第三話 親心子知らず
「ご主人様、旦那様がお呼びです」
「……父上が?」
エトヴィンはいつものように地下室で魔法の研究をしていると、彼の父親――アルフレートから呼び出しを受けた。普段は息子のやることに全く口を出さないアルフレートからの呼び出しとあって、エトヴィンは何かあったのかと首をかしげた。
「用件は?」
「会ってからお話になるとのことです。何やら気まずそうにされていたので、奥様に関することかも知れません」
エトヴィンはアスカからそれを聞いて大方察しが付いた。ここ最近、彼が魔法の研究の為に食事時以外はいつも地下室に篭もっているせいで、彼の母親――クリスティーネ・ド・イェレミースが拗ねていると使用人達から聞いていたからだ。
「ということは今日の研究はここで終わりだな。全く、母上にも困ったものだ」
「しかし、同じ女性として奥様の気持ちもわかる気がします。もうすぐ九歳になるとはいえ、普通その年頃の息子には甘えてほしいのが心情ではないかと」
「なんだ、君も私に甘えてほしいのか?」
エトヴィンはニヤリと笑うと、アスカへと抱きついた。
「ご主人様、気持ち悪うございます」
「……アスカ、君も最近ハッキリものを言うようになったね?」
冷たい目で見下ろすアスカからゆっくりと離れると、エトヴィンは訝しげに彼女を見上げた。
アスカはエトヴィンのことを「ご主人様」と呼ぶようになってから、彼に対して遠慮がなくなり、こういった態度を取ることが多くなっていた。彼は最初、アスカが過度な安堵感を得たゆえにそうなったのかと思っていた。しかし、いくら遠慮が無くなろうとも、彼女は従者という明確な線引きを超えてくることは決してなかった。
今現在も、彼女のその冷たい視線には全く悪意が篭っておらず、エトヴィンは不思議とそれを不快には思わなかった。むしろ、気安くありながら明確な立場が定まっており、お互いに踏み込まないこの距離感に、彼は心地よさすら感じていた。
「まあいい。とりあえず母上のところに向かうとしよう。付いてきたまえ」
「畏まりました」
アスカは綺麗に一礼すると、地下室を出て行くエトヴィンの後ろに付き従った。
部屋の扉を開くと、二人の耳に言い争う男達の声が聞こえてきた。
「クソッ! 放しやがれ!」
「ええい、暴れるな! クソッ! 牢に入れるだけで何でこんなに苦労しなきゃならないんだ」
「そりゃ、傷付けるなっていうお達しだからだろう」
エトヴィンたちが地上へ向かう階段を上っていると、地下牢へと続く扉のある踊り場で、一人の粗野な格好をした男を二人の兵が取り押さえていた。
「何があった?」
「これはエトヴィン様。当主様にこいつを地下牢へ閉じ込めて置けと言われたんですが、こいつがすごい暴れるんですよ」
「ふむ、なるほど……」
エトヴィン達が来た途端に静かになったその男を彼はじっと見つめ観察する。山賊のようにくたびれた麻の服を着ている割に、その肌が妙に綺麗なのがエトヴィンには引っかかった。
「あんた……エトヴィンって、あのエトヴィン・ド・イェレミースか?」
「そうだが?」
「そうか」
男は何に納得したのかそれだけ言うと、エトヴィンとの会話で注意のそれていた兵士の腕を振り切り、エトヴィンに向かって突進した。
エトヴィンは自身の服に必ず身を護るための紋章を刻んでいる。そのため、焦ることなく高速で魔法を唱えた。
「『重力を以て対象を地に這い蹲らせよ』」
エトヴィンの重力魔法によって、襲いかかった男はエトヴィンを押し倒す前に地面に叩きつけられた。そして男は継続してかかる見えない圧力によって起きあがれなくなる。
「『一刻の間、慈悲を持って対象の筋肉を弛緩し無力化せよ』」
さらにエトヴィンは全身の筋肉を強制的に弛緩させる魔法を男にかけ、そのまま無力化した。これは、彼が筋肉の構造をある程度把握した故に使えるようになった魔法であり、覚えている魔法の中で人間を無力化するのに最も手軽な魔法である。
この世界では、治療と言えば魔法によるものか、薬剤によるものに限られている。外科といった概念事態が異端のものなのだ。それゆえに、人体の構造をエトヴィン並に把握している医者は数えるほどしかいない。
彼は前世の記憶を存分に活用し、こういったこの世界で他に使える者が殆ど、または全くいない魔法を次々と編み出していた。
「さて、これでこの男はしばらく動けない。今の内に牢へと運んでおけ」
「ありがとうございます、エトヴィン様!」
エトヴィンは軽く手を振って兵士達の感謝に応えると、そのまま階段を上っていった。
途中で通りすがったメイドに、アルフレートが執務室にいることを聞いたエトヴィンは、執務室にたどり着くとその扉をノックした。
「入れ」
「失礼します、父上」
入室したエトヴィンはアスカを部屋の隅に待機させ、室内へと目を向ける。
彼から見て手前には一つの机を挟み向かい合わせになるようにソファーが置かれ、その奥に立派な机があり、そこに付随する椅子にふんぞり返る様にしてアルフレートは座っていた。
全身に余計な脂肪が付き、全体的に丸まったシルエットをしており、エトヴィンの位置からでも人目でわかるほど汗をかいているその男こそ、エトヴィンの父親であるアルフレート・ユーレンゲルン・ド・イェレミースである。
彼は入室してきたエトヴィンを満面の笑みで迎えると、そのままソファーに座るように言った。
「よく来てくれたわが息子よ。お前が魔法の研究に精を出していることはわかっているが、最近は食事の時しか顔を見れないから少々寂しいぞ」
「申し訳ありません。新たな魔法を身に付け自己を高める楽しさに時間を忘れてしまうことが多いのです。私もまだまだ未熟でお恥ずかしい限りです」
「謙遜するでない。お前の偉業は王国中に轟いている。九歳の誕生日もまだだというのに、すでに婚約の申し出が後を絶たない状態でな。私も鼻が高い」
エトヴィンはアルフレートとの会話で、そういえば貴族の子供は十歳になると徐々に許婚を決める者が出てくるという話を思い出した。
(婚約者か……正直私にとっては邪魔にしかならないが、イェレミースの嫡男に生まれた以上避けては通れない問題だな)
「まあその話は今度でもよい。今話したいのはクリスの事だ」
「母上の事ですか?」
大体の察しは付いているエトヴィンだが、一応何もわからないということにし話を進めることにする。
「ああ、クリスはお前が地下の研究室に篭っていて全く構うことが出来ないのを不満に思っていてな。毎日じゃなくて構わない。定期的にクリスと過ごす時間を取れないか?」
「大丈夫ですよ。今日も研究は切り上げてきたので、早速母上にお会いしようと思うのですが……」
エトヴィンはあらかじめ考えてあった返答をした。彼は最初クリスティーネに時間を取られると研究が遅れるのではと考えていたが、冷静に考えればそんなことは全くないことに気づいた。
これはクリスティーネが彼を無理やり買い物に付き合わせようとか、そういうことではないのだ。要するに彼女は息子とコミュニケーションが取れないのを不満に思っているのだから、エトヴィンが母親に魔法を自慢する息子を演じれば、魔法の実験をしつつクリスティーネの不満を解消することも可能なのである。
さすがに毎回魔法の実験ではおかしいので、実験以外の事と交互にするようにし、実験以外には何か研究の役に立ちそうなことをすれば、特に時間を無駄にするようなことはない。
エトヴィンは早々に執務室から退室すると、手近な使用人にクリスティーネの居場所を聞いた。
エトヴィンは早速彼女の自室へと向かい、部屋の扉をノックする。すると、中から扉越しでもハッキリとわかるほど透通った女性の声が聞こえる。
「何用ですか?」
「エトヴィンです。母上にお会いするために参りました」
「まあッ! 何をしているのですエトヴィン、早く入りなさい」
冷たさを含む事務的な印象だったその声は、訪ねてきたのがエトヴィンだとわかると明らかさまに歓喜の色を滲ませた。
「失礼します」
部屋に入るとエトヴィンは先ほどと同じようにアスカを待機させ、自らの生みの親に視線を向けた。
エトヴィンの母であるクリスティーネは、その病的なまでの白い肌を除けば、王国でもトップクラスの美女だと言っても過言ではない。全身の体の線がとても細く、豊満な胸が女性らしさを強調している。腰まである色の抜け落ちた白い髪も、その美貌の前では、病的というよりはむしろ神秘的にすら見える。そして、彼女は純白のドレスを着込んでおり、あらゆる穢れを一切感じさせず、それが紅蓮に輝く瞳の異様さを際立たせていた。
まさに魔的という言葉が相応しいその女性が、エトヴィンの母であるクリスティーネだった。
「エヴィンがここに訪ねてくるとは珍しいですね。今日はどうしたのですか?」
彼女は嫌味で言っているのではなく、純粋に疑問に思っている様子である。その声音は喜びに満ちており、先ほど扉越しに聞いた声とはまるで別人のようだった。それに加え、エトヴィンを愛称のエヴィンと呼んでいるのが何よりの証拠である。
当然、彼にもそれはわかっており、今日ここに来た理由を特に隠すことなく正直に言った。
「最近母上とお会いできる時間がなかったので、今日は母上と過ごそうと思いまして……ご迷惑でしたか?」
「何を言っているのですか! そんなことはありません。紅茶を入れますからテラスのテーブルで待っていてください」
エトヴィンの理由を聞いたクリスティーネは、今にもスキップをしそうほど上機嫌になり、室内の棚にしまってあったティーセットを準備し始めた。
エトヴィンは言われたとおりに、テラスにある清潔に保たれているイスに座る。
(さて、あれよあれよという間にティータイムを共にすることになってしまった……毎回この調子では実験の続きが出来ないな。そろそろ自分の意志で会話する事が出来る即席ゴーレムが完成しそうなのだが……)
アルフレートの頼みもあり、エトヴィンはクリスティーネのことを無碍には出来ない。
「待たせてごめんなさいね」
「いえ、母上の紅茶は美味しいですからね。このくらい待つことは苦になりません」
「まあまあまあ! 口がうまくなってしまって。今から結婚相手の子が泣かされないか心配ですね」
そういいつつも、とても嬉しそうに微笑むクリスティーネに、エトヴィンも笑顔で対応する。そんな彼のことを、普段の様子を知っているアスカはクリスティーネの見えない位置から訝しげに見つめていた。
特に何事もなく、彼が他愛もない話をしながら穏やかな時間が流れる。
(……最近は研究詰めだったからな。こういうのも悪くはないものだ)
母と過ごす穏やかな時間を堪能すると同時に、彼は自身の思考を訝しんだ。
(前世の私なら、果たしてこんなことを思っただろうか? 別に女性を敵視していた訳ではないが、その感情はドールにのみ向けられていたはずで、一緒に過ごすなど考えられなかった。だが、今の私はこの状況を不快に思っていいない)
そこでエトヴィンは、前世で読んだ本に「精神は肉体に引っ張られる」という記述があったのを思い出した。そして、その言葉は実に的を射ている。
彼は何の因果か前世の記憶を引き継いでおり、基本的な人格は斉藤裕樹の時と変わらない。人形に対する彼の愛は変わらず、意思ある人形を作るという彼の目的も変わっていない。しかし、決定的に違うことが一つある。それは、あれだけ疎んでいた人との交流に全く忌避感を感じていないということである。それどころか、汚らわしいと思っていた女性のことを全く忌避しなくなっているのである。
彼は生まれた当初、確かに人に対する忌避感を持っていた。それゆえに生みの親とも最低限の接点しか持とうとせず、何も言われぬように作法や勉学を積極的に行っていたのだ。しかし、彼はこうして実際に接していることに特に何も感じていない。
アスカという不快に感じさせない距離感の人間が身近にいることがその原因の一つでもあるが、それだけでは彼の狂人的な思考がこうはならない。彼の記憶は前世のものを引き継いでいるが、その精神性は確実に肉体に引っ張られていた。何事もなければ子供が親に愛情を抱くように、彼も自身の家族を徐々に受け入れつつあった。
「ご歓談の所失礼します。そろそろ、夕食のお時間です」
アスカの言葉に、エトヴィンはいつの間にか話しに夢中になっていたことに気づいた。
「では母上、今日の所はこの辺で」
「もうそんな時間ですか……」
「また、母上の入れる紅茶を飲みに来ますので」
名残惜しそうにしているクリスティーネに対し、彼は遠回しにまた来るという意思表示をすると、彼女は食堂へと向かっていった。
共に食堂へ行くというクリスティーネからの誘いをやんわりと断ったエトヴィンは、歓談の途中で気が付いたポケットの違和感の正体を確かめるために一端自室に戻ってきていた。
「ご主人様、それは……?」
彼がポケットから取り出したのは、一通の手紙だった。何の素材か分からぬ漆黒の便せんには、たった一つだけ黄金の紋章が刻まれている。
「分からん。いつの間にかポケットに入っていた」
エトヴィンは分からないと言ったが、その実、見当は付いていた。
彼は手紙を開くと、ゆっくりと目を通していく。
「――くだらん」
一通り内容に目を通した彼はそう言うと、その手紙を懐にしまいため息を付いた。
「どうなさいましたか?」
あくまで直接は聞かず、アスカは遠回しにエトヴィンに手紙の内容を訪ねた。
「まあ、端的に言ってしまえば脅迫状だよ。十歳に満たない子供への手紙だとは思えないほどおどろおどろしい言葉で書かれてはいたが、要は私がこれ以上活躍すると目障りな連中がいるらしい」
「……なるほど」
アスカは多少驚いたが、同時に内心納得してもいた。
そもそも、これまでの彼の活躍が異端すぎるのだ。彼が公開した新魔法の数々は、今までの軍略をひっくり返すほどの価値を秘めているものも多かった。そして、彼は基本的に開発した魔法は修得方法――つまりは考え方や原理も含め公開していたが、重力魔法などの本当に強力な魔法の修得方法は一切公開していない。
現在王国はどの国とも戦争状態にはないが、万が一どこかの国と戦争になった場合、彼が戦場に出てきただけで戦局がひっくり返る可能性すらあり得るのだ。
国内の彼という存在に対する反発は、公爵家の権力で押さえ込むことが出来るが、他国の場合そうはいかない。
むしろ、今まで何もなかったのが可笑しかったようにすら彼女には感じられた。
「それで、どうなさるのですか?」
「どうもしない――というのが一番楽ではあるが、丁度実験したかった魔法もあるから丁度いい。この手紙を直接手渡してきた愚か者の所へ会いに行こうか」
「あの粗野な格好をした狼藉者ですよね?」
「おや、気づいていたのか。まあ、君はずっと私の後ろに居たわけだから当然と言えば当然か。話が早いのは良いことだ。早速行こう。上手く行けば、いい実験素材が手に入る」
アスカにはエトヴィンが何のことを言っているのか分からなかったが、行けば分かるという彼の言葉を素直に受け入れ、部屋を後にする彼の後に付き従った。