18 客人
その男は大きく息を吐くと、馬の手綱を引いて眼下のオミウ湖を一望した。春に見たオミウ湖も美しかったが、冬は雪山を湖面に映して鏡の様に美しい。
冬が深まる前にオミウまで戻って来れたのは幸いだった。街道を急げば、1日で都までたどり着けるだろう。
帰りが遅いと眉を吊り上げる姪と、妻の顔が脳裏に浮かぶ。ごめんよ、と心の中で詫びをした。気を取り直して、大きく伸びをする。冬の冷たい空気が、馬の背で疲れた体に心地よく染み渡る。まだ若い頃は長旅も平気だったが、ここ数年はさすがに堪える。
「うん、気持ちの良い日ですね。ナジャー家も見えてきた。」
付き人が護衛の1人に先に行くよう指示するのを尻目に、馬の横腹を軽く蹴る。再び坂道を上り始めた男は、今度は坂の上に住む長年の恩人に思いを馳せる。
「エバ殿は息災でしょうか。春にお会いしたときは、伏せがちでしたが。」
「カミル様、あまり期待はせぬ方が宜しいかと。あのお年です。」
生真面目な付き人の返事はつれない。
男――カミルは悲しげに眉を下げ、馬を進めた。
今年の冬は暖かいとは言え、流石に湖から吹き上がる風は冷たい。
首元を竦ませながら、薄く雪に覆われた坂道を上っていくと、立派な門が姿を現した。既に話が通っているのだろう、護衛の目配せに頷き、門番は丁重にカミルを迎えた。
すぐに暖められた応接間に通され、一息つく。
淹れたての茶に体が芯から温まっていくのを感じながら、顔なじみの家政婦長に笑いかけた。
「春にお会いして以来ですね、ギョズデ殿。」
「ご無沙汰いたしました、カミル様。」
優雅に微笑むギョズデは、商家の使用人にしておくには惜しい美しい所作で腰を折る。それもそのはずだ、元は大貴族ナルジス家に仕えた貴族の子女なのだから。平民と駆け落ちし行方知れずになった主がオミウで子を産んだと聞き、なりふり構わず駆け付けた忠臣が彼女だ。元は侍女として傍近く仕えていたが、ナジャー家が大きくなってからは、商いや社交に忙しいエバに代わり、家政婦長として家内の采配を振るってきた。
いつだって一分の隙もない完璧な佇まいの彼女だが、今日は少し疲れた様に見える。簡単に世間話を少ししてから、本題に入った。
「それで、エバ殿のご容態は。」
慎重に尋ねると、ギョズデの表情が曇った。
「…芳しくございません。特にここ数日、夢うつつの堺を彷徨っておいでです。」
「そうでしたか…。それは、あなたも辛いでしょう。」
カミルは唇を結び、目を伏せた。
(ついにかの人が世を去るのか…。)
物思いに沈んでいると、応接間の外から男の足音が近づいてきた。館の主だろう。
「お待たせして申し訳ございません、カミル様。」
部屋に入るなり、慌てた様子で頭を下げたのは、予想した通りの人物と見慣れない青年だった。カミルは立ち上がり、まずは老人と握手を交わす。背後の付き人が不満げな気配を漂わせたが、気にしない。
「とんでもないことです、リヤード殿。ちょうど身もほぐれたところです。こちらこそ、突然の訪問で申し訳ありません。」
リヤードに促され再び肘掛け椅子に腰を下ろすと、対面の椅子にリヤードと青年も掛けた。
「孫のファイサルはお目見えしたことがございましょうか。都の子らに代わり、妻の様子を見させております。」
「ファイサルと申します。」
人好きのしそうな顔立ちの青年は、焦げ茶色の瞳を細めて微笑んだ。しなやかな身のこなしから、随分と鍛えている印象を受ける。
簡単に挨拶を済ませると、リヤードが人当たりの良い笑みを浮かべて茶を口に運んだ。
「カミル様は、東からのお帰りでございますか?」
カミルは頷いた。
「ええ、春に出発して、ようやく戻って来れました。思ったよりも雪が深くありませんね、今年は。例年通りの気候でしたら、オミウは迂回するところでした。」
「ああ、左様でございましたか。それは巡りあわせでございましょうか。」
リヤードは力の無い声で言った。口元に浮かべた笑みも、淋し気だ。
(…老けたな。)
春に会ったときよりも、白髪が増えた。顔色もくすんだようだ。春はまだ、商人王と称されるにふさわしい覇気の持ち主であったと記憶している。
「…エバ殿に、お会いすることは出来るでしょうか。」
「…妻は、まともに話が出来る状態ではございません。」
「それでも良いのです。一言、長年のお礼を言わせていただきたいだけですので。」
「…それでしたら、ご案内いたしましょう。」
リヤードは、強張った顔で、唇の端を歪めた。
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女主人の寝室につくと、話し声が耳に届いた。エバは目覚めているようだ。
見ると、何やら憤った様子で話す言葉を、若い侍女が書き留めている。
リヤードが穏やかに声を掛けた。
「エバ、何やら盛り上がっているね。何をしているんだい。」
夫の言葉に、寝台に横たわったままエバが答える。
「倉庫に預けた数が、仕入れた数と合わないのよ。もう我慢ならないわ。わたくしを小娘だと侮って、碌な説明もしやしないんだもの。直接見に行くから首を洗って待っていなさいって、ギョズデに手紙を書いてもらっているの。」
カミルは己の背後に控えるギョズデ家政婦長をちらりと見やった。平静を装う彼女の目元は赤い。
エバは傍らの若い侍女をこの家政婦長の名で呼んでいる。おそらく、もはや人の区別がまともにつかないのだろう。話しぶりからして、若いころの記憶を生きているようにも思われた。
「そうか、それは大事件だ。忙しいところ悪いんだけど、君にお客様だ。少しいいかな。」
「本当に、嫌になるわ。ねえ、ギョズデ。」
エバは話を聞いていないかのようだ。戸惑ってリヤードを見ると、悲し気に眉を下げている。
(夢うつつとは、こういうことだったのか。)
リヤードに促されて、エバの近くに寄る。先ほどまで手紙を書き留めていた侍女が差し出した椅子に腰かけた。エバと距離が近くなり、強い薬の匂いが鼻をつく。
エバは、病床にあっても美しく整えられていた。髪も、指先も、丁寧に手入れが施されている。侍女たちから大切に思われているのだろう。それだけに、枯れ木のように痩せこけた腕が哀れだった。
「エバ殿、お久しぶりです。カミルです。」
そっと微笑んで語り掛ける。しかし、エバの瞳にカミルは映っていない。カミルは構わず言葉を続けた。
「あなたには随分と世話になりました。…世界が変わったあの日から、ただ当てもなく走り回る私を諭し、知恵を授けてくださいましたね。あなたのおかげで、私は正気を保つことが出来た…。」
エバは、今度は先ほどまでとは打って変わり、虚空を見つめて微笑んでいる。
「あの可愛らしい花はここに咲いていたのよ。」
脈絡のない言葉。カミルは胸をしめつける痛みを、ぐっと抑え込んだ。
「エバ殿、この十余年、国中を回りました。あれほど溢れていた浮浪児は、もう見かけません。貧しい家庭にも、支援が行き渡るようになりました。あなたの知恵あってこそです。あなたは多くの命を救いました…。この御恩は、生涯忘れません。」
カミルは深く頭を下げた。
エバの返事はなかった。
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「あれほど、病状が悪化しているとは知りませんでした。手紙は変わりなく届いていたので。」
オミウ名物の魚料理を飲み込み、カミルが呟くと、リヤードはおもむろに酒をあおった。
ふう、と息を吐き、手元を見る。
「良い字を書く侍女が入りましてな。代筆をさせておるのです。起き上がれなくなっても、今の様になるまでは日々手紙をしたためることができました。」
「そういう事情だったのですね。お恥ずかしながら、全く気が付きませんでした。」
言われてみると、先ほども若い侍女に手紙を書かせようとしていた。美意識の高いエバに代筆を任されるとは、よほど良い教育を受けた娘なのだろう。
晩餐に同席しているファイサルが、カミルの視界の隅で物言いたげに祖父を見やる。ファイサルは礼儀正しく控えているが、表情や仕草から、平素は口達者な若者なのだろうと思われた。
「無理もございません。あれは、妻の字をそっくりそのまま真似ることが出来るのです。私も重宝しております。…話は変わりますが、カミル様は孤児や貧困家庭の救済に熱心に取り組まれているとか。」
「ええ、その件ではよくエバ殿にお知恵をお借りしていました。」
「実は、代筆をさせていた侍女が、救済政策を受けて雇い入れた孤児なのでございます。もしご興味がお有りでしたら、呼んでみましょうか?」
驚いた。まさか孤児でそのような教養を身につけているとは。
「ええ、是非お願いします。」
快諾すると、控えていた女中が部屋を辞していった。きっと例の侍女を呼びに行ったのだろう。
しばらくリヤードと、その孫息子との食事を楽しんでいると、やがて一人の娘が現れた。家政婦長の部下なだけあって、美しい所作で腰を折る。
丁寧にまとめられた暗色の髪と、落ち着いた佇まいで騙されそうになるが、顔立ちを見ると、思っていたより随分と年若い娘だった。都でカミルの帰りを待つ姪とさほど変わらないと見え、親しみを覚える。
「お呼びでございましょうか。」
「ああ、よく来た、ラーニャ。お客様が孤児についてご興味をお持ちでな。」
「わざわざ来てくれてありがとうございます。お仕事中すみません。」
謝ると、ラーニャと呼ばれた娘はカミルへ遠慮がちに視線を向け、戸惑った様に瞳を揺らした。
「私は、孤児がどのように暮らしているか興味がありましてね。困っていることや、助かっていることを教えて貰いたいんです。こうだったら良いのに、とかね。突然で驚いているでしょうが。」
微笑むと、ラーニャは何やら腑に落ちた様だった。とはいえ、厳しい教育を受けていると見え、表情はさほど変わらない。
こういう折、人の感情の機微に敏感になってしまった己に気付かされる。
「では、恐れながら申し上げます。私は、オミウ湖の畔にあるファラウラ孤児院で育ちました。慈悲深きニスリーン女王陛下の政策により設立された孤児院でございます。」
カミルは、おお、と声を上げた。
「そこには行ったことがあります。そうか、君はそこの出身だったのですね。春に行きましたが、君はもう卒院していたのでしょうね。」
「いえ…。実は、お客様にお会い致しました。覚えていらっしゃらないとは存じますが、湖畔でお声をお掛け頂きまして…。まだナジャー家に上がる前であったとはいえ、礼儀を知らぬ振る舞いを致しました。お詫び致します。」
「湖畔…。ああ!あの時の!立派になって。」
カミルは破顔した。春先に、湖畔で泣いている少女を、世を儚んで身投げしようとしているのではないかと勘違いしたことを思い出した。あのときの笑顔の眩しい快活な少女が、目の前の卒なく振る舞う侍女だとは結び付かなかった。はじめにカミルの顔を見て戸惑った素振りを見せたのはそういうことだったのか。
「不思議な縁もあったものですね、ラーニャさん。申し遅れましたが、私はカミルという者です。遠慮は要りませんから、是非孤児院での暮らしを教えてください。」
ラーニャを安心させるように微笑むと、彼女も恐る恐る笑みを返してくれたのだった。




