11 特別
貴婦人の侍女の務めは、思っていたよりも大変だった。指先の動き一つ気が抜けないし、ちょっとした会話にも教養が必要だ。他の侍女たちが歌うように主と会話を楽しむ様子を、ラーニャは必死に学び取ろうとしなくてはならなかった。皆気を遣って話を振ってくれるものの、ふとした拍子についていけなくなってしまうのだ。
(オミウで紙といえば亜麻とかぼろ服からできるものじゃん!!大昔に羊の皮に文字を書きつけていたとか、粗悪な紙がひどく臭ったことを貧しい詩人が嘆いて詠んだ詩の中に出てきた情景とか、そんな基礎知識がないと分からない笑い話なんて、孤児院育ちがどう笑えっていうの!!)
なんて叫びを胸のうちに響かせ、周囲の真似をしてうふふと微笑むのが侍女となったラーニャの仕事の一つだ。
とは言え、先輩侍女のアミナに言われた通り、ラーニャの一番の役目は、主の筆となることだった。
老婦人の柔らかく皺の寄った手が、辛そうに額を押さえる様子を目の端で捉え、ラーニャは手紙を整理する手を止めた。主は豪奢な寝台に身を横たえたまま、ふう、と息を吐く。
「だめね、今日は身を起こせそうにないわ。ラーニャ、あとお返事をしていない手紙はどれ程あるかしら。」
「昨日随分と励まれましたが、あと二山はございます。」
「そう…。それはどなたからのもの?」
エバが指した封筒を手紙の山から抜き取り、ラーニャが手紙の差出人を読み上げると、エバはハッと顔を上げた。
「大変。カミル様からのお手紙が残っていたのね。読み上げて頂戴。」
「奥様、体調のよろしいときになさった方がよろしいのでは…。お体に障ります。」
「良いのよ。そうやって先延ばしにして、今日まで来てしまったのだもの。さあ、ラーニャ。」
促され、ラーニャは躊躇いながら手紙を開いた。
エバの侍女になってからまだ2日目だが、既に多くの代筆を任せられている。信頼されていることは嬉しいが、内容を考えるエバの負担が心配だった。
カミルという人物からの手紙は、ナジャー家での事務仕事に慣れたラーニャからしても驚くほど上等な紙を使っていた。手紙の書きぶりからして貴族の様だ。エバの交友関係は広いが、頻繁な手紙のやりとりをする相手は、どうも貴族が多いと見える。昨日からラーニャが目を通してきた手紙は、いずれも良い手本になりそうな美しい文字で記されたものばかりであった。このカミルも、例に漏れず優美な字を書く。ラーニャが書いてきた文字とは違う、繊細な印象だ。文字の『遊び』とは、こういうことを言うのだろうと思われた。
(内容は…見舞いと、長年の尽力へのお礼か。奥様のお陰で、多くの恵まれない子供達が救われたと…。)
おそらく慈善事業の関係だろう。手紙を読み上げると、エバはつらそうに目を伏せた。
「お可哀想に。」
(可哀想…?)
ラーニャは、また貴族ならではの隠語でもあったのかと不思議に思いながら、エバの指示を待つ。エバはしばらく思案すると、ラーニャに返事を書き留めるよう命じた。
エバの返事は当り障りのないものだった。返事が遅れたことの詫びから始まり、季節の挨拶やオミウの近況、子供への支援について、ゆっくりと表現を練り直しながら言葉にしていく。
「…最後に、ご夫妻と姫君のご健康を、切にお祈り申し上げます。どうか、希望を捨てられませんように。」
そこまで言うと、エバは大きくため息をつき、目を閉じた。随分と疲れた様子だった。
ラーニャはエバの肩まで掛布団を引き上げ、体が冷えないようにする。
(書き直さないと。)
侍女になった昨日に代筆したものは、大して書き直すこともなかったため、すぐにエバの署名をもらって事が済んだ。しかし今回の手紙は、随分と悩みながら内容を考えていたため修正が多く、紙がもったいないが新しく書き直す必要があった。
静かな寝室に、ラーニャが文字を書く音が満ちる。ラーニャが書き終えるころには、エバの寝息もそこに加わっていた。
署名をもらったらすぐに送付できるよう準備をすると、少し手持ち無沙汰になる。
(何をしていようかな…。そうだ。)
ラーニャは、さきほどのカミルという人物からの手紙に視線をやり、そっとその内容を写し始めた。正確には、その文字を。
一心に写していると、次第にコツをつかんできた。文字の形だけでなく、文字の流れ、全体の配置の美しさにも意識が及び始める。まだ拙いが、随分と見れるものになってきたのではないだろうか。
「上達が早いな。」
耳元に、低く穏やかな声が届いた。はっとし、思わず紙を手で隠す。
振り返ると、ファイサルがいた。いつの間にか寝室に通されていたようだ。
「奥様でしたら、休まれていらっしゃいます。」
エバを起こさない様に、声を潜めて言った。
ファイサルは頷き、祖母の寝顔を静かに見つめる。
「お目覚めになるまで、隣でお待ちになりますか。」
寝室には、簡素な応接間が隣接されている。尋ねると、ファイサルは、「いや。」と、首を横に振った。
エバの眠りを妨げないように、寝室ではなく、応接間の扉から退室してもらおうと、ファイサルを応接間へ誘導する。
他の侍女の目が無くなったことを確認し、ファイサルがラーニャに微笑んだ。抑えた声で尋ねてくる。
「ラーニャ。どうだ、侍女になってみて。」
「まだ2日目でございますが、奥様にも他の侍女にも良くして頂いております。」
「そうか。それはよかった。」
さすがにここでは、普段の気安い態度を取ることはできない。侍女らしく振る舞うラーニャを、ファイサルは面白いものを見るような顔で眺めた。
「お祖父様が、お祖母様にラーニャを取られたと嘆いてたよ。人気者は大変だな。」
まるで他人事の様に言いながら、いたずらっぽく笑う。ラーニャも微笑みを返した。
「そう仕向けたのはファイサル様ではありませんか。」
「ラーニャが優秀だったからさ。はじめは良い原石を見つけたと思った。ここまで光るとは思わなかったけどな。良いものを見極めるのは、商人の特技なんだ。」
ラーニャは扉を開けながら、へえ、といつものファイサルを真似して眉を上げてみせる。
「では、お得に仕入れられた私は、どこぞに高く売られてしまうのでしょうか?」
「そんな勿体ないことはできないさ。せいぜい見捨てられないように努めることにするよ。…大切だからな。」
胸の内に、形容しがたいぬくもりが溢れた。
じゃあな、と部屋を後にするファイサルの背に、手を伸ばす。もちろん触れることはなく、ファイサルは気づかず去っていった。
扉を閉めると、取っ手に手を置いたまま、小さく息を吐く。
自分が、ファイサルから特別目を掛けられている自覚はあった。それでも、こうして言葉にされると、必死に押さえつけている感情が暴れ出しそうになる。
(ファイサル様が好きだ。)
目を閉じると、ファイサルの笑顔が瞼の裏に広がる。
(ファイサル様が欲しい。)
叫びだしたくなる衝動を、ぐっと飲み込む。一介の使用人であるラーニャには、過ぎた望みだ。
乞えば、彼は応えてくれるに違いない。ラーニャも馬鹿ではないのだ。彼の視線に、特別な情が混ざる瞬間があることには気付いていた。ラーニャが一歩踏み出せば、きっとファイサルは大切にしてくれるだろう。いつか来る別れの日まで、オミウでの束の間の恋人として。
しかし、ラーニャが欲しいのは、そのような実を結ばない関係ではない。彼の特別になりたいのだ。ラーニャだけのファイサルになって欲しかった。
(いつかは、都に帰ってしまう。)
扉から手を離し、窓に目を向ける。日当たりの良い南向きの部屋からは、オミウ湖と、早くも雪を被り始めた山々が見えた。春先に、湖畔で会話をした男性の言葉を思い出す。
(都は、あの山の先。)
ラーニャが捨てられた山が、都の姿を覆い隠している。その堂々とした佇まいはまるで、忘れるなと、ラーニャに語りかけているようだった。ラーニャは唇を噛んでその山を見据えると、主の寝室へと戻っていった。




