24 川旅
オミウにも、春の気配が訪れ始めている。
雪を被った大岩、芽吹き始めた緑、獣の足跡。
滑るように流れる景色にラーニャが目を奪われていると、また船が大きく揺れた。
「うわ!」
ラーニャは咄嗟に積み荷にしがみつき身を縮こませる。冷たい水しぶきが首元にかかり、ひぃと息が漏れた。
その様子を見ていた船頭の男が快活に笑った。冬の終わりにも関わらずよく日焼けした肌に白い歯が光る。
「お嬢ちゃん、船は初めてかい。いい反応だ。」
「うん…こんなに激しいなんて思わなかった…。」
「あはは、ここんとこ暖かい日が続いたからねえ。もう雪解け水が増えてきたのさ。都までもう少しの辛抱だよ。でもナジャーの船は揺れにくいって評判なんだけどなあ、ねえ、坊っちゃん!」
船頭の呼びかけに、積み荷の向こうから一人の青年が顔を覗かせた。
「それは人間用の方だろう。荷運び用じゃまた別さ。速さ重視だからな。」
念入りに縄で荷を固定し、これでよしと手を叩く。
「酔ってないか?荷にさえかけなきゃ好きにぶちまけて良い。」
「そんなことしませんよ!」
キッとその端正な顔を睨みつける。
少しも気にしない様子で、失礼なその男は、揺れを物ともせず長い脚を器用に運んでラーニャの隣に腰掛けた。
「ちょっと、ファイサル様のお席は後ろですよ。」
「いいだろ、どうせすることもない。話し相手になってくれよ。」
「はは、坊っちゃんに目をつけられたぞ、お嬢ちゃん。合図してくれたら櫂を振り回すから安心しな!」
「頭をかち割る気か?!」
船頭はナジャー商会の人間ではない。そのせいか、ファイサルも随分気楽そうだ。お坊ちゃんにも色々とあるのだろう。
ラーニャはファイサルのために船べりの方へ尻をずらした。ラーニャ達が乗っているのは、オミウから都に向かう荷運び船だ。元々人が座れる空間は少なく、厚い外套越しとはいえ、ファイサルの体温を直に感じる距離に気恥ずかしさを覚えた。船が少し揺れるだけで、大胆に肩が触れてしまう。慌てて体を離そうとすると、大きな手がラーニャの肩を引き寄せた。
「あんまり縁に行くと落ちるぞ。いくら今年が暖かくても投げ出されたら心臓が凍って死ぬからな。」
「死……?!」
「ああ、心配なら俺に抱きついておけ。」
大真面目な顔に、悪ふざけなのか心配しているのか判別できず狼狽えてしまう。
ひとまずファイサルに少しだけ身を寄せ、命綱としてその外套の裾を握ることにした。
恐る恐る川面を見つめ身を縮こませたラーニャには、やれやれといった顔の船頭にファイサルが片目をつぶったことなど、まるで知る由もなかった。
ファイサルの懐から出てきた菓子をありがたく食べていると、川幅が広い場所に出た。他の船も増えてきたようだ。
「もうじきに都だよ。乗り心地は悪いが、船だと速いんだ。」
「本当に速いですね。皆とお別れしたのはついさっきなのに…。」
ナジャー家での最後の時間を思い出す。涙ながらに送り出してくれたアミナ達侍女仲間、都で恥ずかしくないようにと、最後まであれこれ知恵を授けてくれた家政婦長、仲良くしてくれた下働きの仲間達…。そして、大切なマリアムとサナ。
マリアムとは、喜捨の日の口論以降、ぎこちない雰囲気が続いていた。マリアムのことが何かと心配で、つい口を出しかけては反発され、かと言ってお互いに相手の気持ちも分かるため妙な気遣いもあり…。
それでも、最後は3人で強く抱き合って別れることができた。
「ん?なんだ、どうかしたか?」
そうだ、と隣を見る。くつろいだ様子のくせして、少しでも船が揺れるとラーニャの背に手を回す過保護な青年が、しれっとした顔を向けてきた。
(そんなに心配なら、へり側に座れば良かったのに。私があまりに景色に夢中だったから、気を遣ってくれたんだろうな。)
つい笑みがこぼれる。少し勇気が湧いてきた。
ラーニャはもう、ナジャー家の侍女ではない。
皆に見送られ馬車に乗り込んだそのときから、バルセームの門をくぐるまで、ただのラーニャになったのだ。
対等な二人になれるまで、あと少し。
「なんでもないですよ。」
「ふうん?さてはお嬢さん、俺に見惚れたかな?」
「うーん、お鼻の先が赤くなってなかったらそうだったかも。」
冷えた空気に染まった高い鼻の先を指差してにやりと笑う。ナジャーの侍女であった頃はこんな無礼なことは言えなかったが、今のラーニャは無所属無敵の野良人間だ。これくらい素を出したって何も怖くない。素のラーニャを見てファイサルの心が離れるのなら、そこまでの相手だったというだけの話だ。
ファイサルは大げさに驚いた顔をした。
「なんてことだ、いつの間にかラーニャのかわいいお鼻とおそろいだ。」
「え?!」
慌てて鼻先を触ると、水のように冷たかった。鼻水かと思って更に焦り、念の為指先を確認する。大丈夫、濡れていない。
「鼻水が垂れていても気にしないって。」
「ちょっと、垂れてないでしょう!止めてくださいよ。」
「あれ、もう口調を戻すのか?」
「え、それは…さすがに…。」
「ラーニャ、もうラーニャはナジャーの人間じゃない。俺に気を遣う必要はないよ。」
急に真っ直ぐ見つめられる。たった今まで鼻水がどうのと騒いでいたのに、突然態度を変えないでほしい。悔しいことに、惚れた弱みで胸の奥が妙な感覚になる。
「俺はお祖母様や母様と違って貴族じゃない。ナジャーの跡取りでもない。」
そんでもって、と笑った。
「面白そうな人が隣にいるから仲良くなりたいんだけど、どうも壁を感じて落ち込んでいる。どうしたらいいかな?」
わざとらしい台詞だ。ラーニャもつい緊張が解けて笑った。
「どんな壁ですか?気のせいかも。」
「俺にだけ敬語を使ってくる。船頭には普通の口調なんだ。これって、一線引かれてるってことかな?」
「うーん。」
ラーニャはちょっと指先をいじり、手を組み直す。
「違うと思いますよ、ファイサル。慣れないだけ。…って、何ですかその顔!」
思い切って言ってから、横目にファイサルを見ると、なんとも珍妙な顔をしていた。美丈夫が台無しだ。
「いや、その、悪い。ほら、都が見えてきたんじゃないか?」
「お鼻以外も赤くなってますよ。」
「言うなよ…。」
ファイサルが、顔を真っ赤にして気恥ずかしそうに口を尖らせた。ガシガシと頭をかき、癖毛がピョンと跳ねる。
つられて頬が熱くなるのを感じて、ラーニャも船の進む先を見た。ファイサルの言葉通り、視界を遮る木々が減り、船着き場や橋がその姿を現し始めていた。
「あれ、お城とかが見えると思ってました。」
「オミウの山城とは違って、そんな高くにはないからな。土手を登ればきっと見えるさ。」
「へええ…。」
さすが都に近いだけあって、しっかりとした造りの土手が川を支えている。しばらくすると、船着き場の男たちが発する威勢のいい掛け声が響き始めた。
「大きな商家は専用の船着き場を持ってる。うちは割と手前だ。ほら、あそこだ。ちょうど店の裏なんだ。ん?先発の奴らがまだいるな。」
ファイサルの指の先を見ると、ラーニャたちより前に出航した船が荷下ろしをしていた。こちらに気づき、大きく手を振る。
「ファイサル坊っちゃん!今日は奥を使ってください!」
「どうした!遅いじゃないか。」
「厄介な客が来ていてね、店に入れないんですよ。」
「官吏か?」
「いや、お花様の遣いだ。」
「どの花だ?」
「正真正銘のお花様ですよ、困ったことに。」
「北か?」
「ご明察。噂通りですよ。」
「最悪だな。」
嘲るような笑みを浮かべ、ファイサルは水夫達に「左に入ってくれ。」と指示した。立ち上がり、縄を手にする。
「ラーニャ、今日は店には行けなさそうだ。悪いな。」
「なにがあったんですか?」
「たちの悪い客が来てるみたいだ。店には寄らないで行こう。」
別の船着き場で杭に縄を手早く結びつけ、船を固定する。「あとは頼んだ。」と、水夫達に手を上げてみせ、ラーニャの荷物を手に持ち岸に片脚を掛けた。
「揺れるから気をつけて。」
「ありがとうございます。」
ラーニャはファイサルの手を大人しく取り、船から降りた。少しふらつく。
「まだ揺れてる気がする…。」
「酔ってないだけで大したもんだよ。」
「すみません、荷物。」
「ご婦人の横を手ぶらで歩くなんて醜態だ。俺を立ててくれ。」
「あれ、ファイサル様…ファイサルの荷物は?」
「適当に運んでくれるさ。」
「おぼっちゃまだ…。」
ファイサルは、ラーニャの視線をものともせず得意気に笑う。小さな階段を上ると、大小様々な建物が目に飛び込んできた。
「うわあ…!」
これが都。ザフル王国の中心。
きょろきょろしていると、ファイサルが大きな橋に先導した。
「ほら、見てご覧。」
橋の中ほどでファイサルが立ち止まる。指す方向に目を向けると、遠目にも壮麗な建物が川の先に現れた。家々の先にあるのに、ひときわ大きく見える。あれはなんだろう。
「花の王宮。我らが慈悲深きニスリーン女王陛下のお住まいの、その一角だ。」
(お城の…一角?!)
ということは、お城の全貌はどれだけ広大なのだろう。呆気にとられているラーニャを振り返り、ファイサルがにっこりと笑った。
「花の都へようこそ、ラーニャ。」




