32 恋の話
花の王国の女王ニスリーン・ザフルは、夜明け前の暗い空を眺めた。うっすらと白んできた空が、ライラ山脈の際をくっきりと現し始めている。若き女王は、ひとつ溜息を落とし目を伏せた。
夢かと思った。あまりにも都合が良すぎたから。
あの日、金砂草の香りを感じながら、伯母の宮の庭でぼんやりと日を浴びていた。隠されたバルセームの姫がどんな人物なのか自らの目でも確かめようと、伯母に呼び出させたのだ。そろそろ客人の姿をこっそり見に行かなくてはと考えていたその時、ラーニャ・ファラウラは現れた。
雷が落ちたような衝撃だった。
あの目、あの顔立ち。見た瞬間に総毛立った。
特別な根拠を確かめる前に、彼女が彼女であることをすぐに悟った。
驚いたことに、なんと客人に付き添ってきた召使いだという。
美しいラーニャ。しなやかな身体に、知的な暗灰色の髪を持つ娘。見た目だけではない、その落ち着いた声すらニスリーンの心を震わせた。
宰相の反対を押し切ってエイジェ・バルセームを側近としたのは、ラーニャを逃さないためだった。
「伯母上から金砂草をもらってきてくれ。あのかぐわしい香り、エイジェも喜ぶだろう」
「かしこまりました、陛下」
背後で控えていたナダが微笑んで請け負った。エイジェに長く貸していた、ニスリーンの侍女のひとり。古い家の傍系の娘な上、頭の回転が速く重宝している。
ナダが部下に指示を出し終わるのを待ち、「なあ」と話しかけた。
「あれくらいの年頃の娘はどんな話を好むか分かるか?」
「そうですねえ……一般論ですが、当たり障りないのは恋愛のお話でございましょうか。まだ他の話題は理解するだけでお疲れになるでしょうから。恋愛なら、ご自身に経験がなくとも、興味がなくとも、語れるものがございましょう」
(陛下も同じ年頃でしょうに)という思いはおくびにも出さず、ナダは繊手を品よく頬に当てて答えた。
ニスリーンは、なるほどと頷いた。教養や身分を問わず語れる話は確かに限られる。エイジェだけでなく、ラーニャにも応用できそうだ。
「困ったな、私は恋をしたことがない」
お気に入りの男がいたことはあるが、恋と呼べる執着心は知らない。
ニスリーンはカツラを選びながら、どうしたものかと頭をひねった。
✜✜✜✜✜✜✜✜
「ほら、早くしないと遅れますよ」
「うーーーん」
まだ寝ぼけた主をなんとか着替えさせ、顔を拭う。さっと化粧を済ませて細かい巻き毛に櫛を入れた。
「ぎゃっ!」
力をやや強めにしたら、エイジェが品のない悲鳴を上げる。やっと目が覚めてきたようだ。
「ほら、そこから飾りを選んでおいてください。陛下は朝がお早いみたいですから、急がないと」
「ああ……日の出前に起きるんだっけ。意味わかんないわあ」
えーと、と欠伸をしながらエイジェは髪飾りをラーニャに手渡す。飾りを編み上げた髪に手早くつけて、ラーニャは主を馬車に詰め込んだ。
お行儀が悪いが、女中に包んでもらったパンと干しナツメを渡して腹を満たしてもらう。
数日前の女王の成人の儀以降、エイジェは息つく暇もなくあちこちの催しに顔を出していた。ひっきりなしに誘いが来て、もはや勉強する時間すら取れていない。昨晩も晩餐会に呼ばれ、帰宅は深夜になってしまった。
食事を摂ったことで、王宮につく頃にはエイジェもすっかり目覚めた様子になった。不安そうに今日の予定を確認している。
「えっと、何のお勉強会だっけ?」
「お勉強会じゃありませんよ、庭園を新しく造り直したから、一緒に散策しようとのお誘いです」
「あれ、お勉強会は?なかったっけ?」
「それは明後日です。ムジャウハラートの言葉を一緒に学ぼうと」
「そっちね。ああ、ザフル語ですら危ういのに」
ムジャウハラートは南の大国だ。ザフルの周辺の小国をいくつも征服してザフルに迫っており、今では国境の山脈を挟んでのにらみ合いが続いている。
女王の待つ庭に急ぐと、豊かな明るい髪を結いあげた後ろ姿が目に入った。東屋で優雅にお茶を飲んでいる。
(今日のカツラも凝っていらっしゃる)
ラーニャが感心していると、女王もこちらに気づいたようでにっこりと振り返った。
「昼になってしまうかと思ったぞ。おっと、そんな深刻な顔をするな、冗談だ。まずは茶で体を温めなさい。桂皮茶が好きと聞いているが、これはどうだろうな」
恐縮するエイジェに湯気が立ち上る茶を勧めてくる。当たり前のようにラーニャの分の茶器も用意されていた。恐る恐る口に運ぶと、香辛料が贅沢に香った。嚥下すれば、体の芯から熱が広がっていく。
「森が好きでな。季節の花がちらちら咲く林道のようにしてみたのだ。山で生きてきたエイジェにとっては物足りぬだろうが、なかなかの出来と思わないか?」
女王が指す庭園は、葉色の薄い木が立ち並ぶ林そのものだ。後ろの宮殿を振り返らなければ、どこぞの辺境と言われても納得だ。
朝靄がかかる美しい様に目を細める。エイジェも気に入った様子で、「中を歩いてもよろしいですか」と瞳を輝かせた。
柔らかな土は靴が汚れない工夫が凝らされているようで、安心して足裏の感触を楽しむことができる。清涼な空気に、田舎育ちのエイジェとラーニャはつい笑みをこぼした。
ひとしきり散策を楽しむと、小屋がひとつ現れた。おとぎ話に出てきそうな佇まいに興味津々になってしまう。女王は満足気に笑って小屋の扉を開けさせた。
「ここは私の隠れ家なのだ。どうだ、素敵だろう?」
可愛らしい木の扉をくぐると、花の香りに満ちた、これまた素朴な愛らしさのある部屋が広がっていた。
椅子に掛けるよう促されラーニャもエイジェの隣に腰を下ろす。極上の座り心地だ。お尻が沈み込んでいく。
「さて、そなたらをここへ招いたのには訳がある」
すっかり和んだ気持ちになったところで、鋭い響きを帯びた言葉が発せられ、ラーニャは姿勢を正した。エイジェもドキドキした顔で「なんなりと」と囁いた。
女王は真剣な顔でエイジェとラーニャの目をそれぞれ覗き込み、言った。
「恋の話をしてくれないか」




