34 金砂草の姫君
ニスリーンは足早に伯母の宮に向かった。突然のことに驚く使用人達には目もくれない。勝手知ったる場所だ。ずかずかと歩みを進め、伯母の執務室に入る。
まだ日は高いというのに室内は暗い。100年も前の分厚く濁った硝子窓では採光もままならないというのに、伯母はいつまでも新しい硝子に替えようとしないのだ。重い書類の入った箱を押しのけ、衣装台を漁り、さて次はどこを探すかと室内を見回すと、執務机に目的の物が置かれていた。
(遠回りをしてしまった)
手に取ると、柔らかな手触りの布が肌に馴染む。金砂草の、色褪せた刺繍を指でなぞった。指し手の不慣れさが窺える、少し歪んだ形。
布を机に戻すと、ニスリーンは顔を手で覆ってうずくまった。
先ほどまで行っていた秘密の小屋でのお茶会。恋の話は思いがけず楽しかったし、純粋にエイジェとラーニャとの仲を深めることができた。しかしそれだけではない。
『このお花、色味は違うけれど、ラーニャの刺繍に似ているわ』
『いわれてみれば……比べると歪に思えますが、この花なのかもしれませんね』
そう言って差し出されたラーニャのハンカチに施されていたのは、まぎれもなく、この歪な金砂草の刺繍だっのだ。
「シャリーファ……」
驚きはなかった。一目見た瞬間から確信があった。きっとそうだと思って、わざわざエイジェを側近にするような回りくどい真似をしたのだ。
市井育ちのエイジェを慮るふりをして、それならば怪しまれまいと思って、平民のラーニャと接触した。
危険はおかしたが、望んだ以上の結果だ。喜びなのか、安堵なのか、形容しがたいものが溢れそうになる。
泣き笑いの顔でそのまま激情を飲み込んでいると、背後から駆け寄る人の気配がした。
「陛下、いかがなされたのです。侍女が取り乱して呼びに来ましたよ。すぐにアーディラも参ります」
「伯父上……」
ニスリーンは伯父の顔を見上げた。白髪で灰色に見える髪を見て、もとは黒髪だったなと思いを馳せる。
「陛下、カミル」
伯父の言葉通り、伯母もすぐに現れた。
ザフル王国の宰相アーディラ・ザフル。
ニスリーンの治世の、そのほとんど全てを摂政として動かしてきた人。混迷を極めた国を立て直し、苦しむ人々を救うことに心を傾けてきた。自分は慈悲深き女王などと呼ばれるが、慈悲深いのはニスリーンではない。この伯母なのだ。
伯母はニスリーンを椅子に座らせ、心配そうに背に腕を回してきた。
「何かございましたのね」
(それは、もう)
ニスリーンは頷きかける首を何とか止めた。
(あなた達の娘を、見つけたかもしれないのだ)
そう言ったら、どんなに喜んでくれるだろう。
ニスリーンは、ぐっと言葉を堪えて伯母を見つめた。自分と同じ明るい髪。ラーニャとよく似た細い顔。
(しかし、万が一、誤解であったなら。やっと平穏を取り戻した夫婦の心を、今度こそ叩きのめすことになってしまう。完膚なきまでに……)
慎重にならなくては。喜んで飛びついて、実は誤解だったとなることは許されない。17年も待ったのだ、あと少しだけ調べてからでも遅くはないだろう。
宰相アーディラ・ザフルの一人娘。女王ニスリーンの従姉姫。冠する花は金砂草。
第3王位継承者シャリーファ・ザフルは、1歳にして誘拐され、その後の消息の一切を掴めていない。
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美しい水晶の水差しを、ラーニャは慎重に机に置いた。チューリップが彫られたそれは、中の水どころか向こうの景色も透けて見える。
息を詰めて見守っていたエイジェが、ほう、と肩の力を抜いた。
(こんな芸術品を日々使えなんて、恐ろしい)
どれだけ巨大な水晶をくり抜いたのだろう。ラーニャは気が遠くなりそうだ。
昨日の秘密のお茶会で、エイジェとラーニャが二人してこの氷の彫刻のような水差しに感心していると、「持ってないのならやろう」と、そのまま下賜されてしまったのだ。
大慌てで遠慮すると、女王の背後に控える侍女ナダが「いいから黙って受け取りなさい」と言わんばかりの眼光でこちらを見てきたので、そのまま拝受することになってしまった。
課された条件は、毎日使うこと。壊れたら自分で新しく同じような物を手配し使えとの厳命が下った。
「なるほど、これは見事な品でございます」
若い商人が感嘆の声を上げた。
柔らかに跳ねる髪を品良く撫でつけた青年は、懐から親指ほどの大きさの筒を取り出し、片目に当てて水差しをよく観察している。
「美しさもさることながら、濁ればすぐに見て取れる。邪な思いを持つ者がいたとしても、この水差しでは慎重にならざるを得ますまい」
ラーニャは思いがけない言葉に驚いて青年を見た。水になにか混ぜられる恐れがあるというのか。しかし、いつものように優しく眼差しを返してくれはしない。今、彼は本業の真っ最中なのだ。
「同等の質の物が欲しいの。用意できるかしら?」
「ええ、勿論でございます。ナジャー商会に用意できぬ品はございません」
「良かった。白詰草が彫ってあれば、他は任せます。良い仕事を期待していますよ」
「恐れ入ります。必ずやご満足いただける品をお持ちいたしましょう」
恭しく頭を垂れる商人にひとつ頷くと、エイジェは「あとは頼んだわ」とラーニャを残して部屋を出ていった。きっと自室で歴史の本を読むのだろう。女王と南のムジャウハラート語を学ぶに当たり、時間を見つけては基礎知識を詰め込んでいるのだ。
「お供しないでよろしいのですか?侍女殿」
「ええ、主にこの場を任されましたので。ナジャー様」
ラーニャはツンとすまして答えてから、照れくささと可笑しさがこみ上げてきて、耐えきれず破顔した。
「まさかファイサル様が来るなんて」
「実はラーニャと会えないかと思って無理を言ったんだ。こんなうまくいくとは思わなかった」
「……実は私も期待してた」
小声で打ち明けて、こっそり笑みを交わす。
頼んでいた香油を受け取り、その香りを確認していると、ファイサルが花瓶に目を向けた。女王に頂いた金砂草が生けてある。
「珍しい花だ。香りも良いな。香油と勘違いするなよ」
「そんなヘマはしませんって。金砂草というそうです。女王陛下にいただいたんですよ!」
「女王陛下に!すごいな。ラーニャもお会いしたのか?」
「はい、しかも、私の名前をご存じなんです!本当に慈悲深いお方ですよ。光り輝くような方です」
「そりゃあ大したもんだ……驚いたな」
ファイサルは口をあんぐり開けた。ラーニャは得意になって、「この花、私の刺繍と似ていると思いませんか?」と瞳を輝かせて尋ねた。
「肌着の?言われてみれば……色褪せていたし、元はこんな紅色だったとしても不思議はないしな」
特徴的なガクと花弁の形は、オミウでは見たことがなかった。流石に花の刺繍で出自は辿れないだろうが、もしかすると都の生まれなのかもしれない、と浮つく気持ちになる。
「金砂草ね、俺も気にしてみるよ」
ではまたご贔屓に、と商人の顔で帰っていくファイサルを見送り、届いた品の整理をしていると、背後から「見ちゃった」とはしゃいだ声がした。
「エイジェ様、お勉強はよろしいのですか?」
「どうせ頭に入らないんだからいいの!ねえ、さっきの人と親しげだったわねえ〜。知り合い?恋人未満の方って、あの人?」
「エイジェ様ったら!」
顔を赤くして振り返ると、案の定にやにやと嫌らしい顔の主が頬杖をついていた。
「怒んないでよ。いいなあ、素敵ね。かっこいい人だった」
「分かってて二人きりにしましたね?」
「ご想像にお任せいたしますわ」
主の心底楽しそうな笑顔に、ラーニャはため息をこぼした。




