1 ナジャー家の初日
ザフル王国のとある街、オミウの一画で、3人の娘が神妙な面持ちで手を取り合っていた。
明るい髪色で優しげなマリアム、小柄で可憐なサナ、そして仄かに陽が透ける暗い髪色のラーニャだ。
「ああ、見て。指が震えてきた。」
「私も気が遠くなりそう…。」
サナとマリアムが息も絶え絶えに呻いた。
ラーニャも同感だったが、相槌を打つ余裕は無い。院長からの紹介状を、皺が寄らないように、手汗がつかないように、しかし風に飛ばされることがないように、必死に持ち続けるだけで精一杯だ。
先導の男性に促されるまま、重厚な鉄の門をくぐり、美しく整えられた庭園を抜ける。目の前にそびえ立つナジャー家の館は、今まで見てきたどの建物よりも壮麗だった。正午の日射しに目を細め、辺りを見回す。
「今日から、ここで働くんだね…。」
「それだけじゃない、ここに住むんだよ…。」
「もうだめ、吐きそう。」
「マリアム、出てきても気合で飲み込んでね。」
てっきり目の前の扉から館に入るのかと思ったが、男性は扉の前を素通りし、館の脇に向かっていく。使用人は正面の扉を使わないのかもしれない。向かう先の遠くに、裏門と思しき小さな門が見えた。
(正門から来たのは失敗だったかもしれない…。きっと使用人は裏門から出入りするんだ…。私もそこからお訪ねするべきだったんだ。ああ、いきなりやらかした。院長先生、ごめんなさい…。)
ラーニャは頭を抱えたい気持ちを抑え込み、血の気の引いた顔で細く息を吐く。
もしこのまま雇ってもらえずに、お前たちのような世間知らずは要らないから孤児院へ帰りなさい、と断られてしまったら、皆どんな顔をするだろう。ナジャー家に3人も送り出せたと皆大喜びしていたのに。
頭の中を真っ白にしながら歩き続け、先ほど見た扉と比べると一回り小さな扉から屋敷の中へ入る。そして少し進んだ先にある、使用人用の食堂と思われる部屋に入らされ、なにがしを呼んでくるからここで待てと案内の男性に慌ただしく指示された。その後ろ姿を見送りながら、やっとラーニャの頭の中がはっきりして来る。
「サナ、いま誰を呼んでくるって言ってた?」
「家政婦長だって。大丈夫?ラーニャ。」
「ありがとう…ぼーっとしちゃって。」
「しっかりしてよ?ところでさ、さっきの男の人の名前は何だったっけ?」
「…自己紹介なんかしてた?」
「二人共ちゃんとして。ワラカさんだって。ゲロ飲み込みながら必死に聞いてたから間違いない。」
3人での情報のすり合わせが終わると同時に、食堂に向かってくる足音が響いた。
慌てて居住まいを正し、音の主を待つ。
現れたのは、いかにも厳しそうな雰囲気の老女だった。
「待たせてごめんなさいね。家政婦長のギョズデです。あなた達がファラウラ院から紹介された新人ですね。」
口元に品の良い笑みを浮かべながら、その目は品定めするように3人を見据える。
ラーニャは顔が引きつるのを感じながら、何とか微笑み紹介状を差し出した。
「はい、こちらが紹介状です。お確かめください。」
家政婦長は紹介状を受け取ると、腰の小物入れからナイフを取り出し、封を丁寧に切った。そのまま中身を取り出しさっと目を通す。
(封筒をナイフで切るんだ…。さすがナジャー家の使用人…。)
どぎまぎしながら、感心する。今までは手で破くという発想しかなかった。
「確認しました。3人とも読み書きが出来るとは優秀ですね。助かります。」
家政婦長は丁寧に紹介状を封筒にしまうと、美しい姿勢で3人に向き直る。
「あなた方の様な出自の者は、皿洗い、洗濯を担当するものですが、読み書きが出来るようですので、旦那様方の過ごされる場所の清掃をしてもらうことにしましょう。」
「ありがとうございます。」
3人で頭を下げる。違いは全く分からないが、きっと良い扱いなのだろう。ちらりと隣を見るとマリアムもよく分かっていない時の顔をしていた。
「重々承知していることでしょうが、ナジャー家ではあなた達に貴族の使用人と同等の質が求められます。旦那様は一代で身を立てられたお方です。手を抜けばその程度の人間であるとすぐに見抜かれますよ。貴族でありながら、身分の無い旦那様に嫁がれた奥様のため、旦那様は最高の暮らしを求めていらっしゃるのです。そのことを努々忘れないように、心に留めておいでくださいね。楽な仕事ではありませんよ。」
「はい、家政婦長。」
「よろしい。私も厳しく指導に当たりますのでそのつもりで。早速ですが、まだあなた達から自己紹介を受けていませんよ。始めの挨拶の時に名乗るべきでした。」
「申し訳ありません…。」
初歩的な指摘を受け、3人は赤面しながら慌ててそれぞれ名乗る。
家政婦長は頷いた後、再び口を開いた。
「ラーニャ、サナ、マリアムですね。マリアムは良いですが、ラーニャとサナは姿勢がなっていません。この後お仕着せに着替えてもらいますが、その着付けと併せてマハという娘に指導してもらうように。屋敷の清掃についてもマハに教わりなさい。」
「はい、家政婦長。」
「それと、孤児院からの女中の受け入れは国へ報告する必要があります。文字が書けるなら、この書類を参考に自分で報告書を作成するように。筆記用具と紙はこの食堂の隣の物置にあります。分からないことがあれば明日の夜までに聞いてください。明後日の昼には他の手紙とまとめて都に送ります。良いですね。」
「はい、家政婦長。」
「あとは―――。」
家政婦長からの指導という名の長い洗礼の後、屋敷内を案内され、一通りの教育を受け終えたときには、すっかり日が傾いていた。
3人は与えられた部屋にたどり着くと、家政婦長からの指示や、教わった内容を手分けして必死に書き起こし、その他のことは荷ほどきすら出来ずにべッドへ倒れこんだのだった。