3 冬の終わり(2)
その後のことはよく覚えていない。院長に聞きたいことはもっとたくさんあったのに、当たり障りのない受け答えしかできず、気づけば一人、孤児院にほど近い湖畔で佇んでいた。手の中には、握りつぶされた紙片があり、院長の几帳面な字で、知らない男の名前と、大まかな家の場所が記載されていた。思っていたより遠い山に住んでいる。一年を通して山頂が雪に覆われたその山は、孤児院からも湖畔からもよく見えた。春になった今も、まだ雪が日の光を白く反射している。冬であれば、きっと人の侵入を拒む難所なのだろう。
(―――私は、あそこに、捨てられた…。)
ぐっと、顎に力が入る。口元が歪む。
4歳程度で孤児院に来た。その前は狩人に2年育てられた。ということは、捨てられたラーニャは2歳ほどだったはずだ。孤児院の幼子を思い浮かべる。よちよちと歩く、あの、小さく、柔い子を、雪山に置き去りにしたらどうなるだろうか。
(死なせるつもりで、捨てられたんだ。)
ただ、悲しかった。
ラーニャは、自分が捨て子だとは察していた。それでも、心のどこかで期待していたのだ。本当は、愛されていたのではないかと。
「お嬢さん、良ければ家まで送りましょうか?」
突然の声に、驚いて振り向いた。見ると、身なりの良い中年の男性が、気遣わしそうに眉を下げている。少し後ろにはもう一人、仲間と思われる男性がいる。
「いえ…すぐそこですので。」
ラーニャは硬い表情で答えた。
オミウは栄えている街だが、その反面、犯罪も多い。出かけたきり、二度と孤児院に戻らなかった友達を思い出す。
「…何やらつらいことがあったようですが、思い詰めてはいけませんよ。まだ若い。10年もすれば、今日の悲しみなんて薄れてなくなりますからね。」
警戒して身構えていたが、なんてことはない。自殺志願者と間違われたようだ。
ラーニャはおかしくなり、声をあげて笑った。
「お気遣いありがとう、おじさん。死にたいわけじゃないから安心して。ちょっと、つらいことを知ってしまって、落ち込んでいただけなの。心配かけてごめんなさい。」
「なら良かった。こちらこそ驚かせて申し訳ない。」
男性も照れくさそうに笑う。目じりに人のよさそうな笑い皺がある、感じの良い人だ。
よく見ると、とても整った顔立ちをしている。上質な生地の服をさらりと着こなしており、趣味の良さも覗えた。若い頃はさぞ女性に持て囃されたに違いない。
「おじさん、他所の人?」
「ええ、さっき着いた所です。国中あちこちを回っているんですよ。」
ということは商人なのだろう。大商人リヤード・ナジャーも、駆け出しのころは各地を回ってたという話を思い出す。
「いいな、私、オミウを出たことが無いの。きっと素敵なところがたくさんあるんだよね。」
「そうですね。でも、オミウは素晴らしい街ですよ。活気があるし、自然も美しい。特にオミウ湖は良いですね、これほど大きな湖はここでしか見たことがない。水面に映る山々や空のなんと美しいことか…。」
うっとりと語る男性を、ラーニャは微笑ましく思った。お世辞ではなく、本心でそう思っていると伝わってくる。
「外の人に褒められると嬉しいよ。」
「あなたも他所に出てみると良いですよ。外を知って自分のことが分かることもある。あの山の先は、すぐ都です。案外近いもんですよ。」
男性は、ラーニャが思いを馳せていた雪山を指し、事も無げに言った。
「…あの山も、近いの?」
「いや、そんな歩いてすぐ行ける距離ではないですが、山の方面には街道も無いし、でもまあ、あの山なら、都に行くよりは近いでしょうね。」
男性は少し慌て、しどろもどろになりながら答えた。失言だったかなと苦笑していた彼は、ラーニャのような小娘に対しても終始丁寧に接してくれた。
今思えば、それなりに地位のある商人だったのかもしれない。余裕のある、優しい人だった。
男性と話をした湖畔も、ラーニャの孤児院も、あの雪山も、高台に位置するナジャー家の屋敷から見ると随分と小さい。
ラーニャは、窓から視線を外すと、水を換えたばかりの水差しを抱え直し、再び歩き始めた。
ラーニャがナジャー家に来てから、半年が経とうとしていた。




