プロローグ-2
投稿が遅くなりましたが、私は元気です。
~禍福は糾える縄のごとし~
『史記・南越列伝』
◇
彼女が泣き止んだのは、プロポーズをしてから一時間ほど経ってからだった。
帰宅してからそのまま着続けていたカッターシャツの胸元を涙で濡らしながら、ずっと「ありがとう」と「ごめんなさい」の言葉を口にしていた彼女は今。何故か泣き止んだと言うのにそこから顔を上げてくれない。
さらさらとした髪の間からわずかにのぞく耳が真っ赤になっていることから、久し振りに号泣したことを恥ずかしがっているのだろう。
……なんだそれは愛らしすぎか。
今すぐ彼女をベッドルームに誘拐してドロドロに甘やかしながら、一晩中愛を囁き続けたい衝動を必死に抑える。
嫌われることは…まぁ、ないだろうが、その衝動に従って行動した場合。恐らく翌朝から彼女は布団に立て籠り一日中羞恥心に駆られて動けなくなる。
それはそれで見てみたい……いや。そうじゃない。
「落ち着いた?」
衝動をすべて押さえ付け、彼女の頭を撫でながら声をかけると、未だ顔をあげてはくれないがこくりと頷きが返ってくる。
「それじゃ、もう一回。くぅちゃん、家族になろう?」
「っ。喜んで…!」
蚊の鳴くように小さな声だったが、一時間ぶりとなる彼女からのしっかりとした返事に、ぐっと小さくガッツポーズをする。
いつかこうなれるとは漠然と考えていたが、やはり嬉しい。
沸き上がってくる歓喜と、涙と鼻水を拭うためかシャツの胸元にぐりぐりと顔を押し付ける彼女、もとい俺の奥様の愛らしい姿に頬が緩む。
やっぱり衝動に身も心も任せてしまおうかと天井を見つめながら再び葛藤をしていると、じっとこちらを見つめる視線を感じた。
胸元に視線を落とせば、少しだけ赤くなった彼女の黒い目がこちらを見上げている。
「たっちゃん」
「はいはい」
「顔、洗ってきて良い?」
涙やらなんやらで濡れた顔を見せたくないのか、彼女の口から漏れた可愛らしいお願いに、またも理性が崩壊しかけるのをぐっと胆田に力を込めて踏みとどまる。
柄にもなく悶絶しかけていると、するりと彼女は俺の手から抜け出して、顔を隠したままトテトテと洗面所へ駆け込んでいった。
あれか。自惚れて良いなら『貴方には綺麗なわたしを見てほしい』とのいじらしすぎる意思表示なのか。
「可愛い、過ぎかっ……!」
思わず両手で顔を覆いながら、悶絶し……ふと2メートルのガチムチな男が赤面しながらクネクネと動いていると言う、どう考えても気色の悪い光景が脳裏に浮かぶ。
「よし。準備だけしてしまおう」
自傷行為じみた思考のお陰で冷静さを取り戻した俺は、先程まで彼女の座っていた椅子に腰掛けて、取り出したARデバイスの操作を始めるのであった。
◇
「便利な時代に生まれたよね~」
「じい様ばあ様世代は役所まで足を運んだ書類が、今やデバイスひとつあれば全部できるからな」
目の赤さは取れていないが、その他は今から人前に出たとて何ら問題ない状態にリカバリーを果たした彼女だが、よく見ればその顔緩みっぱなしだ。
恐らくだが、俺も同じように緩みっぱなしだろう。
ARデバイスを操作し、婚姻届を提出する。
これで、戸籍の上でも名実ともに二人は『夫婦』となった。
「結婚式は改名申請してから?」
「うん。そっちは申請して一週間かかるから、先にお義父さん達への挨拶に行きたいな!」
彼女の言う『お義父さん』とは、俺の育った養護施設の院長を務める人のことだ。
同時に俺の修めた古武術の師範でもあり、俺が旅の魅力に取り憑かれる原因となった人でもある。
「この前会いに行ったとこだろ?また行くのか?」
つい先月。久し振りに会いに行った時の事を思い出した俺は、若干げんなりとしたように口をへに曲げた。
挨拶代わりの不意討ちから、こちらを殺しに来てるとしか思えない情け容赦を捨て去った拳打の嵐。
玲奈さんが止めに入るまで続いた約束無しの乱取りにて、冗談抜きで命の危険を覚えた俺は、大恩ある人とは言え本気で息の根を止めようかと迷ったほどである。
なお奥さんに説教を受けた師範の一言は、
『惚れた女を暴漢から守れるように稽古してやっただけだ』
である。
……熊を無手で狩ってくる暴漢がそうほいほい現れるとは、到底想像がつかないのですが、それは。
というより、初めて彼女を連れていった時から顔を見せる度に心温まる交流されていることを思い出して、思わず遠い目をしていると、むぅと可愛らしい鳴き声が隣から聞こえてきた。
「ダメだよ、しっかり挨拶しないと!」
「……わかってるよ。冗談、じょーだんです」
色々と思うところが(最近は)あるのも確かだが、二人に育ててもらった恩もあるし、仲睦まじい夫婦へ並々ならぬ憧れを子どもの時から抱いていた。
それに何よりも、彼女の『事情』を知って俺以上に心配してくれていたのは間違いなく院長夫婦である。
ちゃんと挨拶に行くのは、俺の中でも決まっていたことだ。
何よりも『幸せな家庭を築く』事を院長夫婦の前で誓うことを楽しみにしていたのは、俺ではなく彼女だろうから。
楽しげに院長夫婦への挨拶に行く時の話を始めた彼女を見つめる。
俺だけでなく彼女、『楠きらら』にとっても院長夫婦は恩人であるから。
初めて『親』という存在の正しいあり方を教えてくれた人達であり、彼女の抱えている病をわずかながら好転させたから。
あまり多くは語らないが、彼女が自らの『親』を語る時。その表情には何も浮かばない事から、ろくでもない人間であったであろうことは想像に難くない。
彼らの目に入らないように、常に顔を会わせることが無いようにと願いながら俺と出会うまで日々を過ごしていたらしい。
ゆえに、彼らの目に留まらぬようにかつての彼女は必死になって息を殺して、感情を殺して生活していた。
――日に日に薄くなる感情。段々と削り取られていく心。
そして彼女は顔を失った。
『どんなに楽しくても、どんなに愛しくても。
純也さんがその時どんな顔をしてるのか、どんな風に笑ってるのか、私にはわからないの』
心因性失顔症という、彼女が抱えていた病。
涙ながらに彼女が打ち明けてくれた夜を、一生涯俺は忘れることはないだろう。
彼女曰く。人の顔は靄がかかったようにぼやけて見えるのだという。
俺と出会った日。俺と出会うその前に。
突然、なんの前触れもなく発症したそれは、今日に至るまでずっと彼女の心を苛み続けた。
医療技術が発展し、過去不治の病とされたさまざまな病気が治療可能なモノとなった現代とあっても『こころの病』を人類は克服できていない。
その事実は、なんの誇張もなく“生まれて初めて”愛を知った彼女に重くのしかかった。
自分が笑っている時。
自分が泣いている時。
自分が怒っている時。
目の前にいる『大河内純也』がどんな顔をしているのかがわからない。
二人で過ごす時間が幸せだったからこそ余計に、彼女はその事に苦しんだ。
そしてその翌朝。彼女は引きこもりと化していた。
今までその事を黙っていたのが、申し訳なくて顔を会わせづらくなってしまったと後から聞いたが、当時の俺はものすごく。
ものすごーく情けないことに、解決の糸口すらも見つけられずに途方に暮れた。
そして半日以上彼女の部屋の前で醜態を晒し続けた挙げ句。夜中だというのに院長夫婦に電話で泣きついた。
非常にありがたいことに、車で三時間かかる距離だというのに駆けつけてくださった奥さまのカウンセリングのお陰で、その次の日には天岩戸は開いていた。
因みに、俺は一晩中。『腐った性根を叩き直す』と息巻いた師範の手でどつき回されることとなった。
どうやって頑なであった彼女を奥さんが解きほぐしたか。
実のところ、未だに俺はその時二人の間で交わされた会話を知らない。
「――ちゃん」
しかし、その日を境にして彼女は院長夫婦の事を『お義父さん』『お義母さん』と呼ぶようになり。
「―っちゃん?」
俺と彼女はというと同室で寝起きするようになり、そして何よりも――
「たっちゃん!!」
「……ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
おっと。意識を飛ばしている間に先程以上に彼女が膨れっ面となってしまっているではないか!
ぷぅっと膨れたほっぺたを人差し指でむにむにとつつくと、それに合わせてなのかむぅむぅと彼女が不満げな声を漏らす。
可愛すぎか!!!!(魂からの叫び)
まぁ、これ以上やると本気で機嫌をそこねることになるのでここまでにしておこう。
でないと、明日辺りこちらから会いに行くはずだった夫妻が間違いなく乗り込んでくる。
「たっちゃん。話、聞いてた?」
「ん?会いに行く時の服装と、手土産だろ?」
意識を飛ばす前の彼女の話から推察してそう言うと、やっぱり聞いてなかった…と彼女はがくりと力なく机に突っ伏した。
「なんというか…ごめんな?」
「もう…。それはいいから、早く」
何か恥ずかしいことでもあったのか、彼女は突っ伏した顔をあげることなく洗面所を指差す。
「たっちゃんがね、悪い訳じゃないし、すごく。すごーく!申し訳ないんだけど!
恥ずかしいから、カッターを早く洗濯に出して欲しいかな!?あと、シャワーついでに浴びてきて!!」
「……りょーかいです」
そう言えばと胸元に視線を落とせば、確かに色んなものに濡れたシャツの姿がそこにはあった。
くつくつと小さく笑い、今になって恥ずかしさがぶり返してきたのか、何やらぶつぶつと言い始めた彼女の頭を一撫でしてから席を立とうとすると、きゅっと彼女に服の裾を摘ままれた。
「あとね。申し訳ないついでになんだけど…。
ちゃんと、顔を見てその、もう一回、お返事したいな…」
「んー?」
言わんとすることは解っているが、ついついいじわるしたくなりそう言うと、彼女は少しだけ顔をあげて目をのぞかせる。
「あっちのたっちゃんの姿でね、その…ね?」
「んー?その、何かな~?」
お。ちょっと膨れてきた。たぶん、これ以上は危険だ。
「むぅー!わかってて言ってないかな?」
「くくっ。ごめんごめん!わかったよ、シャワー浴びたらすぐにでもしよっか?」
そう聞くと、すごく申し訳なさそうにまゆをハの字に寄せながらであったが、こくりと頷く。
そんな彼女の頭をやさしく撫で、額にキスを落としてから俺はその場を後にした。
◇
俺の名は『大河内純也』である。
しかし、彼女は俺の事を『たっちゃん』と呼ぶ。『た』という言葉が一切含まれていないのに、だ。
彼女が天照した次の日から、俺はずっとそう呼ばれている(例外あり)。
シャワーを浴び終え、寝巻きに着替えて二人の部屋に入ると既に彼女はそれ―チェア型のVRマシンに座ってソワソワとしていた。
そんな彼女を見て、嬉しさと同時に若干の悔しさを覚えながら苦笑を漏らす。
「先にダイブしてても良かったのに、待っててくれたの?」
「んー。やっぱり、一緒にしたい、かな?ほら、初めての共同作業?的には」
「あっちの顔を早く見たいだけじゃなくて?」
ちょっと早口になった彼女に思わずそんな言葉を言ってしまった。
彼女がしゅんと肩を落としうなだれるのを見て、はっとなりすぐに謝罪の言葉を口にする。
「悪い。今のは失言だな」
「……ごめんね」
「いや、今のは明らかに俺が悪い。どっちも中身は俺だし…あー…そのだな、うん。
ごめんな。若干『タイガ』に嫉妬した」
そう言って、彼女の頭を抱えるようにして抱き締める。
……彼女は、人の顔を認識できない。だけど、それが人間の形をしていない場合、正しく認識することが出来るのを知ったのは、偶然俺が当時から遊んでいたVRゲームで撮影したスクリーンショットを目にした時だった。
VRゲーム『ハンティングワールド・オンライン』。
会社勤めとなり、旅をする暇がなくなった時に出会い、そのワールドマップの緻密な風景に惚れ込み始めたゲーム。
仮想空間だとしても、心に原因があるがゆえに彼女は人の顔を認識することは出来ない。
しかし、俺が当時から使っているアバター『タイガ』は、人の顔をしていなかったことで彼女はその顔を認識することが出来たのだ。
平たく言うなれば、タイガは『二足歩行をする虎』だった。
そう。俺の愛称である『たっちゃん』とは、このアバターの名前を由来としている。
……まぁ、どっちにせよ俺であることは変わりないことなのだから嫉妬というのもおかしい話だが、それでも今日ぐらいはと考えてしまったのがとても申し訳ない。
「くぅちゃん、ごめんね。ちょっといじわるしたくなっただけなだから、そんな泣きそうな顔しないで」
少し冗談めかしてそう言いながら彼女の頭をやさしく撫でようとしたのだが、その前に逃げられてしまった。
「……もう!早く行こ!!」
そう言って彼女はVRデバイスをさっさと装着して顔を隠す。
そんな様子にまた苦笑が漏れたが、本格的にへそを曲げられてはかなわない為、俺も並んだチェアに身を投げ出して、デバイスを装着する。
「ねぇ、たっちゃん」
いよいよシステムを起動しようとしたところ、隣り合っている彼女がふいにこちらの手を握った。
「あのね、いつかはきっと。純也さんとしてのたっちゃんの顔を見られるようになるから…。もうちょっとだけ、我慢して付き合ってほしいな」
俺は、それに答えるようにやさしく彼女の手を握り返す。
「気長に待つから、そんなこと言わないでいいって。
これから、ずっと一緒にいような」
ヘルメット型のデバイス越しに、見つめあってお互いに笑い合っていると、システムが起動したことを告げる合成音声が聞こえてくる。
―――この時、お互いに予想などしていなかった。そんな日が、未来永劫訪れることなど無いことを。
意識が途切れるその瞬間。
遠くにサイレンの音を聞いた気がした。
◆
『――では、次のニュースです。本日午前3時ごろ、◯◯区でマンションが全焼する火災があり、焼け跡から住人の方たちと思われる遺体が発見されました。
未だに安否の確認ができていない方も多く――』
『オオコウチジュンヤさん』『オオコウチキララさん』この二つの名前が、行方不明者のリストに映し出された。
2/5投稿
【Tips】
『ハンティングワールド・オンライン』
発表から10年経つと言うのに人気が衰えることの無い長寿なVRゲーム。
……実は大量の設定考えてますが、入りきらないため割愛。
簡単に言うと『地球と同等の広さを仮想空間に再現した上で行われるファンタジー要素を大量にぶちこんだモン◯ン』です。
こっちが伸びたら設定さらすかもしれません(きたないよくぼう)