29 優しい人
「は!?王宮に上がるのか!?」
ファイサルの素っ頓狂な声に、ラーニャは、肩をすくめて視線を逸らした。
「まあ、主のお供ですよ」
さすがに内々のことを打ち明ける訳にはいかないので、ぼんやり濁して話してみる。女王の成人の儀に行く、くらいに思われているはずだ。まさかしばらく滞在するとは夢にも思うまい。
「たまげたなあ。とんでもないことなんだぞ、それ。まだ都に来て一月足らずなのに、よくもまあそこまで認められたもんだ」
「嬉しそうですね」
ファイサルはにっこり笑った。
「そりゃそうだ。よく頑張ったな」
なんて眩しい笑顔だろう。
ラーニャはつい顔を赤くして、もごもごとお礼を言った。
今日は初めての休みだ。折角だからと都の探検もかねて自分でナジャー商会まで手紙を運んでみたら、思いがけずファイサルが街の案内を買ってでてくれた。
賑やかな市場に差し掛かると、見慣れない商品が目につく。
「オミウとは品揃えが違うんですね」
「海も近いからな」
「海!へえ……オミウ湖より大きいんですよね?」
「ははっ!うん、そうだな、ずっと大きいよ。このザフル王国が千あっても及ばないだろうな」
「そんなに!?え、じゃあ海はどこに流れるんですか?」
「海の果ては誰も知らない。船乗りだって、海の先の異国に行ったことしかないんだ。果てはどうなってるんだろうなあ」
「ファイサルでも知らないんですね……。無限なんて物はないんだから、川の水を止めないといつか溢れちゃいますよね……」
最後に泳いだのは子供の頃だ。泳ぎの練習をしておいた方が良いのだろうか。
都が海に飲まれる様子を想像して震え上がっていると、ファイサルが抑えきれないといった様子でくつくつと笑った。
「何がおかしいんですか」
「いや、悪い、ふふっ。あんまり可愛いから、つい」
「馬鹿にしてますね?」
そっぽを向くと、色とりどりのクッションが目に入った。精緻な刺繍がびっしり施され、並べて売られている。見事な腕前だ。店の前でうつらうつらしている人が作ったのだろうか。
自分で刺繍を施したハンカチを取り出して比べてみたが、己の拙さに苦笑が漏れた。
あーあ、と残念に思っていると、ファイサルが「おっ」と隣で笑った。
「この花、肌着の花か?」
「分かりますか?」
「分かるよ。何の花かは分かんないけどな」
「失礼な。これでもお手本を忠実に再現したつもりなんです」
ファイサルと見つけた、幼いラーニャが身につけていた小さな肌着。そこに施されていた小さな花の刺繍を真似したのだ。
この花は誰かがラーニャを愛していた証だ。身につけると、勇気が湧いてくる。
「これ、俺のにも刺してくれよ」
「え、可愛いすぎませんか?」
「俺は格好いいからな、少し可愛いくらいで具合が良い」
「何言ってんですか」
胸を張る美丈夫がおかしくて笑ってしまう。
都の鮮やかな日の下で見るファイサルは、活き活きとした魅力が溢れ出して止まらない。
さぞ持て囃されているだろうに、オミウにいた頃と変わらず、いや、それ以上にラーニャとの時間を大切にしてくれている。今日だって仕事中だったのに、こうして街を案内してくれた。「約束の紙代を出せてないから」などと言って、美味しい菓子が食べられるお店にも連れて行ってもらったところだ。
ラーニャは目を細めてファイサルを見上げた。
「また、こうして会ってくれますか?」
ファイサルは「もちろん」と優しく頷いた。
「実を言うと、次の休みも、その次の休みも、全部俺が押さえたいんだぜ、素敵なお嬢さん」
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寝返りをうつと、寝台に座る華奢な背中が見えた。まだ明け方で、暦の上では春になってもオミウは寒いというのに、薄い寝間着しか纏っていない。
「風邪引くよ」
「……起こしちゃった?ごめんね、マリアム」
「別に……手紙?」
毛布を肩にかけてやると、膝の紙が見えた。薄暗くてよく見えない。
「孤児院から?」
「……うん。ってより、お母さんからかな」
マリアムはサナの顔を見上げた。
サナの母親は、文字が書けない。だから孤児院が代わりに手紙を寄越したのだ。
サナの母親は美しい人で、それゆえに惨い経緯でサナを宿すことになったらしい。自らの手で育てることこそ出来なかったが、時折孤児院を訪れていた。
「なんだって?」
「……あたしの居所を探ってる男がいるみたい。気をつけろって。検討はついてる。心根がそもそも醜い卑しいみみっちい、三拍子そろった自称善良なおっさんだよ……。まあ、ナジャー家にいれば大丈夫だと思うけど……あたしのせいで迷惑かけたらどうしようとか、色々考えて目が冴えちゃって」
あーあ、とサナは天を仰いだ。
「もう、逃げちゃおうかな」
「いいんじゃない、逃げちゃえば」
「え?」
サナが目をぱちぱちと瞬かせる。いい機会だ、言ってしまおう。
「私は、春になったらオミウを発つ。シャガルを目指すの。お父さんとお母さんの国に行く。一緒に来る?」
「……は?」
「ラーニャは都に行った。私もこの国を出る。サナも、オミウに囚われる必要はないんじゃない」
「マリアム、決めたの……?」
サナが硬い顔をするのも無理はない。マリアムは苦笑した。
マリアムは、罪人の娘だ。街道は使えないし、一度国を出たら、二度とザフル王国には戻れない。
「うん。もう、疲れちゃった。あは、そんな顔しないで」
「マリアム……あたしはシャガルには行けないよ……でも、マリアムと離れたくない……」
「そうだね、私も、サナとラーニャは好きだよ。私はザフルには戻れないから、きっと、さよならだね」
「……っ!」
サナが顔を歪めて縋りついてきた。抱き寄せて、一緒の毛布に包まる。温かい。
可愛くて、憎らしくて、妬ましくて、大切な家族。
ザフル王国には多くを奪われてきたけど、サナとラーニャだけは、自分の意思で手放すと決めた。
自分の心の黒い澱みが、二人を傷つけてしまう前に。
目を閉じれば、彼の言葉が蘇る。
『マリア。本当の自分を取り戻したくはないのか。それとも、マリアムとして一生を日陰の身で終えるつもりか』
腹から響く太い声。じろりとこちらを値踏みする眼差し。全てが嫌だったのに、何故か逃げられなかった。
『父母の真実を知りたくないか。君はシャガル人だ。弱く卑しいザフルごときに、潰されてはいけない。君の両親は立派な人だった。あんな死に方をしていい人たちではなかった。』
そう、お父さんとお母さんは優しい人だった。それなのに、嬲られて、罵詈雑言を浴びせられて、見世物になって死んだ。
『いいか、その身に流れる血を誇れ。私の手を取れば、何も案ずることはない。世界で一番美しい言葉を教えよう、君の両親が見た景色を教えよう。そして時が満ちたら共に帰ろう、気高き大樹の国に。君の祖国に。陽が歌い緑が踊る、我等の王国に。』
私は彼に利用されているのだろう。ラーニャとサナがそれを案じているのは分かっていた。
しかし私は、罪人の娘という地位に叩き落されてから、少しずつ、少しずつ、心を踏みつけにされて生きてきたのだ。
私の心はボロ雑巾のように惨めで、それを哀れんで、労って、本当は絹だったのにねと慈しんでくれた人に、その人が語る美しい言葉に、未来を委ねてしまいたくなったのは、仕方のないことなのだ。
いつからだろうか、気付けば生まれ育ったこの国が憎らしくてたまらなくなっていた。
この国に生きる愚かな者達には虫唾が走る。粗暴でずる賢く、怠惰なザフル人達。サナとラーニャなどの一部の人を除いて、生きる価値もない。
だからサナも苦しんでいる。可哀想なサナ。シャガルに行けば馬鹿なザフル人から解放されるのに、この国にしがみついて。きっとラーニャも都でつらい思いをしているんだろう。
そうでなくては、いけない。
マリアムはサナをしっかり抱えてため息を吐いて、本当に愚かなのは自分自身だと、そう叫ぶ心に蓋をした。




