4 出会い
「ラーニャ、ちょうど良いところに!手を貸して!」
「え?…って大変!」
突如、ナジャー家の廊下にサナの声が響いた。物思いに沈んでいた意識が瞬時に現実へと引き戻される。ラーニャが驚いて声の主を探すと、通りがかった部屋の中に、脚立を必死の形相で押さえつけているサナと、その脚立の上で壁に縋りつくマリアムの姿があった。尋常ではない状況だ。
抱えていた水差しを大慌てで飾り棚に置き、走り寄って脚立を支える。
「ありがとうラーニャ。助かった…。」
「大丈夫?何があったの?」
「脚立が古かったみたい…。カーテンを外していたら急に不安定になって。」
マリアムが頭上から涙声で礼を言う。
ひとまずの危険は去ったと判断し、ラーニャはほっと息を吐く。
(そうか、廊下もカーテンが外されていたから、山や湖がよく見えて、ついぼうっとしてしまったんだ。)
思えば、今日の屋敷はやけに明るかった。
気を取り直し、問題の脚立を観察してみると、不自然に脚が歪んでいた。元の形に戻せないかと足で小突いてみる。
「あ。」
なんと脚立の脚がもげてしまった。かたん、と転がる木片をサナと二人で呆然と見つめる。
マリアムが異変を感じ取り、頭上から悲鳴のような声で囁いた。
「どうしたの…?何があったの…?」
「ラーニャが脚立に止めを刺した。」
「…マリアム、ごめん。」
サナが即座にラーニャを売った。薄情なやつだ。マリアムに謝りながら軽く睨みつける。
なんとかマリアムの体勢は安定したものの、次の手が打てない。脚立は飛び降りるには高すぎるし、壊れていない箇所も、マリアムを伝い下ろさせるにはどうも心許ない不安定さだ。少しでも均衡が崩れたら、全壊するのではないだろうか。おまけに、下手に何かすると、窓から近すぎて高級なガラスを割りかねない。どうしたものかと途方に暮れてしまった。
頼りになる同僚のマハを呼びたいところだが、もう脚立から手を離せないし、ナジャー家の品位を思うと、大声で呼びつける訳にもいかない。
「大変なことになっているな。」
不意に背後から男の声がした。振り返ると、見知らぬ青年がしかめっ面で立っていた。彼は、脚立をじっくり観察すると、一言、「待ってろ。」と言い残し足早に部屋から立ち去った。
「なに、誰が来たの?」
マリアムは最早、壁に口づけそうになっている。
「男の人…きっとお客様だ。」
「お客様?!ああ、なんてこと。家政婦長に殺される…。」
「でも、どうなさるおつもりかな。このまま待ってて良いと思う?」
サナが不安そうに長い睫毛に縁取られた大きな目を走らせる。
その時、ラーニャ達3人の耳に、なにやら大きな物音が届いた。隣の部屋からだ。3人の指導係でもあるマハの焦ったような声も聞こえる。隣は来客用の寝室だ。
「待たせたな!」
時を置かず、先ほどの青年が笑顔で現れた。困惑した顔の女中数名と共に、ベッドマットを運んでいる。その中にはマハの姿もあった。
彼は脚立の傍らにベッドマットを置くと、満足げに頷き、マリアムに言った。
「もう大丈夫だ!この上に飛べ!」
「お、お待ちください!これは来客用のベッドでございましょう!?そのような無礼は致しかねます!」
マリアムが恐縮し断ると、青年は形の良い眉を上げた。
「どうせ使うのは俺くらいだ、構いやしないさ。でもそうだな、あとでシーツだけ変えてくれよ!」
青年は、はきはきと気持ちの良い声でおどけ、自身も脚立を抑えると再度マリアムを促した。マリアムは少し躊躇する様子を見せたものの、意を決し無事ベッドの上に着地した。残された脚立は大きく歪み、いくつか木片を落としながら、ラーニャとサナ、青年の踏ん張りにより、ゆっくりと倒れこんだ。人や家具を傷つけることなく事が済み、全員がほっと胸を撫でおろす。
マリアムに怪我が無いことを確認し、ラーニャ達は揃って青年に頭を下げた。
「恐れ入ります、お客様。おかげで助かりました。」
「大したことじゃないさ。人が困っていたら、手を貸すのが人情ってもんだ。」
マリアムに笑いかけた後、それにしても、と青年は顎に手をやる。
「お客様とは、淋しいね。新入りかな?」
「はい。お仕えして半年程度の者達でございます。ご容赦くださいませ。」
3人の代わりに、先輩女中のマハがすまして答えた。
ラーニャは一抹の不安を覚えた。
今日、来客があるとは聞いていない。しかし、先ぶれも無く屋敷への出入りが許され、立派な客室が宛がわれる若者には、心当たりがあった。
青年は、そういうことか、と頷くと、白い歯を見せて笑った。
「俺はファイサル・ナジャー。いつも祖父母が世話になっているな。これからも励んでくれ。」
告げられたのは、予想した通り、館の主の孫息子の名であった。