16 馬車
薄暗くなってきた馬車の中で、ラーニャはヤザンが持たせてくれた例の肌着を膝に広げた。
「こうした物が見つかるなんて、思っても見ませんでした。」
手の込んだ小さな肌着。隅に施された花の刺繍に、ラーニャは優しく指を添えた。
「よかったな。ヤザンさんも良い人だった。」
「はい。本当に。」
微笑みながら肌着を見つめ、丁寧に畳んで鞄に戻す。
そのまましばらく馬車の揺れに身をまかせてから、ラーニャは口を開いた。
「何故、私は血まみれだったんでしょうね。」
ヤザンに問いただしても、結局核心に迫るような情報は得られなかった。
「もっと単純な話だと思っていました。木の根元に捨てられていたとか、そういう類の。」
血だなんて言われてしまうと、希望をもってしまう。
「…ラーニャは、捨て子じゃないのかもしれないな。」
胸の内を読んだかのような言葉に、ラーニャは顔を上げた。
「まあ、それはあくまで憶測に過ぎない。分かっていることは、ラーニャは、子の肌着に刺繍を施してくれるような人の元で産まれたということ。」
ファイサルは、真っ直ぐにラーニャを見つめて続けた。
「服が血塗れになる状態になっても、自分の服をラーニャに与えて寒さから守ってくれる人がいたこと。」
あとは何だっけ、とファイサルは首を傾げた。
その様子がなんだか幼く見え、つい微笑んだ。
「私は、まだ18歳ではないかもれしないということも。」
「そうなのか?」
ファイサルがきょとんと目を丸くした。
「はい。ヤザンさんはきっと、小さい子供が身近にいないから分からなかったんですね。この肌着は、2歳の子が着るには小さすぎます。成長に個人差はありますが、歯も生えそろっていなかったようですし。他にいくつか聞きましたが、保護された時の私は2歳にはなっていなかったのではないかと。きっと1歳になったばかりだったんじゃないですかね。」
「そうなのか。それは大発見だな。」
ファイサルが顔をほころばせた。ファイサルがラーニャのために本心で喜んでくれていると伝わってくることが嬉しかった。
(ファイサル様の、こういうところが好きなんだ。)
大仕事を終えた安心感からか、思い出したようにファイサルへの感情が胸の奥から沸きあがる。
「あと、そうか。ラーニャの名前だ。」
ファイサルがつぶやいた。ああ、とラーニャも頷く。
「そうですね。薄々分かっていたことではありますから、驚きはしませんが。」
ただ、と目を伏せる。
「せっかくファイサル様に呼んでもらえているのに、本当の名前じゃないのは淋しいですね。」
落とした目線の先、ファイサルの膝の上に置かれた骨ばった手が、ぎゅっと握りしめられた。そっとファイサルの顔を窺うと、なんだか情けない顔をして窓の外を見ている。
「…本当に、ラーニャって名前かもしれないだろ。」
平素の朗々とした声とは違う、絞り出したような声が耳に届いた。
何故だろうか。妙に、胸がしめつけられるような気持になる。
「分からないってことは、どの名前も君のものかもしれないってことだ。だから…淋しくないし、俺はこれからも君の名前を呼ぶよ。」
「…はい。」
なんて気障なことを言うんだろう。そう思いながら、からかっている様子でもないファイサルには、いつものように澄まして答えることができない。きょろきょろ目を動かしていたら、穏やかな視線と交わってしまった。
咄嗟にうつむく。自分の顔に熱が集まるのを感じた。腹の底で何かがくすぶり始める。
「…ラーニャ、俺はきっと、春には都に戻る。しばらくはオミウには来れないだろう。」
ファイサルは、さっきまでと違い、少し躊躇いがちに言葉を選んでいる。
ラーニャは息を止めて耳を傾けた。
「だから…その…手紙を書くよ。ラーニャ宛に手紙を書く。」
不器用そうに手を組み直すその様子。ラーニャは、止めていた息を細く吐いた。
お互いの心中を察しながら手を伸ばし切れないこの距離が、いつも心地よかったはずなのに。今日はなぜだかもどかしい。
「ありがとうございます。」
控えめに微笑んでから、少しいたずら心が芽生えた。
(伝えるには、いい機会かもしれない。)
わざと視線をそらし、困ったように眉を下げて見せる。
「でも、別に手紙は無くても。紙代もオミウと違って高いと聞きます。」
「紙代なんて!その…やっぱり困るかな。変に噂を立てられるかもしれないし…。」
焦った様子で視線を動かすファイサルの顔を、わくわくした気持ちを抑えてそっと窺う。不安そうな彼の焦げ茶の瞳は、薄暗い馬車の中では黒く光っている。
「じゃあ、ファイサル様が出してくださいます?私の都での紙代。でも、手紙より、直接お話しする方がいいんですけど。」
「…ん??」
耐えきれず、にやりと口角が上がる。
ぽかんと呆気にとられた顔に、してやったり!と胸が踊った。
「ラーニャの都での紙代??」
「はい。オミウの紙、都では高いって言うじゃないですか。紙はタダ同然なのが身に染み付いちゃってるので、ちょっと嫌なんですよね。」
「待て待て待て。ん?俺の勘違いじゃないよな?つまり、ラーニャ、その、来るのか?君が、都に?」
「はい!」
「待ってくれ!聞いてないぞ!都の店に来るってことだよな?!」
「違います!」
「違うのか?!」
ファイサルが目に見えて動揺するのが楽しくて、我慢しきれず声が大きくなる。終いにはケラケラ笑ってしまった。御者にも聞こえてしまっているかもしれない。
(だめだめ、まだ、侍女らしくいなくっちゃ!)
とは思うが、抑えようと思って抑えられるものでもない。
ニヤニヤしながらファイサルに正解を告げる。
「ナジャー家を出るんです。奥様にご紹介いただいて、お貴族様にお仕えすることになりました。今は家政婦長に色々教えていただいているんですよ。」
「貴族…。やられた…ははっ。」
ファイサルが脱力した様子で天を仰ぐ。ラーニャは、今のうちに、と畳みかけた。
「私が行くまでに、都の流行りのお店、たくさん調べておいてください。」
「…努力するよ…。で、どこの家だ?お祖母様の紹介なら変なことじゃないはずだが、万が一ってこともある…。住むところは?侍女として行くのか?だとしたら大出世だな…。いつから行くんだ?どうやって?一人旅はよくない、なんなら俺が連れ立つから…」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着きましょう!説明しますから!」
衝撃を飲み込むや否や、今度は前のめりになって矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。突然の変わりように、ラーニャは顔を引きつらせてのけぞった。
ファイサルが次に口を開く前に、慌てて詳細も説明する。
バルセームという貴族の姫君が侍女の紹介をエバに求めてきたこと、親や子もいないラーニャが最も身軽で都合がよかったこと、都に行くのは早くても春ごろで、都の屋敷に住み込みで働くこと…説明の合間に鋭く挟まれるファイサルの質問に対応しながら、なんとか説明し終えたときには、すでにナジャー家の館が目前に迫っていたのだった。




