28 初めての外出
ラーニャは、整った文字にそっと指を添えた。
存外に生真面目な字を書くと、驚いたのはいつだったろうか。ほんの少し前まで、一緒に机を並べて作業することもあったというのに、もう随分昔のことのようだ。
近況の連絡などの後に、ためらうように書かれた言葉。
つい笑みがこぼれる。
会えない分、言葉が大胆になるのはお互い様のようだ。
今、ラーニャはバルセームの屋敷の中庭で、主であるエイジェの授業が終わるのを待っている。
基本的には同席しているのだが、珍しく最後に少しだけ人払いをされた。今日の講師は女性であるため、すぐ駆けつけられる中庭で大人しく時間を潰していたら、ちょうどファイサルからの手紙を持った女中が通りがかったのだ。
ふと聞こえてきた話し声に顔を上げると、ちょうどエイジェ達が歩いてくるところだった。ファイサルからの手紙をさっとしまい、立ち上がる。
「ラーニャ、外出するわ。すぐに支度を」
「かしこまりました。どちらまで?」
そんな予定は聞いていない。主は緊張した顔で振り向いた。
「宰相殿下のお屋敷よ」
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外出に付き添うのは初めてだ。先輩侍女に手伝ってもらってエイジェの支度を整え、共に馬車に乗り込む。
エイジェは落ち着きなく腕を組んだり解いたりを繰り返している。
先輩侍女が笑った。
「エイジェ様、殿下にお会いするのは初めてではございませんでしょう。何をそんなに緊張していらっしゃるのです」
「そうは言っても、この様に突然呼び出されるのは初めてのことだわ」
「お花様ですもの、そうしたこともございますわ」
宰相はどうやら王族らしい。エイジェの授業に同席していても、さすがに知らないことばかりだ。しかし、当然知ってますよ、というしたり顔で微笑み続けてみる。
エイジェはため息を吐いた。
「王宮で常日頃から王族に接していただけあるわね、ナダ。あなたを見習って肩の力を抜くように努めるわ」
「白詰草の姫君が何をおっしゃいますやら」
ほほ、と笑うナダは、とても優雅だ。市井育ちのエイジェが敬遠する理由が少し分かった気がした。
きっと本来はラーニャがこうして隣に座ることなど許されない身分なのだろう。ラーニャに仕事を引き継ぎ終われば、ナダは王宮勤めに戻る予定だ。
ナダの卒のない振る舞いはとても勉強になる。その一挙手一投足に密かに夢中になっていると、あっという間に宰相の屋敷の応接間に通されていた。
(よし、あとは王族への振る舞いも参考にしよう……)
ほくほくわくわくしていると、何故かナダは、主を残しラーニャを部屋の外に連れ出した。ラーニャは戸惑ってナダに尋ねた。
「あの、よろしいのですか?エイジェ様がお一人に……」
「ええ、いまあちらの侍女が目配せしたでしょう。それを見てエイジェ様が私達の方に顎を傾けた。人払いをされたのよ」
全く気が付かなかった。自分の至らなさに情けない気持ちになる。ナダは全く気にした風もなく、微笑みを向けた。
「時間がかかるから、お散歩してきて良いわよ。私は親族と話をしているわ」
「はあ……」
親族とやらはここで働いているのだろうか。これもある種の人払い?都のお貴族様は難しい。ラーニャは無駄にかいた手汗をハンカチで拭った。自分で刺繍を施したお気に入りだ。
よその屋敷内をうろうろすることには気が引けるので、庭に出てみることにした。少し風が冷たいが、天気が良いので外套なしでも大丈夫そうだ。
春が訪れたばかりの庭には花が彩りを添え始めている。
遠くには、見慣れない蕾が見えた。
(あの花はなんだろう…?)
「その先は靴が汚れる」
はっと振り向くと、死角に置かれた椅子に、一人の女性が腰掛けていた。
暖かそうだが、幾分気の抜けた格好で、少なくとも外ゆきの服装ではない。
「よくご覧。ほら、土がむきだしだ」
「あ、ありがとう存じます」
きっと貴族だ。この屋敷の人だろうか。あれ、宰相の家族となると、つまり王族……?
しっかり向き直ってみると、不思議な美しさを持つ人だった。顔立ちだけで言えば素朴な方で、共に孤児院で育ったサナの方がよっぽど整っているが、どういう訳か、彼女はラーニャが知るどの人よりも美しい。まるで身のうちから輝きを放っているようだ。
その明るい髪に陽の光が差す姿には、神々しさすら覚える。
「近くへ」
恐る恐る従うと、彼女は目を見開いて立ち上がった。ものすごい迫力だ。近くで見ると、思ったより歳が近そうだ。
無礼にならないように腰を落とそうとしたラーニャの肩を、ガシっと掴んで制す。そのまま鋭い目つきで頭の天辺からつま先まで観察された。
(こわいこわい……!)
ラーニャは震え上がった。
紙の出来上がりを検分する、製紙工房の親方みたいな目だ。もしくは、ラーニャの作法を確認するオミウのギョズデ家政婦長。
「……名は?」
「ラ、ラーニャ・ファラウラと申します。本日は、主に付き従い参上しました」
「主?」
美しい人は目を瞬かせた。ああ、と呟く。
「バルセームだな?主はエイジェで間違いないか?」
バルセームのことはまだ公言を禁じられている。しかし、エイジェを招いた家の人のようだし、向こうから名を出したということは、秘密を共有できる相手ということだろうか。
ラーニャはこわごわ頷いた。
「そうか。時間を取らせた」
そのまま、ラーニャの顔をじっと凝視してから、謎の貴人は踵を返して屋内に引っ込んでいった。
ラーニャはどっと疲れて、大きく息を吐いた。
少し庭で休んでから、行くあてもないため仕方なく応接間のあたりに戻ると、近くの部屋から白い手が手招きしてきた。先輩侍女のナダだ。
「ラーニャ、まだまだかかるらしいわ。お茶を一緒にいただきましょう」
「あ、ありがとうございます」
助かった。これでいつ終わるとも知れぬ主の用を廊下で待たずに済んだ。部屋を除くと、ナダはもてなされて当然、といった顔で茶菓子を口に運んでいる。その隣では優しげな女性が興味深そうにこちらを見ていた。
「ナダ、この方は?」
「新しくエイジェ様の侍女になったラーニャよ。もうエイジェ様と親しくなって、優秀な子なの」
「まあ」
ナダに話しかけたのは、どうやらこの屋敷で働く貴族のようだ。ナダの親族だと紹介を受ける。
「ラーニャさん、素敵な額飾りね。ご趣味が良いわ」
「恐れ入ります。亡き主の形見なのです」
「まあ、ということは、エバ・ナルジス様の?」
「あら!ではラーニャさんはオミウにいらしたのね」
貴族だが、気の良い人だ。久しぶりに同年代の女性達との会話を楽しみ、お茶を飲み終えた頃、屋敷の女中から声がかかった。
急いでエイジェの下へ向かうと、きらびやかな応接間に所在なく佇み、なにやら不安そうに大きな瞳を揺らしていた。
宰相の姿は既になく、ラーニャは安心した一方で王族を見れずに残念な気持ちになった。
(宰相と、どんな話をされたんだろう……)
帰りの馬車の中で、エイジェはナダを縋る様に見た。
「予定が変わってしまったわ。どういうことなの?こんな、どうしたらいいの」
「一体どうなされたのですか?」
「私、陛下の成人の儀で、ちょっとした領地を授かるだけの予定だったのよ。そのための問答の準備もしてきていたのに、今日になって突然、別のお役目も」
エイジェは、きっちり結い上げられた頭を落ち着きなく触る。少しだけ、細かな巻毛が顔にかかった。
「お役目とは?」
「お城に上がることになった。しばらくは王宮に滞在せよと」
「まあ、それは」
ナダが微笑んだ。
「良きことでございますね。おめでとう存じます」
なんとなく、ナダはこの未来を知っていたのではないかと邪推したくなるような落ち着きぶりだ。
「何もおめでたくはない!私の身に付けてきたものは、成人の儀をつつが無く迎えるための付け焼き刃。女王の側に侍るなんて無理!!期待外れだったと笑われるのが目に見えてる」
「ご謙遜を」
「ナダ、あなたが一番良く知ってるじゃない!」
「エイジェ様、私の知る以上に、王家はエイジェ様のことをご存知でしょう。その上で、今回のご判断が下ったのですから、何も案ずることはございませんわ」
ほほ、と笑う。エイジェは何か言いたげな様子で口を閉ざした。
「王宮に上がれるよう、ラーニャさんをしっかりお教えしなくてはなりませんね」
「私がお供するのですか?」
「もちろん」
やはり、と思いつつ、さすがに動揺する。ちらりとエイジェを見るが、むすっとしつつも特に異論は無さそうだ。
「……よろしくお願いいたします、ナダさん」
ラーニャは、また手紙に書くネタができたなあと、やや現実逃避をしたのだった。




