44 宰相と侍女
「長く席を外されているので、心配しましたよ」
化粧を直されているニスリーン女王、直すラーニャ、女王のカツラを整えるナダ、長椅子で果実水を飲むエイジェ、4人の娘に一人ずつさっと視線を走らせて、その女性は咎めるように言った。
女王とよく似た明るい髪を高く結い上げた、この中年の貴婦人の名はアーディラ・ザフル。ニスリーンの即位から長年摂政として、今は宰相として国政を執る王族だ。
(やっぱり、怒らせたら怖そうな方だ……)
ラーニャは少し身を縮こませて、宰相の顔を盗み見た。
いつも遠目にしかその姿を見る機会はなかった。ニスリーン女王は宰相の肖像を何枚も描いていて、肖像画はよく目にした。なるほど、そっくりだ。
女王は肩をすくめた。
「暑気あたりしましてね。伯母上も休まれたらいかがです?果実水が冷えていますよ。ラーニャ、化粧はもう良いだろう、伯母上にそこのを」
「陛下、あまり我がままは困りましてよ」
ラーニャはドキドキしながら女王に従い、金で縁取られた水晶の杯を果実水で赤く満たして盆に載せ、宰相に差し出した。
宰相は少し顔をしかめたが、ぐいっと杯をあおった。その様子を、女王は冷静に見守っていた。
「もうじき戻りますよ。このニスリーン、しかとわきまえていますとも。我らはただ権威を振りかざせば済むような、強い王家ではない。婚約もせぬ私では、なおさら」
「……何もそこまでは。やはりお疲れのご様子ですね」
「なに。そろそろ軍人連中も来るのでしょう。それまでには戻ります」
「かしこまりました。……バルセーム殿、陛下を頼みますよ」
ラーニャは空になった杯を盆で受け取った。視線を感じていると、宰相が「お前」と呟いた。
「星煌石か、額のそれは。」
「え……」
「我が姫の誕生の折、南の果てから持ってきた者がいた。当時はまたとない宝玉だったが、今はお前程度の者でも身につけるのか」
それだけ言うと、あとは興味を無くした様子で、ラーニャに視線を向けることなく、甘い、どこか懐かしい香りを残して部屋を去っていった。
ラーニャの額を飾る赤い石は、元主エバ・ナルジスの形見分けで与えられたものだ。光の加減で、キラキラと星空のように煌めくものが内包されている。星煌石というのがこの石の名なのだろうか。
けなされた気がしないでもないが、高貴な方から見ればラーニャは「お前程度の者」だ。気にしないことにする。
ふと顔を女王に向けると、何か楽しい企てが失敗した子供のような空気をまとって、宰相が去った扉を睨みつけていた。
「……ラーニャ、気分を害したか?」
「宰相殿下のことでしょうか?滅相もないことでございます。平民で、若輩の身ですもの、お声を掛けていただいただけで光栄です」
「……」
「そ、それに」
何故か眉根を寄せた女王に、ラーニャは慌てて付け足した。宰相との距離を感じる表現に思うところがある様子のため、親しみを感じた箇所を必死に思い返した。
「不思議と慕わしく思う、かぐわしい香を纏われておいでで、感銘を受けました。貴婦人方の香水や香油には慣れてきましたが、高貴な方は香りも特別なのですね」
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宰相の宮での宴が終わり、ラーニャやエイジェが帰りの馬車に乗り込むころ、ファイサル・ナジャーは父母ととある屋敷を訪れていた。
焦げ茶の髪を撫で付け、上等な衣装を纏う姿は、貴族の子息となんら遜色ない。長い脚を組み換え、立派な晩餐室を見渡し、落ち着かない様子で隣の母に囁いた。
「母様、なぜ俺が呼ばれたのか、本当に心当たりがないのですか?兄さんでも良かったはずなのに」
「こっちが聞きたいわ。何をやらかしたの、あんたは」
着飾った母がため息を吐くと、ファイサル達を呼び出した張本人が姿を現した。胸元に銀糸で刺繍された百合の花が煌めく。
「お待たせしたね、いやあ、ファイサルも立派になって」
「お久しゅうございます、ナルジス閣下」
「やめてくれよ、ユニス。他人行儀な。従兄弟同士じゃないか」
父ユニス・ナジャーの挨拶に、花つきの大貴族ナルジス家の当主カラム・ナルジスは苦笑して応えた。
素晴らしいご馳走に舌鼓を打ちながら、会話に花を咲かせる。ファイサルもはじめは礼儀正しく聞き手に回ったが、途中から不自然なほど話に加わされるようになっていった。
「ファイサルは王宮に上がったことは?」
「いえ、修行中の身ですので」
「そうか……では、宰相殿下の宮に伺ったりするのかね」
「花つきの方々のお屋敷に伺うことはありますが……王族方となりますと、伺ったことがあるのは北のお花様の都屋敷だけです」
「北の……?そうか。ユニス、折角なんだから王宮くらい連れて行っておやりよ」
「いーや、まだまだ。こいつの兄でやっと伴えるようになったのです」
父の言葉に、想像どおりとは言え少し気持ちが落ち込む。
「ははは、手厳しい。ほどほどにな。君の姪っ子二人も優秀と聞くし、ナジャー商会は安泰だ」
カラムは、つと手の指を組み、目を細めた。
「跡取りには困っていないようだし、どうだね、ファイサルをうちに託してみては」
「それは……失礼ながらご意図が分かりませんわ。ナルジスにはご立派な跡継ぎがいらっしゃるでしょう」
先に反応したのは母だった。カラムは鷹揚に頷いた。
「もちろん、後継に困っての打診ではないよ、サイーダ。ただね、優秀な子は多い方が良い局面もある」
「何か、縁談のお話でも……?」
既に優秀で健康な跡継ぎがいるのに、あえて養子を取る理由は限られる。親子仲が悪い話も聞かないし、戦時でもない今、利のある縁談が複数あると考えるのが自然だ。
「そんなに構えないでくれ。なに、返事は急がない。だが是非考えてみてくれ。さあどんどん飲もう」
(この方は、一体何を考えているのか)
親族とはいえ、方や大貴族、方や平民。彼は別世界の住人だ。
カラムの、品定めするような視線を感じながら、ファイサルは何とか口の端を上げて葡萄酒を煽った。




