あなたに捧げる1打
雲ひとつない炎天下――
鳴り響く声援――
熱を持ったグラウンド。
あと一球で高校球児たちの暑い夏が終わってしまう。
九回の裏、ツーアウト。点差はわずか一点。
ランナーを一人残して、一打逆転。というありがちな展開。
バッターボックスに上がった一人の少年は、俺の親友の橘だ。
あまり馴染めない性格の俺にとって唯一無二である、親友の三年間を知っている。
髪を短く切り添えたあいつから野球を取ったら、いったい何が残るというのだ。
俺は思わずズボンの右ポケットに突っ込んだ手を握り絞めそうになる。
――くっ。あぶなかったぜ……
そこには白い封筒が入っている。
だが、俺は怖くてそれを取り出せずにいた。
体中から噴き出る汗で俺の右ポケットの中のそれは、いったいどんな状態になっているだろうか……
「それにしても橘よ。俺はここまで頑張ったんだぜ!?お前も最後まで絶対にあきらめんなよ!」
俺は心の中でそう叫んだ。
あいつとはある約束をしている。
それは昨日の事だ――
授業後、ロッカーに仕舞った鞄を取りに廊下へと出た俺は、先にロッカーにいた橘に声を掛けた。
「明日の試合、いよいよ地方大会の決勝だな。絶対勝って俺を甲子園に連れてってくれよ」
「むちゃ言うな。そんなにあまかねぇよ」
ぶっきらぼうに答える橘をからかったが、俺は心の底から彼を尊敬している。
「なにを謙遜しちゃってるんですか。我が校始まって以来の風雲児。エースで四番の橘アキラにかかれば楽勝だろ?……いいなぁ。俺もお前みたいに青春したかったぜ――」
橘は恥ずかしそうに鼻を搔いた。
「何言ってんだ。お前だって三年間一筋に青春してきたモンがあるだろう?」
「なっ。なに言ってやが……る」
橘に不意打ちを喰らわされた。
今度、顔を真っ赤にする羽目になったのは俺の方である。
そのあげく、橘は俺に突拍子もない案を出してきた。
「わかった。お前の三年間を無駄にしない為にも……俺が明日勝って、お前を甲子園に連れてってやるよ。だからお前も――」
気が付くと、天を仰いでいた俺は今でも自分が信じられなかった。
「よく、あんな条件飲んだよな……」
「え?」
思わず口に出してしまったようだ。
スポーツタオルで僅かにかいた汗を拭きとる隣人と目があった。
「いや……ほら、今バッターボックスに立っている奴。俺の知り合いなんですよ」
「うん……知ってる」
目を細めて笑みを作った隣人に、俺も思わず苦笑いを零した。
「…………」
続く言葉が見つからない。
フェンスの向こうで戦う親友とは別のなにかと俺は戦っていた。
呆然とフェンスに付いた錆の一点を見つめていた俺は、小気味よい金属の高音で現実に引き戻された。
見上げた先に、小さな白球が飛び込んできた。
真っ直ぐに上昇していったそれは、明後日の方向へと飛んで行った。
観客席にいた同校の応援者達から思わず声が上がる。
相手のピッチャーは汗で蒸れた帽子を被り直すと、投球フォームを作った。
渾身のストレート。ど真ん中。
橘の体が大きくうねりをあげた。
だが、白球はバッドのわずかに下を通過した。
――ツ―ストライク、スリーボール――
俺は思わず目の前のフェンスを掴むと声を荒げた。
「たちばな―っ。フレーっ、フレーっ。た・ち・ば・なー!」
突然叫び声をあげた俺に、周囲の観客が驚いた視線を向けてきたが構わなかった。
「約束。忘れてんじゃねーよな?俺を甲子園に連れてけぇー!」
右手をポケットに収めたまま、空いた左手をメガホン代わりに力一杯まで叫んだ。
「たちばなって誰よ?」
「さぁ?あのバッターボックスに立ってる人じゃない?」
そんな会話が耳に入ってきた。
エースで四番。それは俺の中だけだった。
実際には、真面目で内気なあいつは万年補欠。
だが、俺はそれでも構わなかった。
あいつの努力を誰よりも近くで見てきた俺からすれば、橘アキラという男は間違いなく、エースで四番だ。
相手のピッチャーが神経質に首を左右に振る中、橘は手に握ったバットをホームベースに軽く叩き付けると、レフトスタンドにいる俺の方を見た。
彼は、再びバッドを構え直す。
俺はそこで初めて気付いた。
いつのまにか力いっぱい拳を握りしめていたのだ。
恐る恐る右手の感触を頼りに、ポケットに収まっていたそれを確認する。
――駄目だ。もうぐちゃぐちゃだ――
親友との約束を果たすため、夜通し考えて書いてきた封筒の中の文字を想い出す。
顔から血の気が引いた俺は絶望の淵に立ちつくしていた。
そうこうしている間にも、ピッチャーが構えた。
――まだだ。待ってくれ。まだ心の準備が――
容赦なくピッチャーは、鮮やかな投球フォームを繰り出す。
投げ放たれた白球――
バッターの迸る汗――
高音で鳴り響く炸裂音――
電撃のごとく撃ち放たれた打球はレフトスタンドに叩きこまれた。
俺のいるわずかに右隣り……そう、隣人の元へ。
思わずポケットから取り出した右手でその白球を掴むと、彼女に言った。
「あなたのことが好きだっ」