13 休み
窓が強い北風を受けている。その窓辺からのカタカタという音と、暖炉で薪が爆ぜる音が、ナジャー家の館の女主人エバ・ナルジスの寝室に小さく響いていた。
アミナの手が、器用に針を動かす。ラーニャはそれを横から眺め、目を輝かせた。
品の良い言葉になるよう意識しながらも、素直に驚きを口にする。
「まあ、刺繍とはこのように出来るものなのね…魔法みたい。」
「私は奥様直伝ですから、特別腕が良いのよ。ねえ、奥様。」
アミナの呼びかけに、エバは寝台からくすくすと笑った。
「まだまだよ。調子に乗っていると、ラーニャに追い抜かれてしまうわよ。」
「そんなあ…。」
寝室に、朗らかな笑い声が満ちる。ラーニャは、侍女仲間のアミナと共に、主の寝台を囲むようにして刺繍の練習に励んでいた。
休憩の様にも見えるが、立派な仕事だ。エバは、寝込むようになった自分を受け入れられず、気鬱になることがしばしばあった。そうしたとき、詩や刺繍、ダンスや外国語など、エバが造詣深い趣味の教えを乞うのだ。侍女にものを教えるとき、面倒見の良い彼女は活力を取り戻す。
他の侍女たちは、いちいち大げさに喜びながら対応することに疲れを見せ始めていたが、ラーニャは違った。まだ侍女になって日が浅いため新鮮なことばかりだし、ただで教養を身に着けられるなんて、孤児にしてみれば信じがたい幸運だ。しかも独学ではなく、れっきとした貴族に教わるのだ。
(もしここをクビになっても、これだけの教養を身に着ければ食い扶持には困らない。)
ほくほくしながら、アミナの手の動きを必死に真似する。エバは監督係だ。寝台の上からラーニャ達を見て、ああでもないこうでもないと、楽しそうに口を出すのだ。
黙々と針を刺すが、なかなか上手くいかない。アミナの手を見ると簡単そうなのに、この差はなんだろうか。はあ、とため息をついてみせる。
「奥様、私は刺繍には向いていませんわ。文字に専念することに致します。文字なら得意分野ですもの。」
「諦めてはだめよ、ラーニャ。千里の道も一歩からと言うでしょう。あれほど色々な書体を使いこなせるようになったのだもの、刺繍だってすぐに出来るようになるわ。」
「奥様…。」
エバの美しい笑顔に胸がいっぱいになる。そう、ラーニャは努力と研究を重ね、様々な文字を身に着けたのだ。エバ本人の字と見紛う優美な文字や、商売にぴったりの堂々とした文字、華やかな飾り文字、全てが思いのままだ。今のラーニャなら代筆屋だって開けるだろう。
エバの言葉に調子づき、再び小花の刺繍に取り組んでいると、アミナが「そうだ。」と呟いた。
「ラーニャ、あなたまだお休みを頂いていないわよね。そろそろ休んでもいい頃よ。」
「まあ、そうだったの。気付かなくてごめんなさいね。わたくしは構わないから、好きに休みなさいな。買い物だってしたいでしょう。ただでさえ忙しいでしょうに、あの話が決まってから気負わせてしまったわね。」
エバも賛同する。侍女になってしばらく経ったが、ラーニャはまだ休日を取っていなかった。
とある話が決まってから、以前より自由な時間が減り、忙しくしていたことは確かだった。
「ありがとうございます。例の件については、私が望んだことでございますから、お気に病まれませんよう。…ただ、甘えさせて頂いて、2日ほどお休みを頂戴してもよろしゅうございますか?」
「もちろんよ。何かしたいことでもあるの?」
「実は、山の方に行ってみようと思っております。知人がいるようなのです。暖冬ですし、まだ間に合うのではないかと。」
窓から見えるその山は、まだ山頂付近が白いだけだ。
「お前1人で?危ないのではなくて?」
エバが心配そうな顔をする。お嬢様育ちのアミナも同様だ。
「近くまでは馬車を頼むつもりでおります。ご安心くださいませ。」
「心配だわ、うちの馬車になさい。何年か前に、貸馬車の御者が客の娘を攫った事件があったわ。用心に越したことはないのよ。」
エバの言葉に、ラーニャは慌てて首を振る。
「まあ、それはあまりにもったいないことですわ。私などに。」
「遠慮はしないの。アミナもラーニャも、わたくしの孫も同然ですもの。無事に帰ってきて頂戴ね。」
穏やかに微笑む老婦人の瞳には、親愛の情が満ちていた。体の内からぬくもりが沸き立つのを感じる。ラーニャは顔を赤らめて礼を言いながら、ふと思った。
(おばあちゃんが私にもいたら、こんな感じだったのかな。…なんてね。)
その後、はにかみながら再び針を持ち直したラーニャは、エバとアミナがさりげなく視線を交わしていることに気付くことは無かった。
******
夕方からの当番と交代をし、ラーニャはエバの部屋を辞した。足を向けた先は、仲良し三人娘の部屋…ではない。周囲に人がいないことを確認しながら廊下を進む。そして目的の扉を叩き、許可の声を確認して室内に入ると、険しい表情のギョズデ家政婦長がラーニャを待っていた。
「お待たせいたしました。」
軽く詫びるが、家政婦長は表情を変えない。何かやらかしてしまったかと内心焦りながら視線を辿ると、古い書付とにらめっこしているようだ。
(ああ、老眼…。)
ほっと息を吐くのと同時に、家政婦長が顔を上げた。
「すみませんね、古い記憶を呼び覚ましていたものですから。では、始めましょう。」
「恐れいります。本日もよろしくお願い申し上げます。」
家政婦長を真似て、ピンと背筋を伸ばす。
「では、昨日のおさらいから。」
そして今晩も密かに、ラーニャへの個別指導が始まった。
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よく晴れたその朝、久しぶりの私服を纏ったラーニャに、ファイサルが爽やかな笑顔を向けた。
「おはようラーニャ。準備は整ってるか?」
「…おはようございます、ファイサル様。あの、何故ここに。」
ファイサルは、ラーニャがまさに乗り込もうとしていた馬車の中にいた。エバが用意してくれた、ナジャー家の馬車だ。
「お祖母様が、侍女ひとりを山に行かせるのは心配だから一緒に行けと仰ってな。まあ乗れよ。おやつもあるぜ。」
「そんな…ファイサル様のような方にお願いせずとも…。」
馬車に乗るのを躊躇ってしまう。助けを求めるように御者を見たが、我関せずと言った顔で雲を眺めている。使えないおじさんだ。
「いいさ。俺もそろそろ屋敷での生活に退屈してきてたんだ。それに相手がラーニャなら大歓迎だ。」
ファイサルは、にこにこと笑いながらラーニャを乗り込ませ、御者に「出してくれ。」と声を掛ける。ラーニャは恐る恐るファイサルの向かいに腰掛け、荷物を下ろした。
「で、何しに行くんだ?」
ラーニャは、つい言葉につまる。
捨てられたということを、ファイサルに話したことは無かった。
「その…この方に会いに行こうと。」
鞄から折りたたんだ紙片を取り出し、ファイサルに見せる。孤児院で使っていた、あまり質の良くない紙であることに気づき、少し恥ずかしい気持ちになる。オミウは紙の産地なので孤児院でも紙に困ることはなかったが、端切れや質の悪い物が大半だった。
「結構山奥だな。付いて来て正解だった。」
ファイサルはそれだけ言い、笑って紙片を返してきた。
何か聞かれたらどうしようかと思っていたが、ファイサルは無理に踏み入る真似はしなかった。そのことに安心すると、不思議と自然に言葉が紡がれた。
「私は、この方と2年ほど一緒に暮らしたそうです。なにも覚えていませんが。」
「小さかったんだな。」
「はい。2歳程度で、この方に拾われたと聞きました。」
ファイサルが、笑みを消してラーニャを見た。ラーニャもその端正な顔を見つめ返し、曖昧に微笑んで見せた。
「…それは、是非ともお礼を伝えなくては。この方のおかげで、ナジャー家は得難い人を得た。」
「ふっ。なんですか、それ。」
「かっこよかったか?」
「違和感しかないです。」
おかしいなあ、と嘯く青年に、今度は自然と笑みが溢れる。
重く伸し掛かるような重圧は、彼の言葉ですぐ消えていったのだった。




