38 噂話
ラーニャは、今日も今日とてエイジェに付き従って他家の屋敷を訪れていた。
訪問ももう慣れたもので、少しくらいならよその侍女とお喋りを楽しむ余裕もある。今日仲良くなった侍女は裕福な平民の家に生まれたそうだ。色々と情報通で、気をつけるべき知恵をあれこれ教えてくれる。
「お顔に刀傷のある御婦人にはもうお会いした?カスタナ様というの」
「うん、先日お庭を見せていただいたよ。ちょっと気難しいかんじがしたな」
「でしょう?見る目があるわね、ラーニャさん。あのお顔、紅薔薇王に歯向かって出来た傷なんですって!だから紅薔薇派に近付くとそれは怖いらしいの。気をつけてね」
「紅薔薇王の派閥なんてまだ残ってるの?」
ラーニャはびっくりした。どこに行っても、悪い話しか聞かないというのに。相手は肩をすくめた。
「それなりに恩恵を受けた層はいたのよ。でもほとんどは報復を恐れて領地に引きこもってるから良いんだけど、気をつけないといけないのは、北のお花様よ。都によく来るの」
「北の……お花様ってことは王族?それとも花つき?」
「王族。知らない?ジュード・ザフル様。王族はだいたい紅薔薇王に殺されたから、男性はジュード殿下だけ。ご家族も殺されたっていうのに、何故か紅薔薇王に親しかった者たちを束ねてるの」
「あ、その方なら知ってる。北のお花様と呼ばれてるのは知らなかった。その方と仲良くならないようにした方がいいんだね」
エイジェの授業に同席していたため、主な貴族とその血縁はざっくりと把握している。たしか、紅薔薇王の従弟にあたる人だ。
「もちろんカスタナ様に嫌われないために、という目的もあるけど、その方自体が危ないの。女中がよく行方をくらますとか」
「どういうこと?」
「逃げ出したか、捕まったか……とにかく、若い娘は一人では近づかない方がいい」
「そうなの……気をつけるね」
なるほど、危険な女好きか。孤児院の子供達や、身を寄せてきた女性たちを狙うやつらは珍しくなかったことを思い出す。ラーニャはもちろん、主のエイジェも危険かもしれない。ラーニャは神妙に頷いた。
「別の家でお仕えしている友達から聞いた話だけど、最近は都でナジャー商会の息子の恋人を攫おうとしたんだって。すごいわよね」
「んぐっ」
ラーニャの喉が妙な音を立てた。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「……大丈夫。えっと、ナジャー商会?だっけ?当主のご子息は何人かいらしたよね」
そう、彼には兄がいる。ラーニャはついとぼけた顔で、へらっと笑った。心の中の海では波が立ち始めている。
「そうそう、かっこいい方らしいよ、次男坊のファイサル・ナジャー」
「んぐぐぐっ」
「本当に大丈夫?」
「…………大丈夫。それで?恋人ってのは確かなの?」
勘違い、そう、勘違いだろう。ひょっとすると、仲のいい従姉であるウルファを恋人と勘違いされたのかもしれない。ラーニャに服をくれた優しい彼女は、お洒落で、快活で、賢くて、王族に目をつけられても不思議はない美人だ。
「あー……もしかしたら違うかも」
「!!」
ラーニャの瞳に力が戻る。しかし、それもつかの間、残酷な言葉が耳に届いた。
「なんでも、妊娠してたらしいのよ、その恋人。だからお花様から逃れられたんだって」
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清水が、美しい水晶の盃に注がれる。盃に満ちた水は、キラキラと輝き、柔らかな宝石のようだ。
「ラーニャ、溢れる、あふれるわ。もう良いの」
「も、申し訳ございません」
エイジェはため息をついて、絵筆を持つ女王の顔をちらりと見た。先程から画架に向かっているものの、筆は同じところを撫で続けている。女王も動揺している気がしてならない。もちろん表情は泰然としているのだが。
「……ラーニャ、髪が乱れているわ。直していらっしゃいな」
「……失礼いたしました」
とぼとぼ作業部屋を後にする後ろ姿は、いつもより姿勢も悪く見える。女王の作業部屋を埋めるのは人物画だ。女王が幼い頃から製作してきた人物画の中の人々も、気まずそうな顔をしているみたいだ。
扉が閉まると、女王が筆を置いて、真っ赤に彩られた口を開いた。
「ラーニャはどうしたのだ」
「やはりお気付きでいらっしゃいますよね……」
「うむ、らしくないな」
「その……実は、ラーニャには恋人がいるようなのですが、妙な噂を耳にしたそうで」
「ほう?」
女王がスッと目を細めた。いつ会っても一分の隙もなく完璧に化粧された顔が、威圧的な雰囲気を醸し出す。エイジェは首を亀のように縮こませて答えた。
「相手に他の女性がいると……昼前にそういった話を聞いてしまったのです」
「……その、恋人とやらは、どこの誰だ?」
エイジェは、一瞬なんと誤魔化したものかと考えた。しかし、試すような女王の視線に気付く。
女王のそばに控えるナダをちらりと見ると、その瞳が楽しげに煌めいた気がした。
(ああ、これは、きっとご存知なんだ……。私が何と答えるのかを試していらっしゃるんだわ)
エイジェはなんとか困ったような笑みを取り繕った。
「ナジャー商会長の次男、ファイサル・ナジャーですわ。エバ・ナルジス様の孫にあたります。誠実な付き合いを続けていると聞いていたのですが……」
「なるほど。ラーニャの古巣の人間か」
女王は意味深に微笑むと、再び絵筆をとり、エイジェの肖像の続きを描きだした。




