手紙が数通、寝台の側机に置かれているのに気づく。近くにインクの瓶とペン、便箋があり、まだ返事を書いていないと見えた。
「それは?お祖母様が手紙をため込むとは珍しいですね。」
何気なく言うと、祖母が、「ああ…。」と頬に手を添えてため息をついた。
「寝込んでいた間にね。侍女達に代筆を頼んでも良かったのだけれど、あまり良い字を書かないものだから、失礼にあたりそうで。体調の良いときに、少しずつ返事を書き進めているの。」
ファイサルの脳裏に、一人の女中の顔がよぎる。
「お祖母様、それでしたら良い者がおりますよ。」
そう言って、ファイサルは敬愛する祖母に微笑んで見せた。
「いいよ、寄越して。」
ラーニャは慎重に脚立に上ると、下にいるマリアムに声をかけた。
言われたマリアムがラーニャにカーテンの端を手渡す。半月ほど前の一件以降、マリアムは脚立に上ると脚が震える様になってしまい、今はもっぱら下での補助役だ。ラーニャは、厚く滑らかな布地をしっかりと掴んだ。
「気を付けてね、ラーニャ。」
うん、と返事をしながら、少しずつ金具を引っかけていく。大きな窓を覆うカーテンは、濡れてもいないのにひどく重い。結構な重労働だ。半月を掛けて屋敷中のカーテンが洗濯され、ようやく最後のカーテンの取り付けに至った。洗濯係は屋敷内を歩けないので、取り外しや取り付けは全てラーニャ達女中の仕事だ。この半月で、心なしか筋肉が付いた気がする。
「サナ、頼んだ。」
「はいよ。」
手の届く範囲が終わり、すぐ左隣に脚立を並べ待機していたサナに引き継ぐ。サナは、カーテンの重さに愛らしい顔を歪めながら、ふんっと鼻息荒く体勢を整えた。
ラーニャは脚立を下り、マリアムと共に下りたばかりの脚立をサナの左隣に運んだ。額の汗を袖で拭う。
そして再び脚立を上ってサナから作業を引き継ぎ、サナに残りの作業を引き継ぎ、の流れを数回繰り返し、ついに、最後のカーテンの取り付けが完了した。脚立を片付け、やっと一息つく。
「終わった~~!」
「長い戦いだったね!」
「秋なのにすごい汗かいちゃった。」
「休憩しよ、休憩。」
「今日はおやつがあるってマハが言ってたよ。料理人が失敗したのくれたって!」
「えー!楽しみ!」
「うん、じゃあおやつを食べたらちょっとラーニャを貸してくれ。」
娘たちの歓声に、低い声が混ざった。
ぎょっと3人が振り向くと、いつから居たのか、ファイサルが椅子に腰かけてこちらを眺めていた。
3人の視線を意にも介さず、ニッと笑みを浮かべる。
「ちなみに、今日のおやつは栗のケーキだ。成功作は俺がいただいた。」
(相変わらず心臓に悪い人だな…。うん、でも栗か。秋らしくて良い。)
3人で丁寧に頭を下げつつ、心がおやつの元へ飛びかける。なんとなく、マリアムとサナも似たようなことを考えている気がした。
ファイサルに声を掛けられる様になった当初は皆慌てふためいたものだが、二度、三度と続けばどんなことにも慣れるのが人間だ。サナもマリアムも、もうファイサルの登場に動揺しなくなっていた。初めて事務仕事を任されてから、毎日の様にファイサルやリヤードにラーニャが呼び出されているのだから当然だ。
「承知致しました。本日はラーニャは通常業務には戻らない心積もりでおります。」
サナがファイサルに可憐な微笑みを向けた。ラーニャは、妙に出し抜かれたような気持ちになる。
「いつも悪いな、そう思っていてくれると助かる。」
「もう慣れたものでございますので。」
サナの態度は、女中としては少々馴れ馴れしい。家政婦長からはよく叱責を喰らっているが、それでも家政婦長に好かれているのだから不思議なものだ。整った容姿と、何故か憎めない性格が、サナの天性の武器だった。
案の定、ファイサルが気を悪くした様子も無い。ファイサルのことだから、元から女中の態度を気にしていないのかもしれない。そんなことを思いながら、ラーニャは胸の内に小さな嫉妬が澱むのを感じていた。振り払うように声を上げる。
「休憩後は、旦那様の書斎まで伺えば宜しゅうございすか?」
ファイサルがラーニャと視線を合わせる。それだけで胸が満たされる自分に、ラーニャは気づかない振りをした。
「いや、今日は違う。急がなくていいから、ゆっくり食べてくれ。俺はここら辺で適当にのんびりして待ってるさ。勝手に行くなよ。」
「…承知いたしました。では、失礼させていただきます。」
心の平静を取り戻したラーニャは、すぐにおやつへと気持ちを切り替えた。本来ならおやつを諦めるのが正しい女中の姿だが、ファイサルが食べて良いと言ったのだ。自分に責は無い。
3人はファイサルの前を辞すと、一刻も早くケーキを楽しむため、足早に使用人食堂へ向かったのだった。