蒸機
枯れ色に染まりながら、やや芽吹き始めた里山の遊歩道を歩き終え駅に着いたとき、だだっ広い谷間には傾きかけた西陽が差していた。陽は思ったよりきつく照りつけた。少し汗が滲んだ。カーキ色のフィールドジャケットを脱いでリュックに押し込みながら彼は思った。冬はもう終わったんだ。
中原中也の歌碑には、意外と感銘は受けなかった。遊歩道の傍らに建てられたそれはあくまで、字が彫ってある石に過ぎないように思われたからだった。それに、枯木や草に覆われながら、妙に新しかったのも気に食わなかった。
駅舎と併設された観光案内所の椅子に腰掛けて、和泉は時刻表を繰った。次の宿に向かう列車を探したが、一本の特別列車を除いてもう無かった。その次では間に合わない。特別列車というのは、蒸気機関車の牽引する快速列車だった。和泉は蒸気機関車というものを直に見たことがなかった。彼はそれほど鉄道に興味がなかったし、彼の住む都会でそれは、旧時代的なものとして似つかわしくないということもあった。
列車はあと数分で着く。迷っている時間はなかった。
改札を抜けると線路を挟んですぐそこまで、くすんだ赤や黄の木々が迫っていた。ここももう一月もすれば、新緑が覆い尽くすのだろう。そして梅雨を越えると、つくつくぼうしや油蜩が大音声で夏を宣言するに違いない。枯れた雑木林にすら、強大な自然のエネルギーを感ぜずにはいられなかった。彼が時々、自然を求めて神社や寺に赴くのも、そんなエネルギーに触れたいからだった。
ホームには二、三の子供連れがいた。間もなくアナウンスが聞こえ、列車が来た。蒸気を噴き出す音が徐々に近づき、緩やかに弧を描きながらホームに滑り込んでくる蒸気機関車は、陽を真正面から浴びて、艶めかしく黒光りしていた。段々と近づいてくるにつれ、その姿はどんどん大きくなり、はちきれんばかりの存在感が周囲に立ち込めた。初めて間近に見る蒸気機関車は、もうもうと黒煙を吹き上げ、目の前を通り過ぎたとき、機械油と煤、石炭が燃える匂いと激しい熱にむせかえりそうになった。鐵の堂々たる体躯の至る所からは蒸気が噴き出し、しゅうしゅうと極度の緊張の声を上げていた。ぎいと鉄が軋む音と共に列車は止まった。彼は客車に乗り込んだ。
車内は意外に新しく綺麗だった。乗務員に指定席券を持っていない旨を伝え、空いていた席から窓際を選ぶ。料金を払って案内された座席に着くと、ボックス席の向かいは子供連れだった。
和泉はあることを思い出していた。幼い頃よく見た蒸気機関車のビデオである。四季折々の風景の中を走る汽車が、淡々と字幕で紹介される古いビデオだった。小さい頃はあんなに機関車が好きだったのに、今では興味がなくなってしまった。漠然とした幼少の情熱は次第に論理化され、社会に適応していく。何故あんなに熱中していたのか、今ではもうわからない。この子供もきっとそのうちに今の情熱を失うのだ。それは俺と同じように、友達付き合いや他の趣味に費やされていく。目の前の子供のはしゃぎ様が果たして、空しく思われた。
シートは少し硬かったが、伝わってくる振動が心地よかった。俺は今線路の上を走っているんだ、という初めての実感を味わった。汽車の加減速、線路の起伏、レールの継ぎ目の音、煤と油の匂い、人々の話し声、笑い声、はしゃぐ子供の足音、すべてが古臭い匂いのする車体から伝わってくる。それらは自然に和泉を浸していった。今のものか今までのものか、そんなことはどうでもいい、全部がこの混沌とした車内に始まり帰結する。ここにあるべきその瞬間がこの空間に染み付いていた。その瞬間の混沌が不思議な調和をもって、和泉には心地よく感ぜられたのだった。薄暮の山々へ向けて、真っ黒い煙がつらつらと流れてゆく。列車は峠に差し掛かっているらしい。
「蒸気機関車は巨大な鋼の生き物である。」、「人々はそれに憧れ、親しんだ。」という言葉をふと、思い出した。例のビデオだ。それ以外なにも思い出せなかったが、それらの言葉だけが印象に残っている。鋼の生き物か。さっきホームで見た光景は正に、その言葉通りだと思った。今もこの列車の先頭で息せき切って汽車は俺たちを引っ張っている。その喘ぐような声がここまで聞こえてくる。もうもうと黒煙が渦巻いて、蒸気機関車という生き物の力強い息遣いを空に残していった。灼熱の緊張は、ただ前進し続けることにのみ、ひたむきに費やされていた。これほどまでのひたむきさを誰が持ちうるだろう。情熱は失われたのだろうか。俺はどうしてしまったのか。そんな考えがぼんやりと、和泉の頭を去来し、窓の黒煙のように渦巻き、空に滲んでいった。
幾つかのトンネルを抜けると列車は峠を越えたらしく、快速の名に違わぬスピードで、整然と田んぼの敷き詰められた平地を駆け抜けた。流れてゆく田畑はやがて黄金色に燃えはじめた。陽が山間にゆっくりと落ちてゆき、緩やかな稜線を卵色の靄が包み、東の空はやや青ざめてきた。もうすぐ乗り換えの駅だ。
ホームに降り立つと、もう既に機関車の周りは沢山の人がカメラを持ってとり囲んでいた。和泉は改札に向かって歩き出した。改札口の手前でふと、振り返った。息を呑んだ。
太陽が一日の最後、大きな息吹を吹きかけたときだった。すべてが黄金色に煌いていた。人々の背が、胸が、目が、鼻が、太陽の息吹を照り返し、膨大なエネルギーを拡散している。暫し目を奪われていた。
そのとき、しゅう、と擦り切れるような音が聞こえたかと思うと、轟音が何もかもを圧倒した。鋼鉄の巨体と、途轍もない気圧の重圧から放たれた汽笛は、周辺の時間と空間を切り取ってそのなかで反響を繰り返し、和泉の身体に殺到した。腹を突き上げる咆哮に、全身の血が沸騰して、逆流しそうだった。暴力的な衝動が彼の身体を掻き回し、無性に走り出したくなった。これだったんだ。俺が久しく忘れていた情熱は。何かを必死で追いかけていたあのときの、ただひたむきな緊張と情熱は。論理や理性を超えた、灼熱の衝動は和泉の身体にわだかまり、極限まで圧縮されていた。水蒸気がきらきらと夕陽にさんざめき、永遠とも思える時間を、汽笛は鳴り響いた。
大きな車輪がゆっくりと回り始めて、艶めかしい鋼鉄の生き物は重い腰を動かした。その横顔は夕陽に照らされてとても、美しかった。和泉は頭に鳴り響く汽笛の余韻にまだ、立ち尽くしていた。