ぽとり
ああ 今日もまた
指のように日が落ちる。
「あの」
幼い声に振り返ると、そこには俯きがちな子供が1人、所在無げに立っていた。
華奢な身体に、サイズの合わない大きめの衣服。夕日を背にしているせいもあって、顔立ちは判然としない。
少年とも少女とも取れるその子供は、囁くようにこう続けた。
「指を落としたの。一緒に、探してくれない?」
聞き間違いかと思った。
というか、間違いなく、聞き間違いだ。
けれどすかさず聞き返すのは申し訳ない気がして、私は驚いた顔のまましばらく沈黙することを選んだ。
何を言われたのか、よくわかりませんでしたと、無言で訴えてみる。空気を読んで、私の言わんとしていることをそれとなく察して、自分から行動してもらえるように。
そんな私の態度にーーその子供もまた、沈黙で答えた。
代わりに差し出されたのは、両手。
握りしめた拳のような、指のない、手のひら。
「落としちゃったの。指を。指がないとーーとても困るの」
悲しげに、その子は呟く。
とてもとても、悲しそうに。
逆光に加えて俯きがちなせいもあって、その子供の表情はまるでわからない。視線がどこを向いているのかも、口元がどんな形を描いているのかも。
それでも、その子の悲しみは、十分過ぎるほどに伝わってくる。
幼い声から、滲み出てくる。
「どうして、困るの?」
気がつくと尋ねていた。
指のない両手を前に、私の紡いだ声は、ひどく落ち着いている。
他に聞くべきことは山ほどあるだろう。問いただし、確かめて、場合によってはすぐさま取るべき行動が、他にあるはずだ。けれどーー今、この子が聞いて欲しいことは、そんなことじゃない。
この子はそんなこと、望んでない。
それだけは、わかっていた。
「だってーー」
絞り出された幼い声は、涙に濡れる、などという形容では生温い。
溢れんばかりの悲哀に、溺れてしまいそうな声だった。
「指がないと、誰にも、何も、してあげられないから」
夕闇の中に差し出された、小さな手のひら。その先にある、本来なら指のあるべき場所。そこには、千切られたような跡も、毟り取られた様子もない。本当にただ、ぽとりと落ちてしまったかのように、その子の両手には指がなかった。
けれど。
「その手だって、いいじゃないか」
私は、目の前の小さな手のひらを見つめながら、答える。胸を締め付ける感情に任せて、叫ぶように、訴えるように言葉を紡ぐ。
「誰にも、何も、してあげられなくて、それでいいじゃないか。残った手のひらで、自分のためにできることをすればいい。そうだよ。もう指はないんだ。誰にも、何も、してあげなくていいんだよ」
もう十分じゃないか。
君の指は、もう十分、誰かのために使ったじゃないか。
残された手のひらくらい、自分自身のために使っていいはずだ。
そう叫びたいのに、上手く息ができない。
胸が苦しくて、声が詰まって、涙が溢れてーー溺れてしまう。
悲しみに、飲まれてしまいそうになる。
それでも声を上げずにはいられない。
悲しいのは、私ではなく、目の前にいるこの子のはずなのに。
どうして私は今、こんなにも、悲しいのだろう。
この悲しみを伝えずにはいられないのだろう。
「優しいんだね」
違う。
そんな言葉じゃない。
私が君に言って欲しい言葉は、そんな言葉じゃーー
「もう行かなきゃ」
指を、探しに行かなくちゃ。
でないと、誰にも、何も、してあげられない。
そう言って、その子は私に背を向ける。小さな背中が、傾いた赤い夕日に向かって歩いていこうとする。
どんどん、どんどん、傾いていく、夕日。
「待って」
そのまま見送ることもできたはずだ。
その子はその子の悲しみを、私は私の悲しみを、それぞれ抱いたまま、互いに遠ざかることもできたはずだ。
でも、決してそうしないことはわかっていた。私も、その子も。きっとわかっていた。
「私の指をあげる」
だから、もう悲しまないで。
これで君は、また、誰かのために、何かを、してあげられるよ。
跪いて、両手を差し出した私を、その子はじっと見つめた。赤い夕日に照らされた、その幼い顔立ちをーー私は、よく知っている。
「ありがとう」
そう言って微笑んだ君が、泣いているように見えたのは、きっと気のせいだ。
だって、私はーー私たちは、誰かのために生きずにはいられないのだから。
誰かの笑顔のために、誰かの安息のために、誰かの幸せのためにーー自分の笑顔を、自分の安息を、自分の幸せを、切り売りして、そうして生きてきたのだから。
夕日に向かって走っていく小さな背中を、私は見送る。
勢いよく前後に振られるその細い腕。その先の手のひらでは、左右それぞれ5本の指が、しっかりと握りしめられているはずだ。
励まし、寄り添い、救うべき誰かのために、その子はひたすらに遠ざかっていく。傾いた赤い夕日の中へ、飛び込むかのように。
その背に向かって手を振ろうとしてーーやめた。
平べったい拳のような、指のない両手を、私は1人見つめる。千切られたような跡もなく、毟り取られた様子もない。当たり前のように、当たり前のものがない、私の手のひら。
ああ 今日もまた
指のように日が落ちる。