40 女商人
ラーニャは、落ち着かない気持ちで大きな鏡の前に立った。
新しく仕立てたばかりの服は、高貴な血筋の召使いばかりが侍る王城でも、主エイジェの格を損ねないようにと配慮がされた一級品だ。髪はきっちりまとめてあるが今風の結い方で、額に揺れる赤い宝石が凛とした印象に仕上げている。
(本当は、素敵な姿を誇らしい気持ちでお披露目するはずだったのに)
エイジェの肌の手入れをしているから、カサカサだったラーニャの手も随分とみずみずしくなった。エイジェに使う前にラーニャの顔で化粧品類を試しているし、上等な油をもらって日々あちこち手入れもするようになったから、顔の血色も髪の艶だって良くなった。
しかし、鏡の中のラーニャの顔色は冴えない。
(ファイサル様は、本当に他にお相手がいるの?そうだとしたら、私との今までの日々は何だったの?)
はあ、と顔を手で覆う。
(いくらこんなめかし込んだところで、私は平民の孤児。花付きの血を引くファイサル様とは不釣り合い。身の程を弁えなかった私がいけないの?ああ、だめ。悪い考えから抜け出せない。私の知る彼はそんな人じゃなかった。落ち着いて、ラーニャ。まだ噂にすぎないんだから)
ラーニャは、うろうろと部屋の中を歩き回った。もうじきにファイサルがこのバルセームの屋敷を訪れる。製作を依頼している水晶の水差しの進捗説明と、エイジェの新しい服に使う布の提案に来るのだ。
「ラーニャ、そんな顔しなくて大丈夫よ。とても綺麗だわ」
「ありがとうございます……あ!」
長椅子に掛けて苦笑するエイジェへしょぼくれた眼差しを向けてから、ラーニャはピンと背を伸ばした。遠くから馬車の音が聞こえる。この感じ、バルセームの石畳が立てる音だ。
爽やかな風の吹き込む窓からそっと外を覗くと、やはり見覚えのある馬車がこちらに向かっていた。
屋敷の手前で停まった馬車から降りてきたのは、しなやかな身のこなしの長身の若者。
そしてもう一人。頭から大きな布をすっぽり被った、小柄な女性だった。
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「職人によれば作業は順調。大まかな削り出しは完了しております。形は以前拝見した水差しと対になる物を予定しております」
「そうね、それで良いわ。前も言ったけれど白詰草はチューリップよりも小ぶりにして頂戴」
「心得ております」
ファイサルがにこやかに頷いた。
エイジェは探るようにその整った顔を見てから、ファイサルの後ろに控える女性に目を向ける。美しい柄の布を頭から纏うのは、南の大国ムジャウハラートの女商人がよくする服装だと聞く。しかし、南の人間にしては背が低い。
「ラーニャ、あとは任せるわ」
「かしこまりました」
ひとまずラーニャとファイサルに話をさせなくては。女商人が邪魔だが、仕方がない。ひょっとするの彼女がファイサルの相手なのだろうか。ゆとりのある服でお腹の膨らみは分からない。
エイジェは優雅な足取りで部屋を出てから、すぐ隣の部屋に移り隠し通路に身を滑り込ませた。
主を見送ってからラーニャが一つため息をこぼすと、妙な間を置いてファイサルが微笑んだ。
「元気にしてたか?」
「……ええ、まあ」
ラーニャの返事がつい冷たくなる。意識しすぎだと、ラーニャは内心で焦った。努めて普段通りの顔を取り繕う。
「バルセームでの生活にも慣れてきました。顔見知りも増えて」
「そうか!よかった。ウルファにも珍しい布を送ってくれたらしいな。喜んでたぜ」
「良かった。帝国時代に大流行したこともある布らしいんですよ。エイジェ様がたくさん頂いて、私にも分けて下ったので、服を頂いたお礼も兼ねて」
「気にしなくていいのに。でもありがとな」
「いえ。それで、その……お隣の方は?」
やっと気になっていたことを切り出せた。
ファイサルの眉がぴくりと上がる。
「ああ、うちの新入りの商人見習いだ。俺が指導している。……今日は彼女を紹介しようと思って連れてきたんだ」
「商人……」
きっとこの人はラーニャよりもファイサルと過ごす時間がずっと長い。万が一ファイサルの相手だとして、彼の心が移っても無理はないのかもしれない……。
布の奥で、女性が微かに笑う気配がした。
「そんな心配そうな顔しないでよ」
そう言って布を捲り上げ表れたのは、繊細な美しい肌と赤く魅惑的な唇、整った鼻梁に、長いまつ毛に縁取られた黒目がちの大きな目。
ラーニャはぽかんと口を開けた。
「サナ……!!」
故郷オミウの孤児院で、姉妹のように育ったサナ。なぜ彼女が王都にいるのだろう。まずは再会の喜びに身を委ね抱きあった。
「どういうこと!?もう、王都にいるなら手紙に書いてよ!私てっきり、ファイサル様のお相手かと思っちゃった!……あっ」
思いがけないことが続いて、つい口が滑る。しまった。
「えっと、ごめんね。ファイサル様に身重の恋人がいるって噂になってて」
そんなことあるはずないのにね、と照れ笑いして、ラーニャはサナが困った顔をしていることに気がついた。
「サナ?」
「ごめんラーニャ。えっと、たぶんそれ私のことだ」
「……は?」
血の気が引く。ラーニャは笑みを貼り付けたまま固まった。
同時に、ファイサルが大きくむせこんだ。大慌てで立ち上がり、顔を赤くしてサナに向かって小さく叫ぶ。
「サナ!誤解を招く言い方をするな!」
「ファイサル様慌てすぎ」
「そりゃ慌てるだろう!ちゃんと説明しろ」
はあい、と肩をすくめ、サナは苦笑いした。
どこから話そう、と少し悩んだ様子で天を仰ぐ。そんな様子も愛らしい。
サナは、その可憐な見た目のせいで随分と苦労をしてきた。何度も攫われそうになったし、子供好きの優しい人だと思っていた男性から卑劣な手を伸ばされたことも一度や二度では無い。
勝手な恋慕を押し付けられることには慣れっこだったが、かつてなく厄介な男が現れたのだと、サナは平淡な声音で説明する。
オミウのナジャー家に籠もっていれば治まるかと思いきや、出入りする女達に付きまとう様になり、挙句の果てには屋敷へ押し入ろうとしてきた。
ナジャー家の主リヤードも困ってしまい、サナが悪い訳ではないが、他の使用人にも危険が及ぶからと都のナジャー商会での奉公を提案されたのだ。
「館を出るのも大変だったんだよ。荷物に紛れて、お便所も我慢して」
そして何とか都に辿り着き、女中奉公を始めるはずが、ファイサルが突然声を上げたのだ。サナには商人の才能がある、商人として仕込んだ方が得だと。
では言い出しっぺのお前が仕込めとなったのは誤算だったようだが、ファイサルは気にすることなくサナを教育してくれた。
ラーニャにも会いたかったが慣れない仕事が忙しくて頻繁には抜けられないし、訪ねてみても不在が多くなかなか思うようにはいかなかった。
そんな日々を送っていたある日、またもや厄介な男に目をつけられてしまったのだ。北のお花様と呼ばれる王族だ。
「たまたま道で会っちゃってね。ジュード・ザフルっていう方で、そのときは素性なんか知らなかった。あとからファイサル様に教えられてもうびっくり。でも高貴な御仁だとはすぐ分かったの」
無礼を働けば殺されても文句は言えないし、逃げ隠れすればナジャー商会に迷惑をかけるだろう。幼い頃から時折向けられた、人を人と思わぬ眼差しを持つ男だった。
「だから、藁をお腹に詰めたの。ちょうど布で包んでお尻に敷いてたのがあってね。大きなお腹を見せれば、角を立てずに逃げられるかなって。恋人の子がお腹にいるんですー!って見せつけたのよ。噂になってるってことは、きっとお供の中にファイサル様を知ってる人がいたんだね。まあ、よそに本当に恋人がいる線もあるけど……」
「そんなわけあるか!俺はラーニャの……」
「あら、ラーニャのなんですか?」
サナがニヤリといやらしい笑みを向けると、ファイサルはそっぽを向いてもごもごと言葉を飲み込んだ。
「その……なんだ、つまり、ラーニャが聞いた噂は事実無根なんだ。信じてほしい」
叱られた犬みたいな眼差しに、つい肩の力が抜けてしまう。ラーニャは苦笑した。
「分かりましたよ。変なこと聞いてごめんね」
でも、とサナに視線を戻す。
「なんでムジャウハラートの布なんか被ってたの?私を驚かせるため?」
「ああ、まあそれもあるけど。こないだの連中とどこでまた鉢合わせするか分かんないでしょ?ほとぼりが冷めるまで顔を隠そうと思って。ムジャウハラート人との混血なんです〜って言えばそこまで怪しまれないしね」
「なるほど、大変だったね」
肌の色はどう見てもムジャウハラート人のそれではないが、すっぽり全身を覆う衣服を纏っていればバレようがないし、良い考えに思われた。
「しばらくはサナも都にいるんだよね?てことはマリアムはオミウでひとりだよね。寂しいだろうな」
「……ラーニャ、そのことなんだけど」
サナの顔色が曇る。ちらりとファイサルを見てから、ラーニャを連れて部屋の隅に立った。長椅子に一人残されたファイサルは少し眉を動かしたが、何も言わなかった。
「マリアムはオミウを出た」
サナがラーニャの耳元で囁く。
「あの子は、両親と同じ道を選んだの」
手紙には書けなかった。誰かに見つかれば大事になる。
そう言って、サナは力なくラーニャの背に腕を回した。




