21 夫婦
船から降り、運河近くで捕まえた貸馬車は、平素より慣れたそれとは違って快適とは言い難かった。流石に四十路も半ばの身には堪える。ようやっと扉が開かれると、冷えた夜の空気が鼻を撫でた。カミルは固まった身体を慎重に伸ばし、尻に血が通う感覚にほっとため息を吐く。夜風は冷えるが、朝まで滞在していたオミウに比べれば都は暖かい。
「おかえりなさいませ。」
頭を下げる使用人達に、軽く手を上げて応える。1年近く離れていた我が家だが、特に変わった様子はない。馬車を降りて玄関を抜け、女中に外套を預けながら、カミルはあたりを見回した。
「アーディラは?」
妻の所在を尋ねると、執事が答えた。
「執務室に。」
「こんな夜更けまで?」
眉を顰める。オミウのナジャー家を早朝に発ったものの、都に差し掛かる前に日は沈みきってしまった。今はもう人々が眠りにつく時間だ。そんなに仕事が詰まっているのだろうか。
「まあいい、直接話を聞くよ。」
思いつめた顔の執事に肩をすくめ、カミルは妻の執務室へ向かった。毛足の長い絨毯が、長旅に疲れた足を優しく支える。
執務室に入ると、控えていた侍女が、「今は休まれていらっしゃいます。」と、小さく告げた。
確かに、机に妻の姿は無い。長椅子を見ると、ドレスの裾が目に入った。足音を立てないようにそっと近づく。
見れば、長椅子に横たわり眠る妻がいた。
(やつれたな。)
蠟燭の頼りない灯りでも分かるほど、目の下の隈が濃い。カミルは長椅子の背もたれに手を置き、黙って妻の細い顔を見つめた。眠っていても、眉間に皺を寄せ険しい表情のままだ。カミル程ではないが、光に透ける髪には、白いものも混じり始めている。
ふと、飾り気の無い手が何か握っていることに気付いた。覗き込み、捉えた紅色に、思わず息を止める。体重を預けた長椅子が軋んだ。
その音に眠りを覚まされ、妻が身じろぎした。薄く目を開け、夫の姿を見てため息をつく。
「……帰ったのね。どうだった。」
「アーディラ、起こしてしまいましたか。……今回は主だった街を巡りましたよ。いろいろ珍しいものを見つけました。朝になったら部屋に届けさせましょう。猪肉やら、珍しい肉にも挑戦したんです。」
「そう。」
アーディラは、そっと目を伏せた。少しいら立っているように見える。カミルは気付かないふりをした。
「孤児院の子供たちは、よい肌つやをしていましたよ。路上で暮らす子供も、とんと見かけなくなりました。査察の導入で随分不正も減ったとみえる。」
アーディラは何も答えない。カミルは長椅子を周って傍に跪くと、横たわったままの妻の手を握った。
「ちゃんと食べていますか?やせたんじゃありませんか。」
「……もう、最後の冬が来てしまった。」
消え入りそうな声だった。カミルはアーディラの手を握る力を強くした。
「貴女は、よくやっています。ただ闇雲に国中を巡る僕なんかより、ずっとあの子の命をつないでいる。」
「生きているかしら。」
アーディラの声が震えた。
「毎晩、夢に見る。あの子が泣いているの。母を求めて、泣いている。母の所為で、つらい思いをしていると、訴えかけてくるの。」
「……仕方がなかった。そうするしか無かったんでしょう。貴女の判断は、その立場を思えば、正しかった。」
「母親としても?」
涙に濡れるアーディラの目元が、蝋燭の灯りを映して光る。
「我が子の命よりも、己の役目を優先した。いくら手を打っても、嘆いても、私たちのシャリーファは帰ってこない。分かっている。本当は、川や海も探させるべきだった。それでも、そうしなかったのは、あの子の亡骸を見つけたくなかったから。可能性の高い場所を探さず、己の心を慰めることを選んで、その結果、あの子は死んでも母の腕に帰れないまま……。」
カミルは、喉に上がってくる熱をグッと堪え、妻を抱き寄せた。その豊かな明るい髪を優しく撫でる。
「シャリーファは生きていますよ。僕たちが信じないでどうするんです。……貴女は疲れている。少し休みましょう。安眠できるという香も手に入れたんだ。」
「……ありがとう。そうするわ。」
妻の体を抱え上げ、執務室に備え付けられた仮眠用の寝室へ連れて行く。寝台に痩せた体を横たえ、掌でそっとその目を覆った。
アーディラは、ひどく疲れた顔をしていた。鼻をすすりながら、おとなしく口をつぐんだ妻は、随分と幼く見える。それでも、夜が明ければ近寄りがたい威厳を纏うのだと、カミルは知っていた。
「貴女はいつも、僕に貴女を恨めと言うが、恨まれるべきは僕の方だ。貴女のことを責め立てて、責任を貴女一人に押し付けて、被害者顔で逃げ続けてきた。きっと、アーディラ、貴女への復讐だった。でも、もう止めにするよ。どうしたって、貴女を愛しているんだ。許してはもらえないだろうが、これからは、その重荷を共に背負うよ。」
アーディラの額に口づける。花の香りがした。
その香りに、胸がつまる。
春に生まれた我が子。可愛いシャリーファ。やっと歩くようになった娘の、滑らかな肌と、笑い声、乳の香り。その全てが失われてから、18回目の春が迫ろうとしていた。
傷ついたふた親は、この春をもって、娘の捜索を打ちやめる。
++++++
蝋燭の火が、大きく揺らめいた。
ラーニャは、はっとして、飛びかけていた意識をよび戻す。
(危ない……うとうとしちゃった。)
ぼうっとしながら、椅子の上で固まった体を慎重に伸ばす。今日は不寝番なのだ。エバの寝室の出入り口、そのすぐ脇に備えられた控えの場所から、厚い仕切り布をそっと捲って寝室を伺う。
主たちが目覚めている様子はない。
ラーニャは安心して、膝に掛けていた防寒用の毛布を脇においてしわの寄った衣服を整えた。
(なんだか、切ない夢を見た気がする。)
胸が締め付けられ、叫び出したい衝動があったことを覚えている。心が大きく揺さぶられるものだったのに、目覚めれば瞬く間に霧散してしまった。
残念に思いながら、新しい蝋燭に、とはいえ主に供するものとは違い、混ざり物の多い質の下がるものだが、それに短くなった蝋燭から火を移す。大人しく灯る火を眺め、ふと違和感を覚えた。
(なぜ、さっきは火があんなに大きく揺れたの?)
風もないのに。まるで、人がすぐ脇を走り抜けたみたいに。
嫌な胸騒ぎがした。
もう一度仕切り布を捲り、寝室を除く。
寝台には、平素とは違い膨らみが2つある。エバの隣で寝息を立てるのは、その夫リヤード・ナジャーだ。愛する妻が正気を取り戻したことを大いに喜び、昨晩、枕を抱えて妻の寝室にやってきたのだ。
二人は夜が更けても語り合っていた。恋人のように寄り添う老夫婦の姿は、あまりにも尊かった。
空は少し白んできたが、寝室はまだ薄暗い。ラーニャはじっと目を凝らした。
寝息に合わせて上下する膨らみは、リヤードのものだ。隣の薄い身体は…動きを見せない。掛け布団から覗く痩せた腕は、遠目にも異様に白かった。
椅子が立てた無機質な音に、自分が立ち上がっていたことを悟る。
その音に、館の主が目を覚ましたようだ。寝ぼけ眼で辺りを見回し、共寝する妻を見て、動きを止めた。
「エバ…?」
掠れた声で妻の名を呼ぶ。太い指が、エバの痩けた頬に触れた。
息を飲む音が聞こえた。
「エバ、エバ…。」
繰り返しながら、細い肩を叩き、揺さぶる。
そして、館の主の慟哭が、ラーニャの心臓を貫くように放たれた。




