20 紅薔薇王
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
翌朝、表に出ると、きんと冷えた空気が頬を撫でた。暖かな屋敷の中に戻りたい気持ちを押さえつけ、客人を振り返ると、首を縮めて白い息を吐いている。近くに寄せられた馬車の上では、御者も同じように身をすくませていた。リヤードがカミルのために手配したものだ。おそらくオミウ川の船着き場まで送るのだろう。今年は運河が凍っていないことが分かったのだ。船ならば街道を行くよりずっと速い。
「暖冬とはいえ、やはりオミウの朝は冷えますね。」
「ええ、湖にも少し氷が張っているかもしれません。」
ファイサルが頷くと、カミルは興味深そうに目を丸くした。
こういうところが随分と親しみやすく思われるが、カミルはれっきとした貴族だ。礼を失した笑みを浮かべそうになる口を引き結ぶ。
「私も、祖母が倒れるまでは都におりました。さほど遠くはないはずですが、気候の違いにはいつも驚かされます。」
「そうでしたか。本当に、地図の上ではとても近いのが、面白いところですよね。ライラ山脈を真っ直ぐ越えられれば良いものを、といつも思います。」
若輩のファイサルにも丁寧に語りかけながら、客人は都とオミウを隔てる山脈を見上げた。ファイサルも、目を細めながら山脈の中でも一際高い山に視線をやる。ラーニャと二人で訪れた際はまだ雪に覆われていなかったが、いまやすっかり白く染まっている。険しいライラ山脈を象徴するあの山は、オミウからも都からもよく見えた。
祖母はもう長くない。明日を迎えられるか分からない日が、ここ最近続いている。日を追うごとに、彼女の体からは死の臭いが滲み出していた。
山を眺めていると、脳裏をよぎるのは、ラーニャの顔だ。あの山からの帰り道、薄暗い馬車の中で、恥入るように、しかし挑発するように、笑ってみせたあの強かな瞳。
本当は、いずれ都に来ないかと誘うつもりだった。都のナジャー家で環境を整えてから、使用人として受け入れるつもりだったのだ。まさか、自分の力のみで都を目指すとは思わなかった。彼女はいつもファイサルの予想を越えてくる。
ラーニャが仕えることになっているバルセーム家は、白詰草を冠する名家だ。水仙を冠する祖母の生家ナルジス家と同じく、臣籍に下った王族を祖とする。
そうした、花付きと呼ばれる家の侍女となれるのは、家を継がない貴族の娘や、良家の娘がほとんどだ。バルセーム家に行けば、少なくとも公には、ラーニャはファイサルと対等な立場を手に入れるだろう。とんでもない立身出世だ。
思わず頬が緩む。ファイサルは、彼女の貪欲さが好きだ。本当はくだらない話でケラケラ笑う娘が、すまし顔で世を渡っていく、その強さに夢中になったのだ。
ちらりと隣に立つカミルを見る。馬車にはいつでも乗り込めるが、見送りが遅れている祖父を待っているのか、微笑みながら景色を眺めている。白髪の目立つ黒髪は、もはや灰色に近い。ファイサルの父と同じくらいの歳だろうか。
カミルのことは、貴族という他は何も知らない。祖父ですら、家名も知らないと言う。謎の多い男だが、大貴族の出である祖母が一際丁重にもてなしてきたことから、それなりの身分にあるのだろうと思われた。
(カミル様なら、平民にすぎない俺では分からないことを知っているのだろうな。)
「…あなたの祖母は、紅薔薇王の苦しい時代を生き延びた貴重な花付きです。女王のご成人を共にお祝いしたかった。奇跡を願っていますよ。心から。」
あまりにも沈痛な声音に、驚いてその顔を見つめてしまった。
紅薔薇王。女王ニスリーンの実の父であり、悲劇的な圧制を敷いた暴君だ。決起した妃が玉座を奪わなければ、ザフル王国は滅びたとすら言われている。物心ついたころには既にこの世になく、ファイサルにとっては歴史の中の人物だ。
「紅薔薇王…ひどい粛清だったとは聞き及んでおりますが、花付きまで?」
「あなたの世代はもう知らないのですね。ええ、あまりにひどいものでした。花付きの家は、紅薔薇王即位前の半分も残っていません。エバ殿は、その中で新たな時代の種を必死に育てた仲間のひとりです。ザフルの誇りですよ。」
ファイサルは姿勢を正して頷いた。祖母がそのような役目を果たしていたとは知らなかった。
「では、バルセームも共に?」
バルセームも花付きだ。ラーニャから話を聞くまで特に耳にしない名だったが、祖母と付き合いがあるということは、それなりの縁があるのだろう。
「…バルセーム。よくその名を知っていますね。ええ、バルセームも戦友です。ですが、その名はしばらくはあまり口にしないでください。今はまだ、あまりバルセームに世間の目を向けたくないのです。」
「は…カミル様たってのお望みであれば…。」
カミルの言葉には含みがある。しかし、理由を尋ねることはできなかった。祖父リヤードが慌ただしく屋敷から現れたのだ。荒い息をして頭を下げる。
「いや、申し訳ございません。お待たせ致しました。」
「とんでもない。オミウの朝を満喫させて頂きましたよ。」
恐縮する祖父と簡単に二言三言最後の挨拶を交わし、カミルはファイサルの方へ向き直り馬車へ向かった。
質問の機会を見計らっていたが、隣で祖父が頭を深く下げたのに気づき、仕方なくファイサルもそれに倣った。顔を上げたときには、既に馬車はナジャー家の門を過ぎ坂道を下り始める所だった。
祖父が、寒い寒いと悲鳴を上げて屋敷に戻っていく。
ファイサルはひとり、小さくなっていく馬車の影を見送った
ーーーーーーーーーーーーーーー
「ああ、美味しい。生き返る様だわ。」
エバの言葉に、思わず笑みが溢れる。
干した果実を水で戻し、すり潰して凍らせた氷菓子は、冬にしか口に出来ない贅沢品だ。ラーニャは侍女になって初めて口にしたが、こんなに美味しいものが存在するのかと感激したものだ。
一口、二口と氷菓子を口にするエバは、やつれているものの、その目には生気が宿っている。
ここ数日、まともな会話をすることも出来なかったが、久しぶりにエバは正気を取り戻していた。ラーニャがいつものように布で口元を湿らせて水を与えようとしたところ、「自分で飲めるわよ。」と突然声を上げたのだ。ラーニャもアミナも大いに驚き、別の侍女は大慌てでリヤードを呼びに走ってしまった。カミルの見送りを放り出して駆けつけたリヤードは、客人を放っておくとは何事かとエバに叱責され、すぐに部屋を出ていったが、誰もが隠しきれない喜びに満ちている。
「エバ、おお、夢じゃなかった。これは奇跡だ。」
大きな音を立て、突然開いた扉から現れたのは館の主だ。涙声で妻の名を呼ぶと、よたよたと寝台まで歩み寄り、膝をついた。
「心配をかけたわね、リヤード。」
「いいんだよ、エバ。ああ、こんなに嬉しいことはない。ラーニャだったかな、食事は私が摂らせるから、皆少し下がっていてくれるか。あとでギョズデだけ寄こしてくれ。」
「かしこまりました。すぐ外におりますので、何かございましたらお呼びくださいませ。」
ラーニャは微笑んで、泣き笑いの顔のリヤードに匙を渡す。夫婦の時間を邪魔する訳にはいかない。
「まあ、リヤード。侍女たちを困らせないで。」
「いいだろう、夫の特権さ。」
二人の会話を背に、他の侍女たちと簡単に片付けだけ済ませ寝室を後にする。
閉まる扉の隙間から見えたふたりは、逢瀬を楽しむ恋人のようだった。
「…素敵だね。」
扉が閉まると、ぽつりと思いが漏れる。アミナが隣で頷いた。
「お二人の駆け落ちは有名だけど、いまもこれほど仲睦まじいなんてね。ほんと、運命の相手なのね。」
大貴族ナルジス家のご令嬢と、駆け出しの商人の逃避行を、オミウで知らぬ人はいないだろう。3番目の子であったため家を継ぐ立場でこそなかったものの、ゆくゆくは官職につかせるつもりで教育を施された貴族が、愛のために地位も未来も捨てたのだ。しかもそれがきっかけとなってオミウを代表するナジャー商会が生まれたのだから、なおのことだ。
エバの両親は大層怒り、数年ほど絶縁状態になったが、ナジャー商会が軌道に乗り始め、エバが孫の顔を見せに戻ると、態度を一変させたと聞いている。今やナルジス家はナジャー商会の強い後ろ盾だ。
「アミナ、ちょっと家政婦長を探してくるね。」
「分かった。頼んだわ。」
リヤードの命令に従うべく、侍女の控えの間を出る。とはいえ、あてがある訳ではない。ひとまずキョロキョロあたりを見まわしながら家政婦長の執務室の方へ足を向けてみる。
(お、あれは…。)
「マリアム、サナ!」
「あ、ラーニャ!」
声を掛けると、窓を拭いていた二人がこちらを振り向いた。ラーニャは片手を軽く上げて歩み寄る。
「ねえ、家政婦長がどこにいるか知らない?」
「知らないなあ。さっきファイサル様からも同じこと聞かれた。執務室にはいないみたいだよ。」
マリアムが、しゃがんで雑巾を桶に浸しながら首を横に振った。明るい後れ毛がふわりと揺れる。
昨晩にサナから聞いた話を意識してしまうが、特に変わった様子は感じ取れない。マリアムの両親については、ラーニャやサナですらおいそれとは話題にしづらい。二人にできることは、しばらくは見守ることだけだ。
「ファイサル様が?」
「家政婦長は知らないけど、ファイサル様なら、さっき下の庭を通ってたよ。」
サナが窓の下を指した。覗いてみるが、さすがに姿は無い。
「ありがとう、1階に下りてみるね。もし家政婦長とファイサル様を見かけたら、奥様のもとへ行くように伝えて!」
「はいよ~。」
ラーニャは二人の気の抜けた返事に手を振り、足早に階下を目指した。
(どこにいるんだろう。)
応接間にも、食堂にも家政婦長の姿は無い。行き違いになったのだろうか。
ふと、男の声が耳に届いた。ファイサルの声だ。どうやら空き部屋からの様だ。
近づいてみると、扉の向こうからくぐもった家政婦長の声も聞こえる。
「お祖母様はもう会話ができないし、お祖父様も貴族のことには疎い。ギョズデさんにしか聞けないのですよ。」
「そう言われましても、大したことは存じませんよ。アスアド陛下の御代が始まる前に、私は社交界を離れたのですから。」
これは聞いていて良い話なのだろうか。リヤードが家政婦長を呼んでいるのだから、気にせず声をかければ良いのだが、何やら重要そうな話をしている。
「アスアド…ああ、紅薔薇王ですね。かの王は一体なぜ粛清などなさったんです?」
「さあ。ただ、お心を病んでいらっしゃったとか。占い師や一部の者の甘言にのみ耳を傾け、多くの者が処刑や投獄の憂き目にあった。紅薔薇の粛清と呼ばれるものです。そして、これ以上は見過ごせぬと、妹君であり、后であらせられたアスラール陛下が玉座につかれたのです。」
(そうなんだ…。)
へえ、と思いながら身をひそめる。現在のニスリーン女王の父母はどちらも国王だったとは知っていたが、そういう事情だったとは。
「粛清を受けた家は、今はどうなってるんですか?」
「さあ、そこまでは。アスラール陛下が名誉の回復を試み、一部の家は元の官職や領地を取り戻したとは聞いておりますが、早逝されましたので。ニスリーン陛下は母君の政策を引き継がれたようでございますから、きっと手は打たれているのでは?」
「なるほど…。ありがとうございます。自分でも調べてみます。」
どうやら一区切りついたようだ。声を掛けるなら今だろう。扉を叩こうと手を上げたそのとき、扉が開いた。眼前に飛び込んできたファイサルの顔に、「ひっ!」と声が漏れる。
「おっと…。悪い、驚かせたな。にしてもその悲鳴は傷つくぜ。」
ファイサルも一瞬目を見張ったが、ラーニャの固まった表情を見るとすぐに口元をにやけさせた。
不貞腐れた顔を浮かべそうになるが、家政婦長の前だ。素の自分をぐっと抑えて侍女の仮面をかぶる。
「大変失礼いたしました。家政婦長を探しておりまして、お声がしたものですから。」
「私を?」
ファイサルの後ろで、家政婦長が怪訝な声を出す。
ラーニャは背筋を伸ばして頷いた。
「はい。旦那様が奥様の寝室にお呼びです。奥様が、我を取り戻されました。」
「まあ!!!」
家政婦長が声をひっくり返して叫んだ。そのまま、ファイサルを軽く押しのけて小走りで部屋を飛び出していく。
「か、家政婦長?!」
咄嗟に声をかけるも、あっという間に廊下の角を曲がって見えなくなってしまった。
呆然としていると、ファイサルがくつくつと笑った。
「あんなに取り乱したギョズデさんは初めて見たな。」
「驚きました…。ちょっと!」
腰にファイサルの手が回り、そのままエスコートするかのように軽く抱き寄せられた。咄嗟に顔を上げると、いたずらが成功した子供のような顔をしている。
「よし、お祖母様に会いに行くか!」
何でもないように爽やかに笑うのが、格好良くて憎たらしい。ラーニャは、ファイサルの触れた場所に甘い痺れを感じながら、身を翻して距離をとった。さっと周りに視線を走らせ、誰もいないことを確認する。
「誰かに見られたらどうするんですか!」
「悪い悪い。ほら、行こうぜ。」
小声で抗議すると、ファイサルはラーニャの赤い顔を見て、愉快そうに目を細めた。
それが悔しくて、ふん、と顔を逸らせて歩き出す。後ろに続くファイサルが笑っているのが分かり、腹立たしい。なんて祖母不孝なやつだろう。ファイサルは横に並んでラーニャの横顔を覗き込んできた。
「そんなに毛を逆立てたって、そのかわいいほっぺじゃ形なしだぜ。」
「これは怒って赤くなってるの!」
「そうなのか?ごめん、もう二度としないよ。」
わざとらしく悲しそうに謝るファイサルに、ラーニャは、ぐぬぬ、と声を詰まらせた。別に、時と場所を選んでくれさえすれば、嫌な訳ではないのだ。これくらいなら、恋人の距離というわけでもない。
「…人が来そうな所じゃなかったら、怒らない…。」
「うっ…。」
ファイサルはひとつ呻くと、胸を押さえて天を仰いだ。
「なんてこった…。20年生きてきて初めての衝動だ…。」
よくわからないが、勝った気がする。少し留飲が下がり、ラーニャはファイサルの背を軽くはたいてから、満足した気持ちで再び模範的な侍女の仮面を被った。




