45 市場
遠くで羊の鳴き声が聞こえる。
(久しぶりに聞いた……羊飼いが市に来てるのかな)
冬が来る前に羊毛を買って、孤児院のチビ達に暖かい靴を作ってあげないと。しばらくは忙しくなるな。
ぼんやりと考えて、ラーニャはハッとして起き上がった。寝癖のついた髪もそのままに、寝台から転び落ちるように飛び出して、窓の鎧戸を開け放つ。早朝のぼんやりとした明かりが部屋を満たした。
「……………。」
「メェ〜〜!!!」
眼下で、一匹の羊がのん気に庭の草を食んでいた。
✣✣✣✣✣
ある家の料理人が庭に香草を摘みに出ると、一人の若い娘が、枝を手に貴族街を歩いていた。きちんとした仕立ての清潔な服を着た、育ちの良さそうな娘だ。なぜか羊を連れている。料理人は不思議に思いながら、時折、枝で羊のお尻を小突きつつ市の立つ広場へ向かう娘の後ろ姿を見送った。
早朝でも既に働き始めている人は思ったより多い。ラーニャは、そうした人々の視線を恥ずかしく感じながら、羊を急き立てた。
(そもそも、都の人達が臆病なのがいけない)
近所で羊を逃した家が無ければ、しばらく飼ってからバルセームで食べてしまえば良いと思ったのに、ラーニャ以外の、羊に気づいて庭に出てきた使用人達全員に大反対されてしまった。ラーニャは何度か羊を潰した経験があるが、誰も生きた羊を相手にしたことがないのだと言う。自分で捌くことも止められ、その上、羊飼いか、買った人を探して返してきてくれと指示されてしまった。
庭師のおじさんの、「捌いたら血が出るんだろう」との情けない下がり眉を思い出してラーニャはため息を吐く。彼は羊を殺すどころか、触ることもできなかった。
(私だって仕事があるのに)
連日の晩餐会で、主のエイジェは朝寝坊が続いている。今日もしばらくは起きないだろうが、急いで帰らなくては。
貴族街を抜けると、微かに家畜の臭いがしてきた。賑わった声も聞こえる。やはり市が立っているようだ。
「おばさん、羊飼いを見なかった?」
「羊飼い?噴水の方で見たよ」
「ありがとう!」
立派な魚を担ぐ漁師の女に礼を言い、人混みに動揺した羊が逃げないように首元の毛をしっかり掴んで歩みを進める。以前ファイサルと散策したこともある広場は、早朝にもかかわらず人とぶつからずにすれ違うことも難しい混雑ぶりだった。
(都の市はすごいなあ)
キョロキョロしながら歩いていると、メエと低い羊の声が耳に届いた。
(いた!)
ふわふわの羊たちの隣で、羊飼いにしては色の白い女が大あくびをしている。頭に巻いたスカーフの隙間から黒い髪が見えた。奥で囲いを建てているのは夫だろうか。
「おや、いい身なりのお嬢さん。おはようさん」
「おはよう。今日来ている羊飼いはあなたのとこだけ?」
「そうだよ」
「よかった。この羊、見覚えはある?」
「都についたくらいに逃げ出した子に似てるね」
「そういうことね。主の庭に迷い込んで困っていたの。返すよ」
女の大きな瞳に見つめられると、何故だかソワソワした気持ちになって、つっけんどんな言い方になってしまった。
女がニヤリと笑った。
「ありがとう、お嬢さん。ネコババしても良かったのに。手間を掛けさせたね。お詫びに一つご奉仕いたそうか」
座って、と砂で汚れた空き箱を指される。ラーニャは少し躊躇してから、ハンカチを敷いて腰を下ろした。赤子の頃の肌着に施されたものを真似た、金砂草の刺繍をしたハンカチで、本当は汚したくなかったが、仕事着を汚すわけにもいかない。
「あんた、名前は?」
「……ラーニャ」
「……へえ?」
女の瞳は、驚くほど青かった。ザフルには青い瞳の人間もいるが、比べ物にならない。スカーフの下の黒髪は、束ねているのではなく、短く刈り込まれていた。
たしか、北の隣国シャガルでは、短髪は女の罪人の証だった。故郷のオミウは地理的にも文化的にもシャガルに近いから、短髪の女に忌避感を覚えそうになる。しかし、都でエイジェに仕えていくうちに、それだけではないことを知っている。南のムジャウハラートでは短髪はよくある髪型で、遠くの国では聖なる者の証だとか。
ラーニャは動揺を隠して、努めて冷静に女の質問に答え続けた。生まれ、好きな食べ物……。どうやら占い師でもあるようだ
「ラーニャ、あんたはいい子だ。産まれは都だね?」
「違うよ、さっきオミウだって言ったじゃない」
「あんたじゃなくて、その芯に聞いてみたの。気に入ったから教えてあげよう。あんたは都で産まれた。名前もラーニャじゃないね。あたしに嘘を吐いたんじゃない、自分を知らないだけだ」
自分が孤児だなんて話はしていない。驚いて固まると、女は良い羊毛を袋に詰めて持たせてくれた。
「これは迷子を届けてくれたお礼。引き止めて悪かったね。あとね、その懐の綺麗な宝石は、あんたのためのものだ。大切にしな」
じゃあね、と見送られて、少し喧騒を抜けた先で、ラーニャは服の中にしまっていた額飾りを取り出した。市で盗まれたら嫌だから外していたのだ。
赤い石は、朝日の中で煌めいている。
(占い師って、すごいんだ……)
どうして分かったんだろう。
羊毛も手に入ったし、楽しい思いもできた。ほくほくしながら歩いていると、立派な建物の前にたくさん荷物が置かれた一画が見えた。荷物を数えるのは背の高い人物だ。その横顔を見て、ラーニャは顔いっぱいに笑みを浮かべた。こうも幸運が続くなんて!
「ファイサル様!!」
「ラーニャ!!」
驚いた顔をして、すぐに大きな樽の隙間を抜けて駆け寄ってくれる。
「どうしてここに?今日は休みか?」
「ううん、色々あったの。ここもナジャー商会の建物だったんですね」
「ああ。折角だしバルセームまで送るよ」
「いいの?お仕事は?」
「手は足りてるから大丈夫だ」
そう微笑んで、羊毛のたっぷり詰まった袋をサッとラーニャの手から取った。
近頃は、ファイサルとゆっくり話ができる時間はなかった。やっと砕けた口調も馴染んできたところなのにと、もったいなく思っていたのだ。思いがけない好機で、多幸感が胸いっぱいに広がる。市場までの出来事を話すと、ファイサルは楽しそうに口角を上げた。
「大冒険だったんだな」
「そうなんですよ、屋敷のみんな臆病で」
「仕方ないんだよ、都じゃあ肉は肉屋から買う物になってる」
苦笑してから、ファイサルは恥ずかしそうに頭をかく。
「なあ、今度の満月の日、仕事が終わったら会えないか?」
「満月……?たぶん大丈夫です」
「よかった。迎えに行くよ。バルセームの裏門で待ってる」
こんな蕩けそうな眼差しをする人だっただろうか。
ラーニャは赤くなった頬を隠そうと身を縮めて、小さく「はい」と頷いた。




