17 貴婦人
朝の屋敷の片隅で、食器が擦れ合う高い音と、使用人たちの慌ただしい足音が響き始めた。ラーニャは馴染みの料理人から主の朝食を受け取り、慎重に運び始める。階段を上り、給仕用のワゴンに乗せ一息ついた。
「おはよう、ラーニャ。休み明けから早番なんてついてないわね」
「おはよう、アミナ。それはいいの。それより…ねえ、馬車にファイサル様を寄越したの、アミナの仕業でしょ」
ワゴンを押しながら軽く睨むと、侍女仲間はラーニャに手を貸しながら楽しそうに笑った。
「ばれた?でもね、主犯は奥様よ」
「馬鹿な事言わないでよ」
一蹴すると、アミナは少しだけむきになった様子で上品な顔をこちらに向ける。育ちの良い人は、怒った様子も品がある。
「信じていないでしょう!本当なんだから。病床にあっても、かのエバ・ナルジスを甘く見てはいけないわ。奥様に言われて、私も気付いたのよ。」
「ちょっと待って。嘘でしょ…?」
アミナの言葉はつまり、エバがラーニャとファイサルの関係に感づいているということだ。
ラーニャは顔を蒼白にした。てっきりアミナが上手くエバを動かしたのだと思っていたのだ。それならまだ良かったが、エバが察しているとなると話は別だ。主家の人間との恋愛沙汰など、解雇されて当然なのだ。目に見えて慌てるラーニャに、アミナはしてやったりと得意気に胸を張った。
「ラーニャは上手く隠していたけど、ファイサル様はだめね。奥様はファイサル様が火遊びの相手を探しているなら止めようとなさっていらしたけど、二人の様子を見て違うようだと見守ってくださってるのよ。それで、何か進展はあった?」
ラーニャは最早言葉もない。嫌な汗が手に滲んできた。
(後押し?どういうこと?貴族の血を引く孫と、侍女とはいえ、たかが孤児との関係を認めるということ?そんなことある訳ない…。)
期待しては駄目だ。どうやらすぐ解雇されることはなさそうだと安心はしながら、指先に視線を落とす。侍女になってから落ち着いたものの、孤児院時代からの雑用や水仕事で荒れた、節の目立つ指だ。凄まじい数の代筆をこなしたため、ペンだこも出来ている。良家の娘であるアミナの柔い手とは大違いだ。
「孤児じゃ釣り合わないでしょ…後押しって言ったって…。」
あら、とアミナは眉を上げた。
「こういうことになると察しが悪いのね。なんのために奥様がラーニャを都に行かせると思うの。全部二人の未来を思ってのことよ。」
「待って、どういうことなの?そんなに前からご存知だったということ?!」
「詳しくは奥様にお聞きなさいな。」
アミナは歌うように言い、片目をつぶってみせた。
***
エバの骨ばった体を支え起こし、朝食を取れる体勢に変える。エバの体から漂うのは、鼻をつく薬の匂いだ。侍女に取り立ててもらった頃は、病床にあってもかぐわしい水仙の香りの方が勝っていたが、もはや身に染み付いた薬の匂いを隠せていない。
「もうお腹がいっぱいだわ。下げて頂戴。」
「もう一口だけ召し上がりませんか?」
ほんの数口だけ食べて、エバはすぐに食事を止めようとしてしまう。ここ最近は、なんとか栄養を摂ってもらうことに侍女一同執心していた。
「奥様、もう一口召し上がれば、ラーニャの恋についてきっと話してくれますわ。」
「あら、本当?」
アミナの言葉を聞いたエバの瞳に、わずかに活力が戻った。
ラーニャの視線を意にも介さず、アミナがすかさず頷ぐ。
「ええ、もちろん。そうよね、ラーニャ?」
「そ、そんな、ええと、奥様にお話できるようなものでは…。」
「そう?じゃあ朝食は終わりにするわ。」
エバがすました顔で「ごちそうさま。」と言うので、ラーニャはうめき声をあげた。
「かしこまりました、お話し致します…。ですからもう一口…。」
ラーニャがしぶしぶ了承すると、エバも何とか口を開け、食事を飲み込んでくれた。背に腹は代えられない。アミナにも聞かれていることを気まずく思いながら、覚悟を決めて口を開く。下手なことを言わないよう、注意深く言葉を選ばなければ。
「…好いた方がおります。身の程知らずな想いではありますが。」
「まあ素敵!良いわね、若いって。でも、身の程知らずとはどういうこと?なぜそう思うの?」
エバが優美な笑みを浮かべてラーニャを見る。いつもと変わりないはずだが、不思議と今日は探るような眼差しに思えてしまう。ラーニャはもぞもぞと尻の位置を直した。
「それは…私は身寄りがない孤児で、相手は立派は家の方ですから。」
アミナが正しければ、エバは、ラーニャの言う相手がファイサルだとは分かっているはずだ。ラーニャは敢えてこうして尋ねてくるエバの意図をはかりかねていた。
(まさか本当に、私たちの関係を応援してくださってる訳じゃあるまいし…。)
反対するなら、傷の浅いうちにして欲しい。
そんな諦めきった胸中を知ってか知らずか、エバは優しい目でラーニャを見た。
「ラーニャ、わたくしは貴族だけれど、夫に平民を選んだ女よ。それも、あの頃のリヤードは独立したばかりで、使用人すらいやしなかった。」
それでも彼と添い遂げたかったの。
そう言って眉を下げてはにかむ主は、少女のように愛らしい。そのまま、すっと視線をラーニャに戻し、深い知恵の宿る双眸に、優しい光を湛えて微笑んだ。
「ラーニャ、恋の前に立場なんて無価値よ。何も気にする必要はないわ。ましてやお前の相手はただの平民。欲しいなら、勝ち取りなさい。」
ラーニャは呆然とエバの瞳を見返した。
「奥様…。」
囁くと、エバは優しく頷く。
「都は良いところよ。多くの刺激があるでしょう。精進なさい。」
アミナの言葉通り、ラーニャとファイサルの関係を知った上での人事だったのだと悟った。
「奥様、私は確かに都に行きたいと思っておりました。バルセーム家のお話を伺って、是非にと申し出たのは私です。ですが、私でよろしいのですか?この様な不純な思いで都を望む私より、適任がいるのではありませんか?」
バルセーム家は、ラーニャが都で仕えることになっている貴族だ。臣籍に下った王族を祖とする由緒ある家と聞く。その家が、女王の成人に際し新たに侍女を探しているとエバに聞いたのはふた月ほど前のことだ。既にファイサルへの恋心を自覚していたラーニャは、そばにいたい一心で志願したのだ。
結果としてすぐにラーニャの要望は通ったが、ナジャー家自体は、女主人が貴族ではあれど平民の家。貴族の家で身を立てたいと思う侍女は他にもいたのではないだろうか。ラーニャの恋のために他の人の未来が断たれてしまうのは本意ではない。
「安心おし、お前は適任よ。知っての通り、アミナも他の侍女たちも、オミウの人間。昔からの侍女はオミウに夫や子がいるし、若い侍女も戻るべき家があるわ。わたくしの侍女として恥ずべきところが無く、しがらみも少ない、ラーニャが良いと思ったのよ。振る舞いも、知識も、心構えも、貴族の家に仕えるにもう充分なものだわ。ギョズデからもあなたの努力は聞いています。若者の恋を応援するだけの理由で、わたくしは動かなくてよ。」
わたくしは一石二鳥を狙う人間なのよ、とエバは笑った。
「しかし…。」
なお言い募ろうとするラーニャを、エバが微笑んで制する。エバの意を汲んだアミナが、ラーニャの背をトンと叩いた。
「奥様がお元気になるまで、ビシバシ鍛えるからね、心しておきなさい、ラーニャ。」
ぐだぐだ言うのはやめろ、決定事項だと、アミナの手は告げていた。ラーニャは、はっとして体の力を抜く。
ラーニャがバルセーム家に行くのは、エバの体が復調してから…そういう建前になっている。
しかし、この場の誰も、その言葉を信じてはいない。エバはこの冬を越えられないだろう。死の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。エバが死んだら、ラーニャは都へ行く。要はそういう契約なのだ。これ以上食い下がっては、エバの最後の心配りを台無しにすることになる。
「…はい。奥様の名に恥じぬ様、精進致します。」
ラーニャが力なく笑みを作ると、貴婦人はたいそう美しく笑った。




