31 宮殿の夜
まっすぐ視線を前に向けると、てっぺんをまだ白くしたライラ山脈がいつもの様子でこちらを見ている。少し視線を下げれば、立派なお庭と建物、そして貴族達の家々、遠くに平民の街が光をぽつぽつ灯して広がっていた。
ラーニャは今、エイジェに与えられた宮殿の一室にいる。
主エイジェは女王の成人の儀で、その側近に任ぜられたのだ。宴が終わり帰り支度を始めたら、せっかく宮殿に来たのだから泊まって行けと、早速エイジェのための部屋に押し込まれてしまった。
「ラーニャ、私、なんだか現実味がないわ」
寝台に行儀悪く倒れ込んだ主が呆然と呟いた。
「土だらけになって遊んでいた私が、突然貴族のお姫様として迎えられて、今は宮殿にいる。なにがどうなっているの?」
「私も同じ思いですよ、エイジェ様。女王陛下って、実在したんですねえ……」
「ほんとねえ……」
ラーニャはぼうっとしながら、エイジェの髪をほどいた。お湯に少し香油を混ぜ、布に染み込ませる。固く絞って、主の髪を拭いた。くるん、くるん、と自由になった巻毛が広がりだす。
「私、明日はどうすればいいのかしら。側近って何をするものなの?」
「ひとまず、朝ごはんでも一緒に食べるんですかねえ……」
「困ったわね……」
頼りない侍女で忍びない。王家から貸与された侍女のナダであれば、もっと物知りなのだろう。こんな自分でエイジェの役に立つか不安になる。
ちょっと外の使用人に相談してみようと扉を開け、ラーニャは固まった。
「ラーニャ?どうかしたの?」
エイジェが寝っ転がりながら怪訝な声を出す。ラーニャのかわりに、別の女性の声が応えた。
「夜分にすまないな。ふふ、エイジェは随分くつろいでくれているようで安心した」
「へ、陛下⁉ こ、このような姿で、申し訳ございません、なぜこちらに…!」
エイジェが声をひっくり返して叫びながら、跳ねるように身を起こした。
慌てて髪を押さえつけるが、細かい巻毛は好き放題に広がっていて、無駄なあがきだった。
突然現れた女王その人は、面白そうに周囲を眺めて室内に足を踏み入れた。宴の席とは異なる衣装だが、やはり豪華だ。額では大きな柘榴石が揺れている。
「いい、いい、気にするな。無礼はこちらなのだ。悪いが入らせてもらうよ。少し晩酌しよう」
女王は鷹揚に笑い、柔らかな長椅子に腰を下ろした。侍女が卓に酒瓶と杯を置く。
ラーニャはドキドキ様子を見守りながら、しまい損ねていたエイジェの私物をさりげなく片付け、脱ぎ捨てられた靴をエイジェの足元に並べた。エイジェは丸い目で女王を凝視しながら、つま先を彷徨わせて器用に靴を履いた。
「そうだな、私だけこんな身なりでは気が引けるか。では」
女王は少し思案すると、豊かな髪を頭ごと掴んだ。うーんうーんと身をよじり、見かねた侍女が手を貸してやっと髪が取れた。
エイジェがぽかんと口を開ける。
女王は大きな鬘を侍女に託し、乱れた頭を整えてもらいながら、得意気にエイジェとラーニャを見た。
「これで対等とは思わないか?ああ、よく蒸れたこと。すっきりした」
「か、かつらをお召しだったのですね……」
「ああ。私の髪は細い上に少なくてな。飾り立てるには貧相なのだ。さてエイジェ、これで気兼ねなく話せるだろう。こちらへ」
「はあ……」
エイジェが頭の一回り小さくなった女王の対面に掛ける。
「エイジェ、こうして二人で会うのは初めてだ。いつもは伯母上を通していた。先ほども宴の席でよく語らえたとは思うが、二人ではなかったからな。都の暮らしに不自由などないか?食事も山とは異なるだろう」
「はい、住まいも使用人も何もかもお世話いただいておりますので、快適にすごしております。食の違いも戸惑いはしましたが、そもそも何もかもが一変しましまので、さしたる不都合はございません」
「ははは、それもそうだ。しかし、侍女は自ら手配しただろう。何かこちらの遣わした者に障りでもあったか?」
「いいえ!そのようなことは。お借りしている侍女たち、特にナダには良くして頂いています。ただ……」
エイジェは酒杯に目を落とした。
「山奥の村で、平民として育った身としては、このラーニャのような者が近くにいる方が心休まるのです。もちろん、多くを学ばねばならない身の上であると承知しているのですが……」
「そうだな。ナダは歴史ある家の娘だ。近くにおけば学びも多かろう」
「……申し訳ございません」
ラーニャはハラハラと二人を見守った。自分のせいでエイジェが責められている。
「そう小さくなるな。エイジェの気持ちはよく分かる。だからそなたを側に置くことにしたのだ。私は物心も付かないうちに即位しただろう、実権は伯母上にある。故に側近も、伯母上が選んだ者ばかりだ。もちろん皆優秀だ。信頼もしているさ。とはいえ……心安い訳ではない。自分で選んだ者を側に置きたかった」
「陛下……しかし、なぜ突然そのように?随分と急なお話に思えました」
「……」
女王はとろみのある酒をこくりと飲んだ。
「エイジェの人となりは、日々報告を受けていた。そうだな、理由はいくつかあるが……一番は、我が地位を盤石なものとするためだ」
「陛下は既に至高の座にいらっしゃるではありませんか」
「そうとも限らない。ザフルは18年前、亡国の危機にあった。なんとか母が凌いだが、今も安泰ではない。名高いバルセームを懐に入れれば、私の寿命も延びようというわけだ」
「バルセームはザフル王家の傍系に過ぎません、そのような力は」
「あるさ。バルセームの祖は誰と結婚した?滅びた帝国の姫君だ。かの帝国が倒れて久しいが、帝国時代からの古い連中には、よい牽制になる」
ラーニャはエイジェの授業に同席して初めて知ったが、かつて、ザフル王国や隣国シャガルは、ひとつの巨大な帝国の一部に過ぎなかったという。
帝国の崩壊に伴い、いくつもの小国が生まれ、覇を競いあった。ザフルはその中を生き延びた小国の一つなのだ。ザフルの貴族は、ザフル建国に貢献した士族と、帝国時代の土着の支配層からなる。バルセームは二つの派閥どちらからも支持を得ることができる貴重な存在だった。
ラーニャは膝を打ちそうになったが、エイジェは納得のいっていない顔をした。
「それは元より分かっていたことではございませんか?なぜ直前になって新しいお役目をいただくことになったのか、わたくしには分かりません」
「はは、真っ直ぐに物を言う。聞いていた通り聡いな。そうだな、実はそなたを隠れて見たのだ。伯母上の宮へ行っただろう?それで気に入った」
「……左様でございますか」
エイジェはしょんぼりした様子で引き下がった。
ラーニャは女王を見つめる。なんとなくだが、雑な言い訳に思えた。だからエイジェは元気をなくしたのだろう。ここでは明かせない裏の事情もあって、エイジェは女王に侍ることになったのだろうか。
互いに酒を飲み交わし、さて、と女王が長い指を立てた。
「側近としてエイジェに望む役目はいくつかある。まず、民の目線で感じたことを教えてくれ。貴族連中に関する憂いを取り除けても、民草の怒りが知らぬ間に高まれば国が乱れる。先ほどのように忌憚なく物申すのだ。次に、旧帝国系の家と親睦を深めよ、しかし懐柔はされるな。そなたはまだ染まりやすいことを胸に刻んでおけ」
面食らったエイジェにかわり、ラーニャは聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けた。
「さあ、つまらない話はここまでにしよう。私はそなたと仲良くなりたいと足を運んだのだ。ラーニャ、そなたも飲んで良い。隣に座るか?」
ラーニャは理解が追いつかず、呼吸を忘れた。
(陛下に名を呼ばれた……⁉)
すぐに汗が吹き出し、慌てて首を横に振る。
「め、滅相もない!卑しい身でございますので……」
「エイジェ、構わぬな?」
「もちろん。ラーニャ、ここへ」
女王は聞く耳を持たない。まさに王者だ。さすがに哀れに思ったのだろう。エイジェが助け舟を出して自分の隣に座らせてくれた。
恐る恐る女王の向かいにかけると、興味深そうに全身を眺められた。
「平民の言葉の中には金や蠍が紛れている。偉大な帝国はすべてを麦わらと思い込み軽んじたために滅びた」
つぶやき、親しげに微笑む。
「亡き母の言葉だ。私を助けてくれるか、ラーニャ」
「私ごときで、お役に立てるのでしたら」
ラーニャは、背を伝う冷や汗を感じながら、美しく化粧された女王の目を見て答えた。
「立つとも。それにしても、私以外に額飾りをしている若い女を久しぶりに見た。みな流行を追ってばかりだから。良い趣味の石だ。とくにその、金粉のようなきらめきが良い。なぜその石を?」
「恐れ入ります。これは亡き主エバ・ナルジス様の形見なのです。一目見て気に入りまして」
「エバ・ナルジス……。そうか。ライラ山脈の向こうから来たか。……よく似合っている。大切にしなさい」
女王はどこか鋭い目をしてから、にっこりと口角を上げた。
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「カミル様、どちらへ」
「陛下にお目通りを」
疲れた顔で近衛兵に告げると、「今はお部屋にはいらっしゃいません」と緊張した面持ちで言われた。
「ではどちらに?今宵はお疲れだろう。宰相も宮へ戻ったはずだ」
尋ねると、若い近衛は不安そうに瞳を揺らした。まだにきびのある頬をしている。
「バルセーム様の居室です。そろそろお戻りになるはずなのですが……」
「なるほど。早速帰さぬとは、随分と気になっているようだな……仕方がない、出直そう」
カミルは顎を撫でて思案し、あきらめることにした。
(しかし、バルセームを随分と気に入ったものだ。何がそこまでさせる?若く優秀な女人を会わせても当たり障りない付き合いしかしてこなかったというのに、まだ顔を合わせる前から側近に決めるとは)
確かにバルセームを側に置くことに利はある。しかし、まだ政治のせの字もおぼつかない者を敢えて据える必要はない。ほどほどに交流さえしておけば良いはずだ。もともとその予定だったというのに、突如エイジェ・バルセームを側近にすると言い出したのだ。
(余計な入れ知恵でもされたか……?いや、そんな愚かな娘ではない。赤子の身で王冠を戴いたのだ、今更そのようなことはあるまい。しかし、ではなぜ……)
踵を返し歩いていると、静かな夜の宮殿に、ふと明るい笑い声が響いた。若い娘たちの声。
「楽しい時間だった。よく眠るといい」
「こちらこそ。おやすみなさいませ」
カミルは、だんだんと近づく蝋燭の影を見ながら、(娘らしく笑うこともあるのだな)と意外な気持ちになっていた。
曲がり角から姿を見せたその人は、「おや」と目を丸くした。
「陛下、珍しく楽しい時間を過ごされたようですね」
「ああ、なかなかに有意義な時間でした。ちょうどお顔を見たいと思っていたのですよ」
「御冗談を」
「この女王を疑うとは、不届き者ですね」
にやりと笑いながら、じっとカミルの顔を見る。どこか探るような視線に居心地の悪いものを感じて、カミルは咳払いした。
「エイジェ・バルセームはそれほどにお気に召しましたか。何がそれほど心惹いたのです?」
「……なんだ、探りにいらしたのですか。珍しい友人が欲しくなったのですよ」
「かつて隠された境遇の娘なら、すでにご友人にもいらっしゃるはず。バルセームと遜色ない家の娘たちも。なぜ敢えて面識のない彼女を?」
「……ただ一目見て側に置きたくなっただけです。今更文句でも?伯母上も許可なさったこと。とやかく言われたくはありません」
苛立った視線をカミルに向け、細い顔を背けて歩き出す。
「お小言ならまた日を改めて。ごきげんよう」
「……お休みなさいませ、陛下」
カミルは諦めて慇懃に頭を下げた。
宮殿を離れる馬車に向かいながら、どうしたものかと白髪交じりの頭を掻く。
「エイジェ・バルセームとその周囲について、再度報告をまとめろ。網羅的にな」
「かしこまりました」
よいせ、と重くなった体を馬車に押し込み、カミルは重くため息を吐いたのだった。




