イツキ最初の一歩
シーリスのヨンテ様が、2日後に本教会へと帰って来た。
ヨンテ様への指令は、イツキの乳母を探すことだ。
命に代えても、イツキを守る乳母をどうやって探すのか?
それはヨンテ様が《人の心を読むことが出来る》という能力の持ち主だから可能なのである。
乳母候補が信用に足る人物かどうか、あらゆる質問に答えさせ、真実のみを話し、悪心が無いかどうかを確かめる。優しさ、理性、知性、母性愛は当然のことながら、多少の剣術の心得も必要だ。
使命感を持って、仕事を全うする。その強さこそ最も求められる条件である。
教会からの公募ということもあり、産後に子供を亡くした者から、自分の子供が乳離れした者など、10人程度の女性が集まった。
その内5人は住み込みが出来なかったり、知性が欠けたり、剣術が出来なかったので断り、3人は虚言が有り断った。結局残りの2人で最後のテストをすることになった。
最後のテストには、シーリスの名を伏せた、ジーク様とマーサ様が立ち合う。
テストの内容は、【実際にイツキと対面させて子守りをさせる】というものだ。
始めにテストを受けるのは、キヨと言う名の27歳の未亡人に決まった。
キヨは2日前、馬車の事故で最愛の夫と、命より大切な一人息子を失った。我が子を守れなかった絶望で、橋から身を投げようとしているところを、本教会のモーリスに引き止められ、今回の公募を知ったそうだ。
2人目は、ナリスと言う22歳の未婚の母だった。
ナリスは3日前、産後6ヶ月の娘を父親の親族に無理矢理奪われてしまった。父親であるダメな男と別れるために乳母になろうと思ったらしい。
テスト会場の会議室には、子供用のベッドと試験官が座る椅子とテーブル、2人の乳母候補の女性が座る椅子が2つ置かれている。
大きな窓から春の陽射しが差し込む明るい室内は、ぽかぽかとして気持ちがいい。
先に会議室で待っている乳母候補の2人は、無言で窓の外を眺めながら、緊張しているようだった。
「お待たせしたね」と言いながら、イツキを抱いたヨンテ様がドアを開けながら入って来る。その後ろに、ジーク様、マーサ様も続いて入って来る。
ヨンテ様が、イツキをベッドに寝かせて、試験官の3人は席に着いた。
「では、キヨさんから赤ん坊を世話してください。そろそろオムツを換える頃です」
マーサ様が優しく声を掛けた。
キヨは、ゆっくり歩いてイツキのベッドに近付き、そっと顔を覗き込んだ。
茶髪に焦げ茶の瞳、色白で凛とした感じの女性だ。そして恐る恐るイツキを抱き、優しく微笑み掛ける。抱いたままオムツを確認して、濡れていたオムツをベッドで交換し始めた。
イツキはその間、ずっとご機嫌で笑っていた。
「あと少しだけ抱いていても良いでしょうか?」
キヨは3人の試験官の方を向き、どこか切なそうに質問する。
「まあ良いでしょう。ただし母乳は、もう一人のナリスさんにお願いしますから、あと10分位でベッドに寝かせてください」
今度はイツキの教育担当者に決まったジーク様が、子を亡くし寂しそうなキヨのに温情の声を掛けた。
本来マーサ様もジーク様も、ニコニコしているタイプではないのだが、イツキの前だと何故か、優しくなり笑顔になってしまう。
およそ10分の後、キヨはイツキをそっとベッドに戻し、自分の胸に手を当て、辛そうな顔で席に戻った。おそらく乳が張って母乳が滲んで苦しいのだろう。
ヨンテ様は始めだけ立ち会い、重要な仕事があるため、ここで退席された。
「では、ナリスさん。あなたは母乳をあげてください」
マーサ様の指示で、ナリスはゆっくりイツキに近付いたが、立ち止まり質問を始めた。
「お聞きしたいことがございます。この赤子は特別に大切な御子なのでしょうか?」
差し込む陽射しに金髪の髪が輝いて、ナリスの美しい容姿が一段と際立つ。
「何故そのような質問を?」
ジーク様が探るように問う。
「はい、もしも大切な御子であれば、清潔にしてから母乳を差し上げねばなりません。それから授乳の時は、後ろを向いていてもよろしいでしょうか?」
「そうだなぁ、特別ではないが、清潔であるに越したことはない。それから後ろ向きでも良い」
ナリスからは、悪意が感じられなかったし、授乳姿を男性が見ることは好ましくないので、ジーク様はそれを許可することにし、湯とタオルを持って来るようキヨに命じられた。
ナリスは、試験官に背を向けてイツキの方を見ながら、ある男から今朝言われた命令を思い出していた。
「もしも赤ん坊が、重要な存在そうだったら殺してしまえ。そうでなかったら、乳母として本教会に潜入し、情報を毎日伝えるように。そして、始末する時は、授乳の時にこの薬を胸に塗れ」と言って薬剤を渡されていた。
情夫の借金返済の為、貴族の家に奉公に出ていたナリスは、「ある仕事をすれば、全ての借金を返済できる金額プラス、2ヶ月分の給金をやる」と主に言われ、ダメな男と別れて新しい人生を始める為に、金を受け取っていた。
『大丈夫。授乳の時は、試験官に背を向けていられる。胸を拭く時、湯で濡らしたタオルの方に薬を付ければ、キヨという女に罪を被せられる』
ナリスは、自分の幸せの為に行動を迷わなかった。
この時恐らく、ナリスは悪心に満ちていたはずだが、ヨンテ様は不在で誰も気付くことが出来なかった。
しかし、ナリスはもう一人、湯とタオルを持って入って来た、キヨの視線には気付かなかったようだ。
「さあ、おっぱいを飲みましょうね」と言って、濡れたタオルに薬を付け胸を拭く。
そしてイツキを抱き上げ、イツキの口を自分の胸に近付けてゆく。
「う、わーん!うぎゃー!」と、いつもとは全く違う異常な声でイツキが泣き出した。
その時2人のシーリスは見た。ハビテが言っていた【黒い煙】のようなものが、ナリスの体を包んでいく様を。しかし、驚きの余り直ぐに体が動かない。
苦しみながらも、命令を遂行するため、イツキの口を胸に近付けるナリス。
「危ない!」と言ってキヨが走り寄り、ナリスからイツキを取り上げた。
何が起こったのか分からないシーリス達だったが、イツキが【自己防衛本能】の能力を使ったんだと理解して、ナリスを取り押さえる。
ナリスは、もうここまでと諦め、タオルにまだ残っていた薬を舐めた・・・。
「今度こそ大切な命を守れました。ありがとうございます」と泣きながキヨは言い、ひざまずいて神に感謝した。
その姿を見た試験官2人は、顔を見合わせて頷き、キヨを乳母に決めた。
リーバ(天聖)様の執務室は、今までに無いくらい空気が重かった。
死んでしまったナリスの推薦者はハキ神国の貴族だったが、その貴族もまた、屋敷の窓から転落し亡くなっていたのだ。
明らかに口封じだろうと思われるが、イツキを殺そうとした首謀者の正体が分からない。
「リーバ様、犯人は教会の密偵部隊に調査させますが、問題は、何故イツキが狙われたのかです!」
イツキの教育担当者になったシーリスジーク様は、部屋中をウロウロしながら、いつもの冷静さを欠いてた。
残りのマーサ様もヨンテ様も、不安と怒りが押さえられない様子で、握りこぶしで机をドンドンしたり、荒い息を吐いている。
「イツキは例の能力を使ったと言うことだが、君達2人は【黒い煙】が見えたのだな?そしてキヨには見えなっかた・・・」
これはどういうことなのだろうかと、リーバ様はブツブツ独り言を言いながら、暫く考えた後で結論を出された。
「恐らく刺客は、イツキを狙ったのではなく、教会にとって大切な子供らしいから、狙ったのだろう。イツキはキヨに任せるが、特別扱いは勉強と武術だけにして、普通の《教会の養い子》として暮らさせる。よって、これからは、必要以上にイツキに接することを禁じる」
「えーっ!そんな。私にも何かイツキの教育をさせてください」
ヨンテ様が必死に頼まれるが、「辛いのは私も同じだ」とリーバ様に言われて、しぶしぶ了承する。
どれだけイツキに、癒しを求めているのだろうか皆さん・・・
いろいろ言いたいことがあったジーク様とマーサ様だが、教育が始まる2歳になれば、毎日会える幸せを思い、言葉を飲み込んだ。
◇◇ イツキ ◇◇
「ねえねえ、どちてマーチャの髪は赤いの?」
「ねえねえ、じーじーのお目目は僕のとどちて違うの?」
「イツキ、マーチャじゃなくて、マーサでしょう?」
今日もイツキの『どちて?』攻撃が始まり、マーサ様は早々に「あー用事があった」と言っていなくなる。
教育担当のジーク様は、ジークと呼ばせるのを諦め、じーじーで満足するも、イツキの学習意欲の高さに、日々悪戦苦闘中だ。
まだ2歳になったばかりだが、吸収力が半端無いので、3ヶ月後には6歳児並みの知識を身に付け、2歳半で下手だけど字が書けるようになっていた。
3歳の誕生日には、3ヵ国語を聞き分けられるようになっていた。
「じーじー、神様のご本読んで」
今日も今日とて、イツキが『読んで』と言って、可愛いく首を傾げて、パッチリくりくりの黒い瞳、長い睫毛で見つめるから、駄目と言えないじーじーである。
ある日、天候不順が続いているカルート国の話を聞き、「私が行って様子を見てきましょう」と言って、じーじーこと、ジーク様は旅に出てしまった。ジーク様の能力は白のオーラ《風》を操る力で、天候を読んだり、雲の流れを変えたりすることが出来る、凄い能力の持ち主だった。
「逃げたな」「逃げたわね」と皆(シーリス達)から言われる程、イツキの探究心は「底なし?」で、ある意味貪欲過ぎて大変だった。
でも、余りに可愛いイツキが、とことこ歩いて来て「ねえねえ」と話し掛けると、吸い寄せられるように「なあに?」と答えてしまうので、基本誰も逃げられない。
「イツキ、またこんな所で寝てるな……」
《聖人》探しから帰って来た《予言の旅人》ハビテは、中庭のベンチではなく、ベンチの側の草の上で寝ているイツキを見付けて、抱き上げる。
お日様と草の匂いがするイツキを、そっと抱き締め「ただいま」と言って頬にキスをする。
ハビテにとって、最も至福の時である。
イツキは、余りに多くのことを覚えると、ところ構わずコテッと寝てしまう。今は6月で夏だから良いようなものの、冬は乳母のキヨが付いて回らなければならない。
しかし乳母のキヨは最近、新しい《教会の養い子》の担当になったので、シバ正教会の【教会の離れ】に移ってしまったと聞き、この癖が心配になるハビテである。
ハビテはイツキを抱いたまま、リーバ様の執務室に《聖人》探しの報告に来ていた。
いくら警備が厳重でも、余りにも無防備なのはどうなんだろうと、ハビテはリーバ様にイツキの相談をする。
我が子同然の母親?の如く心配するハビテは、すっかり過保護になっていた。
「ちょこまかと動いて大変なんだ。それに特別扱いをしないから、むしろ安全だと思うぞ」と言われてしまう。
「ところで、何か吉報のようだね」
リーバ様は執務室の大きな机に両肘をつき、ニヤリと口角を上げハビテの顔を見て、嬉しそうに尋ねる。
「はい、もうすぐリースエルドラ様が、8歳の男の子を連れて戻られます。とても強いオーラを感じますが、能力の色が判らないのです」
ハビテは自分の能力不足を悔しそうに言いながら、イツキの髪を撫でる。
「そして、その子にはある問題があるのです」
はーっと長い息を吐きながら、沈んだ表情でリーバ様の顔を見るハビテだった。
いつものお読みいただき、ありがとうございます。
イツキがやっと3歳になりました。
次話は新しく見付かった《聖人》のお話です。
もちろんイツキも登場します。