2 冬の終わり(1)
険しい山々に囲まれた広い盆地に作られたオミウは、豊かな山と湖の恵みを受け発展した街だ。リヤード・ナジャーを代表する多くの大商人を輩出し、かつてない隆盛を見せている。
ファラウラ院は、その恵みからこぼれた人の受け皿として設立された施設だ。ちょうど設立と同時期に、孤児や貧しい子供を支援する政策がとられた関係から、孤児院との名目にはなっているが、貧しい家庭の子や、家族の暴力から逃れてきた母子など、様々な人が暮らす救済施設でもある。ラーニャとサナ、マリアムは、そこで子供時代を過ごし、成人の18歳を迎えた。とは言え、ラーニャが本当に18かは分からない。ラーニャは、多くの他の子供達とは違い、親を知らない。孤児院にやってきたとき、4歳に見えたから今18なのだ。
「ラーニャ、あなたはもう成人。来月からはこの院を出て、サナとマリアムと共にナジャー家でお勤めすることになるわ。しっかり励むのよ。」
「はい、院長先生。」
誕生日の分からない子供は、冬が明けると揃って年を取る。お祝いの準備に皆が慌ただしく取り組む中、ラーニャは一人院長室に呼ばれた。
院長は、一冊の古びたノートに手を置いて言った。
「ここに、私が知っているあなたの過去が書いてあるわ。18になった子には、これを伝えることにしているの。聞きたいかしら。」
ラーニャは息を飲む。
「はい、院長先生。聞かせて。ずっとこの日を待ってたの。」
ラーニャは声を上擦らせ、前のめりに院長の顔を見つめた。
院長は、皺の刻まれた顔をわずかに曇らせた。その表情だけで、ラーニャは、今までの自分の推測は正しいのだろうと悟った。悟ったが、それでも聞きたかった。
院長は不器用な性格の女性だった。子供よりも、保護された女性の世話をすることに熱心で、彼女が子供たちと関わるのは食事の時間くらいであった。本当は子供が苦手だったのだろう。それでも、彼女は子供を冷遇はしなかった。食事も遊びの時間も十分に与え、愛せない分、実直に子供達を守り育てた。そして、何故孤児院に来ることになったのか、親兄弟はいるのか、保護されたときはどのような状態だったのか、全員の境遇を丁寧に記録していた。その全ては、子供たちが卒院の目安となる18歳の成人を迎えると、院長室に呼ばれ明かされる。
ラーニャには院に来るまでの記憶が無い。いくら周りの大人に話をせがんでも、成人まで我慢しろと口を酸っぱくして言われてきた。
隠される程、真実が知りたくなるものだ。ただ、自分はサナともマリアムとも違うのだと、物心ついた頃にはすでに察していた。ラーニャだけ、本当の年齢も、誕生日も分からない。思い出の品も無い。ラーニャと同じく、親の顔を知らないサナには誕生日があるのに、なぜ自分は、春に年を取ったことになるのか。その答えにたどり着けないほど、夢見がちではなかった。
「私は捨て子なんだとは分かってるの、院長先生。大丈夫だから、どうか教えてください。私には、私の手がかりが何もないの。」
院長は一つ頷き、古びた冊子を開いた。皺の刻まれた指がページをめくり、ある場所で動きを止める。
「あなたは、14年前にここへやってきた。少し小柄だったけど、4歳だったサナと同じくらいの発達に見えたわ。連れてきたのは初老の男性で、山で狩人をしていると言っていた。」
「狩人‥。」
初めての情報だ。父親だろうか、祖父だろうか。
「ええ、でもあなたの親類ではない。冬、山の獣道を行く途中に、あなたを見つけ、連れ帰った。そう言っていた。その後は2年ほど育てたけど、あなたの世話をしていた彼の母親が死に、面倒を見切れなくなって、うちに預けることにしたと。」
院長室に沈黙が落ちた。
やっと、家族が分かったと思ったのに。ラーニャは、手繰り寄せた釣り糸が切れてしまったような喪失感に襲われる。
それだけではない、頭の中で院長の言葉を反芻し、耐えがたい事実に気づいてしまった。
「冬の山…子供が、一人で?」
絞り出した声は震えていた。
「そう言っていたわ。」
「ほかに…ほかに何かないの。私は結局、誰の子なの?どうして、そんな。」
院長はしばらく言葉を探していたが、やがて真剣な目でラーニャを見つめて、口を開いた。
「分からないわ。でも、ラーニャ。惨いことを言うようだけど、幼子が一人で人里離れた雪山にいるなんて、大人が連れて行かないとありえない。そして、あなたが生きられたのは幸運が重なった結果でしかないの。」
こらえ切れなかった涙が、うつむくラーニャの頬を伝った。
ラーニャがナジャー家を訪れる、ほんの数日前の出来事だった。