39 肖像
人気のない通路の隅に身を寄せると、ラーニャは深いため息を吐いて目を閉じた。
女王陛下の御前で動揺をさらすなんて、信じられないような失態だ。主であるエイジェの顔に泥を塗ってしまった。なんとか、心を落ち着かせて戻らなければ。
(エバ様、どうか私に力をお貸しください……)
そっと額飾りに指先を当て、亡き老婦人に祈りをささげる。
背後に人の気配を感じて振り向くと、いつも通り優美に微笑むナダがいた。心配してきてくれたのだろうか。
「ナダさん……」
「ラーニャさん、今日は調子が出ないのね。大丈夫、そういう日もあるわ」
「申し訳ありません……ナダさんでもそんなことが?」
「もちろんよ。陛下が手ずから描かれた絵を汚してしまったことだってあるのよ」
「それは……」
ラーニャは肝の冷える思いをした。先ほどまでいた、女王の作業部屋を思い出す。部屋中に所狭しと置かれた人物画は、すべて女王が手掛けたものだと聞いた。女王が絵に対してかなりの情熱を持っていることは明らかだ。
「陛下は笑って許してくださったわ。寛大な方よ」
「それはナダさんがいつも誠心誠意お仕えしていらっしゃるからです」
「ふふふ、そうだといいわね。ちょっと失礼するわよ」
ナダはほっそりと美しい指先を伸ばし、ラーニャの前髪を直した。頬に落ちかかった毛も、きれいに耳にかけなおす。
ラーニャは赤面した。
「あ、ありがとうございます」
エイジェの侍女の前任者であったため、ナダさん、なんて気軽に読んでいるが、彼女は貴族の姫君だ。とんでもないことをさせてしまったと、恥じ入る気持ちになる。
「気にしないで。それより、一体どうしたの?前に言っていたお相手と何かあったのかしら」
「お見通しなんですね……。はい、実は……」
今日の朝に聞いた話を伝えると、ナダは柳眉を寄せて考え込んだ。
「それはつらい話ね。でも、噂はあくまで噂よ。しっかり確かめる必要があると思うわ」
「でも……それも怖くて……今はただただ動揺するので精一杯なんです」
「気持ちはわかるわ。でも、しっかりして。噂が偽りなら、つらい思いが長引くことはないのよ。それに、仮に本当なら、悪いけどラーニャさんのお相手はそこまでのつまらない男ということ。さっさと捨てて忘れる方がずっとお肌にいいわ。そう思わない?」
「それは……そうですが…」
「ラーニャさん、次に会う予定はいつなの?相手は商人だったわね」
「えっと、2日後にいくつか品を届けに来るはずです。でも仕事中ですし込み入った話は……」
「関係ないわ、これは戦いよ」
「その通りよ、ラーニャ!」
突然の勇ましい声に驚くと、握りこぶしを作ったエイジェが曲がり角からこちらを見ていた。
「主であるこの私が許すわ。真相を問いただしなさいな!何ならそのまま休みに入ってもいいわ」
「エイジェ様、そんな。その日は晩餐会に招かれています」
「予定はこのニスリーンに抑えられたと言って良い。安心して戦いに臨め」
「へ、陛下……!?」
なんと至高の女王まで立ち聞きに加わっていた。
一介の侍女、それも平民のラーニャの恋路に、高貴な人々が寄ってたかるとは何事だろうか。
ラーニャは混乱した。そんなラーニャをよそに、当日のラーニャの服装やら、問いただすべきことがらについてなど、楽し気に議論が交わされる。
女王が愉快そうに目を細めて笑った。
「うむ、ラーニャには悪いが、やはり恋の話は面白い」
*********
エイジェとラーニャを見送り、ナダが女王のもとへ戻ると、暗くなってきたにも関わらずまた絵筆をもって画架に向かっていた。その後ろ姿に声をかける。
「陛下、ラーニャの左耳には双子のほくろがございました」
「色は?」
「少し青みがかっていたように見えました」
「そうか」
それだけ言うと、黙々と絵筆に絵の具を付け足す。ナダは「お目に悪うございますよ」と言いながら、部屋の灯りを足した。
背後から覗くと、描く人物はエイジェではない。エイジェの肖像画は、別の画架に置かれたままだ。女王が描くのは、別の娘だ。ラーニャ・ファラウラ。平民の孤児。
女王が貴族でもない人間にここまで関心を持つことはなかった。配膳を行ったり着替えを手伝ったりする者達のことは、顔すら録に覚えていないだろうし、それは当然のことだ。だというのに、ラーニャにだけは並々ならぬ関心を注いでいる。女王とは対極の卑しい身の上だというのに、一体何が気に入ったのだろう。
部屋にある肖像画のほとんどは、女王と同じ明るい髪の女性達だ。亡き母王、亡き姉姫たちを想像して描いていると聞く。まれに宰相の夫君の黒髪も混ざるが、基本は王族やそれに近しい者達の肖像だ。ラーニャは明らかに異質だった。
女王が椅子を動かして別の絵に向かう。暗い色の髪を束ねた後ろ姿の左耳に、ほくろが2つ付け足された。
「こんな並びだったか」
「はい」
配置も色の濃淡もラーニャそのままで、ナダにわざわざ確認させる必要もないのではと思わせる。
「お前の鼻は、祖父譲りだな。目元は母親と父親の合間だ」
「わたくしでございますか?……さようですわね、言われてみればそのように思えます」
「お前の兄は目鼻口の配置が、母親に似ている。顔の形とその他は父親だ。父親の家系の形だ」
「さすが、よく見ていらっしゃいます。お目通りは成人の儀が久方ぶりでしたのに」
「見たこともない血族を描いてきたからな。昔からこうしたことばかり考えている」
珍しく饒舌だ。
側に仕えて長いが、ナダは女王がこれほど生き生きとしている姿は見たことがない。
市井で育ったエイジェ・バルセームとの出会いが大きいのだろうか。思えば、成人の儀の前、ナダが宰相の屋敷にエイジェの供として向かった日から、女王はどこか浮かれている。
エイジェを観察するため、いつもの派手な化粧を落とした自然体の姿で潜んでいたらしいが、どういうわけか隠し通路からエイジェを覗き見する前にはエイジェを側近にすると決めたようだった。ラーニャについて調べるようにとの密命も受けたのも、ちょうどその時だ。
ナダは、じっとラーニャの肖像画を見つめた。何度も見すぎたせいだろう、複数枚に渡り、様々な角度から描かれた暗い髪色の娘は、王族の肖像に馴染んでいるように見えてきた。




