12 愛情
ファイサルは自室に戻ると、行儀悪く寝台に身を投げ出した。そのままぼうっと天井を見上げる。
思い出すのは、先ほどまで話をしていた娘の顔だ。初めて会ったころは、他の女中と何も変わらないと思っていたのに、今では心を占めるのはあの澄ました顔ばかりだ。
(ラーニャの文字には、驚いたっけ。)
文字を書けることには、大して驚かなかった。祖父母の女中や侍女は、大概が行儀見習いの、そこそこ裕福な家の娘だからだ。驚いたのはその文字だ。明らかに上流階級のそれで、どんな身の上なのだろうと興味を持った。まさか孤児だとは、夢にも思わなかった。
オミウを訪れたのは、祖母の見舞いのためだったが、祖母の容体が回復の兆しを見せなかったことから、ファイサルの滞在はずるずると伸びた。とはいえ、特にやることがある訳でもない。祖父からちょっとした仕事を押し付けられることはあったが、大した量ではなかった。
暇つぶしに屋敷をうろつくと、所作や言葉遣いが特に美しい女中がいるなと気付くことがある。そんなとき、ラーニャの姿があることがしばしばあった。まだ新人で、しかも孤児と聞いた娘だ。ラーニャに興味を持ち始めたのはそのころからだ。
祖父母の使用人は、ファイサルが暮らす都の屋敷の使用人に比べ厳しく教育されており、オミウへ遊びに来る度に、落ち着かないものを感じてきた。貴族の血を引いているとは言え、ファイサルはただの商人の子に過ぎないし、母親は貴族であっても裕福な家の出身ではないため、使用人の質にこだわりは見せない。気安く話せる相手が欲しいとは、常々思っていたのた。
(好奇心でちょっかいを掛けていたはずだったんだけどなあ。)
そう年も変わらないくせに、卒なく振る舞うあの澄ました顔を、動揺させてみたかった。それがどうしたことだろう。気付いたときにはもう手遅れで、あの模範的な使用人の仮面の奥に潜んだ強い光に、どうしようもなく囚われた自分がいた。
甘かった。生まれた時から大切に守り育てられてきたファイサルが、ラーニャに適うはずがなかったのだ。
孤児という身の上で、ナジャー家に雇われるに至る人間だ。孤児の雇用は税の優遇などがあるが、それで片づけられるような広き門ではない。人並みならぬ苦労があったはずだ。ファイサルはその力量の差を見誤った。
「もう、雑用は頼めないな。」
声がこぼれる。それは予想していたよりも悲し気な色を帯びていて、思わず口角が上がった。
ラーニャが祖母の侍女となった今、女中であった頃の様に、気安く呼びつけることはできない。後悔の念が沸き起こるが、あれは、祖母のためにも、ラーニャのためにも、良い選択だった。
ただ、ファイサルが淋しいだけだ。
ふっと息を吐いて、体を起こす。気分転換に散歩でもしてみようと思った。せっかくオミウに来ているのに、まだ湖にも行っていない。薄手の外套を手にすると、ファイサルはすれ違った使用人に行先を告げ、冬の足音が迫るオミウの街へ下りて行った。
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オミウ湖のほど近くまで坂道を下ると、通りがかった建物の塀の内から、騒がしい子供たちの声が聞こえた。すぐ先にあった門の柵から覗いてみると、どうやらかけっこに興じているようだった。ファイサルの腰にも満たない背丈の子から、もうすぐ成人と見られる子まで、幅広い年齢の子供達が笑い合っている。
そのうちの一人がファイサルに気づいた。笑顔が驚きに染まっていく。
「ファイサル様!どうしてこちらに…。」
その娘は門まで駆け寄ると、汗をぬぐいながら尋ねてきた。
ファイサルのことを知っているようだった。
「ああ、ちょっと散歩に出てきたんだ。」
(参ったな、誰だったか分からない…。)
動揺が顔に出たのだろう。その娘は困ったように笑って言った。
「女中のサナでございます。」
「…ああ!悪い、いつもと恰好が違うから、気付かなかったよ。」
ラーニャの友達だ。何度も言葉を交わしたことがあるというのに、全く思い至らなかった。髪型と服装で随分と印象が違う。元から綺麗な顔立ちの娘だとは思っていたが、髪を下して普通の服を着ていると、人目を惹く美しい娘だった。
「構いません。ちょっと待っててください、そっちに行きますから。」
そう言うや否や、なんと門を器用に乗り越えてファイサルの隣に降り立った。見た目とは違い、やんちゃなようだ。
「ここが、君の育った孤児院なのか?」
「はい、ファラウラ院です。女王陛下の孤児救済政策で設立されたところなんです。私はここの孤児第一号。」
「なるほど。だから門扉にチューリップがあるんだな。」
ファイサルは、門扉を飾る花模様を眺めて頷いた。ニスリーン女王のお印だ。それにしても、第一号ということは、サナは生まれてすぐに孤児になったのだろう。女王の政策で各地に福祉施設が建てられたのは、20年近く前のことだと聞く。
(ラーニャは、何故ここに来ることになったんだろうか。)
ラーニャのことを、ファイサルは何も知らない。
ファイサルが歩き出すと、サナも付いてくる。図々しいというか、肝の据わった娘だ。言葉遣いもラーニャと同期とは思えない出来上がりだが、それでも不思議と不快ではない。サナが頼まれてもいないのに話す街の解説を聞きながら、商人の素質があるなと感心する。
「今日は休みなんだな。一人か?」
尋ねると、サナは少し淋しそうな顔をした。
「マリアムも一緒です。でもあの子は、親が遺してくれた家を人に貸してて、今はそっちを見に行ってしまいました。本当はラーニャも一緒のはずだったんですけど、突然侍女になったもんだから、来れなくなっちゃいました。」
「それは…悪かった。俺の所為だな。」
「お詫びなら、今度孤児院にお菓子でも寄付してあげてください。失敗作でもいいですよ。」
素直に謝ると、サナはにっこりと笑う。付け加えられた言葉で、最後にサナと交わした会話を思い出し、ファイサルは笑った。気の遣い方が上手い性質の人間のようだ。やはり商人に向いている。
「そうさせてもらうよ。ちゃんと成功作をお届けしよう。」
「ふふ、約束ですよ!」
嬉しそうに足取りを弾ませ、サナは湖畔へファイサルをいざなった。
風が吹き、湖面がさざめく。久しぶりに間近で見るオミウ湖は、やはり大層美しかった。木陰に座り込むと、サナも並んで腰を下ろした。特に何を話すでもなく、風景を眺める。
しばらくそうしていると、サナが口を開いた。
「ラーニャの様子はどうですか。侍女の仕事はきっと大変でしょう。」
「同室なのに、聞いてないのか?ラーニャは部屋の移動を断ったよな。」
「ええ、侍女になっても同じ部屋のままです。でもラーニャは困ってることを隠す子だから、働く場所が違うと分からないんです。努力してることも、人に見せたがらない。いい子ちゃんでむかつきます。」
「…その傾向はあるかもしれないな。ただ、今のところ上手くやれてるようだったよ。」
「そうですか、よかった。」
サナの横顔は、少し緊張していた。何かを切り出そうとしているようだ。ファイサルが黙ってサナの言葉を待つと、何度も迷う様子を見せながら、やがて重い口を開いた。
「ファイサル様。その…ラーニャをからかうお積もりなら、どうかお止めください。」
思いがけない言葉に驚いて息が止まる。返事を出来ないでいると、サナは焦った様子で続けた。
「ラーニャは、なんと言うか、愛情に餓えています。褒められたくて、特別扱いされたくて、仕方がないんです。孤児院では手に入らなかったものだから。」
「…君もそうなのか?」
問うと、サナの整った顔に苦い色が浮かんだ。
「…私は、違います。この顔でしょう。おまけに小柄で、胸ばかり大きい。愛情…を、向けられ過ぎました。きっと顔に皺ができるようになるまで、まともな愛を得られません。私にとって特別な感情を持たれることは、危険なことなんです。」
ファイサルは、サナの認識を改める。サナは、多くの理不尽な目に合ってきたのだろうと思われた。不躾な振る舞いも、口調も、おそらくは身を守るための知恵なのだ。大人しく従順である道を、後ろ盾の無い美しいサナは選ぶことが出来なかった。
「私よりも、ラーニャのことです。…ラーニャは私の大切な家族です。傷つけないで。」
「傷付けるつもりは…。」
「あっても無くても同じことです。特別扱いで、あの子を舞い上がらせて。簡単に結ばれる立場でもないのに。」
直接的な言葉に動揺し、視線を迷わせる。
「特別扱いか。ラーニャに実力があったから引き立てた。それだけだよ。」
ついはぐらかそうとしてしまう。それを見越したのだろう、サナは肩に力を入れ捲し立てた。
「ラーニャに実力があるのは分かっています。マリアムは育ちが良く、私は顔が良かった。それに引き換えラーニャは実力でナジャー家への道を掴み取りました。ラーニャが侍女になったのは正当な評価です。特別扱いとは、あなたの態度。私は男性の視線に敏感なんです。ずっとラーニャと一緒にいましたから、嫌でも分かります。ラーニャに興味を持つのは構いませんし、引き立てにも感謝しています。でも…。」
サナは体勢を変え、正面からファイサルに向かい合う。
「もし思いを通わせたら、ラーニャはひたむきにあなたを愛してしまいますよ。親を知らない分、親に焦がれた分、まっすぐに、貪欲に。あなたは、あの子の愛に応えられますか?応えられないなら…本気じゃないなら、あの子に近づかないで。」
サナの顔色は蒼白だった。膝の上で握りしめたサナの拳が震えている。自分でも無礼であることは分かって、職を失う覚悟でファイサルにぶつかってきたのだと悟った。
強いな、とファイサルは思う。ラーニャといい、サナといい、なぜこうも真っ直ぐ在れるのだろう。
「君はラーニャを、本当に大切に思ってるんだな。正直に言おう。俺はラーニャに惹かれている。誤魔化して悪かった。」
潔く認め、頭を下げる。サナの警戒は当然だ。主人が女中に手を付けて、子を身ごもらせて捨てるような話だって珍しくないのだから。ひょっとすると、孤児院にそういう境遇の子がいるのかもしれない。ファイサルがサナと同じ立場であったら、きっとサナと同じことを思うだろう。
「これからどうするかは、まだ分からない。ただ、俺は惚れた相手を不幸にするつもりはない。これだけは信じてほしい。」
真っすぐにサナの目を見る。サナは探るように視線を返してきた。
「…正直に言って、まだあなたを信じられません。」
でも、とサナは続ける。
「信じたいという気持ちがあります。あなたの視線も態度も、嫌なものではありませんでした。二人きりになっても。それに、こんな無礼な話に、きちんと耳を傾けて下さった。そうできる人がどれだけ貴重か、ご存じないでしょう…。あなたの言葉なら、信じてみたいと思っています。」
そう言って、サナは長い睫毛を伏せ、ぎこちなく微笑んだ。




