7 事務仕事
「ファイサル様、この店は、一覧にございません。ただ、つじつまが合う記載があるのですが、一覧にあるこちらの店と同じものと解釈してよろしゅうございますか?」
「どれどれ。えーっと、うん、分からないな。お祖父様、ここって名前変わったのか?」
「ん?ああ、そうだ。女王陛下のご即位に伴って変わったんだ。同じ店だよ。」
「そういうことか。にしても、ご即位から何年だ?20年近く昔の名前を書いてよこしやがって。ラーニャ、そういう訳だ。」
「承知いたしました。」
頭を下げ机に戻り、備考として名称変更について一覧に書き加える。言われてみれば、その新しい屋号は、女王ニスリーン・ザフルのお印であるチューリップを連想する名だ。ラーニャの暮らすザフル王国の王族は、ひとりひとり花を冠するのが習わしで、その花はお印と呼ばれる。
(いつになったら下がっていいんだろう。)
書類を整えながら、ラーニャはそっとため息を吐いた。
いつもなら自室でサナとマリアムと楽しくお喋りをしている時間だ。日が落ちれば今日の仕事は終わりかと思っていたが、いつの間にやら蝋燭の明かりが贅沢に灯されていて、リヤードとファイサルが手を止める様子は無い。ラーニャは慣れない仕事の疲れから、すっかり集中力が切れてしまった。
扉番の女性がリヤードに声を掛けるのを期待して時折視線を送るが、同情するような眼差しを返されるだけだった。主の好意で、茶や菓子、夜食を供されたときは、なんて幸運なんだろうと目を輝かせたが、こうも長いと運の悪い日だという気持ちになる。
「お祖父様、バルセームという家からの書状が紛れてるぜ。お祖母様宛てじゃないか?」
「おお、そうだ。探していたんだ。危ないところだった。」
「前に言ってた侍女の件か?」
「おそらくなあ。申し訳ないが、皆オミウに根付いているから、なかなか難しいだろう。」
リヤードとファイサルの会話が、心なしか遠くに聞こえてき始めた。よくない兆候だ。
(しっかりしないと…。)
あくびを噛み殺しながら新しい書類に向き合うと、扉の向こうからくぐもった声が耳に届いた。扉番が何やら話をする。
「旦那様、奥様がお呼びとのことでございます。いかがなさいますか。」
「ん?ああ、もうこんな時間か。そうだな、すぐに行こう。お前たち、今日はここまでにしよう。続きはまた明日だ。」
リヤードが、ぐっと伸びをして言い、よいしょ、と立ち上がった。関節が小さく音を立てる。
(いいぞ…!)
ラーニャは胸のうちで小躍りしながらその様子を見守った。
「そうだな。俺もすぐ寝るよ。おやすみ、お祖父様。」
「お休みなさいませ、旦那様。」
ファイサルが背もたれに身を預け、片手を上げて祖父に挨拶した。
ラーニャは立ち上がり主を見送る。先ほどまで控えていた扉番が、主に付きしたがって部屋を出る。彼女は扉を閉めながら、ラーニャに向けて心配そうな視線を向けていた。
「よし、じゃあ片づけよう。お祖父様はこういうのにうるさいんだ。」
ファイサルが腰に手を当て、うーん、と背筋をそらしながら言う。
「片づけでしたら私が致します。ファイサル様はどうぞお休みください。」
「いいさ、ラーニャも疲れてるだろ。慣れない仕事なのに、いきなりこんな時間まで付き合わせてごめんな。」
ファイサルが優しく微笑んだ。蝋燭の明かりで見る彼は、昼とは違う魅力を纏って見えた。ラーニャは妙に気恥しくなって目を逸らし、「いえ…。」と小さく言って、机の上に広がった書類を整えた。
(どうしよう、二人きりだ…。)
緊張で、かすかに手が震える。
「ラーニャは、本当に事務仕事は初めてなのか?」
ファイサルが、ペンを片付けながら尋ねた。そんなことは女中の仕事だと、彼を諫めることはもう諦めた。きっと言っても聞き入れはしないだろう。今日一日で彼の性格は大分理解できた。
「お仕えしてからは初めてでございますが、暮らしていた孤児院で経験がございました。」
「へえ、どんなことをしていたんだ?」
「そうですね、食料や、衣服、医薬品などの管理に、国からの調査書面への回答…あとは、ご支援下さった方へのお礼状ですとか、そういったことを。」
ラーニャは、絨毯に落ちた目立つゴミを拾いながら答えた。何かをしながら返事をするなんて、家政婦長に見られたら拳骨ものの態度だ。
ファイサルが目を輝かせる。
「そうか、だから手際が良かったんだな。期待以上の働きで驚いてたんだ。」
そう言って、部屋の隅の蝋燭の火を消した。部屋が一段暗くなる。
「きっと、これからもこういう仕事をしてくれってお祖父様に頼まれるよ。なんならうちに引き抜きたいくらいだ。」
調子に乗らないようにしよう、とラーニャは自らを戒める。正直に言えば嬉しかったが、まだ仕事中だ。乙女心が顔を出すのを必死に押さえつける。
「…都の屋敷でしたら、私などより優秀な方が大勢いらっしゃるでしょうに。」
「なんだ、随分しおらしいことを言うな。うちよりも、お祖父様の女中の方が、なるのは難しいんだぜ。都の本邸じゃ、顔の作りや育ちなんて最低限しか見ていない。読み書きの出来る女中なんてまずいないんだ。」
また一つ、蝋燭の明かりが消える。
確かに、リヤードの女中は条件が厳しい。女主人のため、下手な貴族の屋敷よりも質の良い女中が集められていた。しかし、ファイサルの母も、祖母同様に貴族と聞いている。それほど差があるものだろうか。
あらかたのゴミを拾い、立ち上がって振り返ると、思いがけないほど近くにファイサルの顔があった。息を飲んで咄嗟に距離を取る。
「悲しいな、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。」
「…揶揄われるのも大概になさいませ。外聞も悪うございますよ。」
心臓はバクバクと大きな音を立てているが、なんとか女中としての顔を取り繕う。
「なら、君こそ、そのすました態度はよしてくれよ。都の連中はもう少し人間味があるぜ。」
「致しかねます。ナジャー家の品位に関わりますので。」
「俺がいいと言ってるんだ。それに、誰も聞いちゃいない。お祖父様の前でもそうしろとは言わないさ。駄目かな。」
ファイサルが眉を下げる。そうされると、小さい子を相手に意地悪をしているような、いたたまれない気持ちになってしまう。
「…なりません。」
ラーニャは目を逸らし、なんとか拒否する。思ったよりも弱々しい声音になってしまった。ファイサルの目が、勝利を確信した光を帯びた気がした。
「ラーニャ。」
ファイサルが、同情を誘う声で名を呼ぶ。ラーニャは小さくため息を吐いた。
「…分かりましたよ、これで良いですか?」
ラーニャが観念すると、 ファイサルは満足げに微笑んだ。
(くっそう…顔がいい…。)
胸が高鳴るが、ファイサルの余裕な表情に、少し対抗心も湧いてくる。若い女中をからかう不届き者の思い通りにはなる様な、つまらない人間ではありたくなかった。ラーニャは負けん気が強い方なのだ。文字を覚えたのも、綺麗な字を書くようになったのも、この性格による所が大きい。
ラーニャはキッとファイサルを睨み上げる。
「ファイサル様が次にオミウへいらっしゃるとき、私がこうした無礼をしても、叱責される筋合いはないですからね。ご自身が許したのだと、覚えて置いていただかないと恨みますよ。」
「ああ、肝に銘じておくよ。」
ファイサルは、ラーニャの目をじっと見つめ返しながら、恭しく胸に手を当て頭を下げた。暗い部屋の中で、ファイサルの焦げ茶色の瞳が、残った蝋燭の火を反射してきらめいている。
思わず何か口走ってしまいそうで、ラーニャは誤魔化すように視線を逸らし、口を引き結んで残りの作業に移った。あとは扉近くの蠟燭を消すだけだ。先にファイサルを廊下へ出そうと扉に手を伸ばすと、「そうだ。」とファイサルがラーニャを見た。
「一つ聞いておきたかったんだ。ラーニャが文字を教わったという友達は、貴族の関係者か?」
「マリアムですか?そういう話を聞いたことはありませんが…。多少裕福な家の娘ですが、貴族と縁があるようには思えません。マリアムの両親の葬式を手伝いましたけど、貴族らしき人の参列もありませんでした。」
「葬式…。」
配慮に欠ける問いだったと後悔するように、ファイサルがばつの悪そうな顔をした。
「気にしないでくださいね。孤児院育ちなので珍しいことじゃないんです。それで、どうしてそんなことを?」
「いや、ラーニャの書く文字が貴族風だったから、そのマリアムが教えたならもしやと思ったんだ。」
「貴族風なんですか?私の文字。」
「そうだな。いかにもな書体だ。気づいてなかった?」
「知りませんでした…。私、その、笑わないでくださいね。綺麗な字を書けるようになりたくて、国から孤児院に来る書類をお手本にしていたんです…。かっこいい文字だと思って。きっと、その所為じゃないでしょうか…。」
顔が熱くなるのを感じながら、最後は消え入りそうな声で言う。部屋が暗くて幸いだった。ラーニャは負けず嫌いだが、努力していることを他人に知られるのは苦手だ。「大した努力もしていないのにすごい!」と思われるのが理想なのだ。
ファイサルは一瞬だけ、ぽかんとした顔をしてから、声量を抑えた声で笑った。
「はは!…そうか、それは盲点だった。国からの…そりゃあ、手本には最適だな。」
「ニヤニヤ見ないでくださいよ…。ほら、もう明かりを消しますよ。廊下に出てください。」
ラーニャは恥ずかしさに任せファイサルを廊下に追い出し、最後の蠟燭をフッと吹き消した。