過去か今か未来にある光景
王座の間に軽石と黒曜石を擦り付けた音を数倍大きくしたような、そうした声音が響いた。これの全身に発生した仮初めの口から溜め息を、ここ最近構っていた炭素生物の習慣が今のこれに影響を及ぼしたらしい。漂う混沌を集め、蠢く粘性の強い液体の姿を取る。波長は570〜585nmの体色、神殿内で酷く目立つ。
見る為に意識をやると絵として惨状が飛び込む、なんと愉快な絵面か。
対の眼のある場所を偽足という偽足で覆い隠したそれ、これの父であり異母兄弟にしてこれの知性以外の全てを持つ半身が捩れ王座の上で、必死に縮もうとうねり震えていた。その一方で普段からある程度の形状を有する黒山羊の蹄が気化し壁面を這い回る辺り、何をしたかに見当が付く。
我が魔王がまた、愚かにもその目で黒山羊を見たのだ。
永久とも知れぬ間を存在するこれですら呆れる数を成した至極単純なる失敗。例え魔王の仔と形容できる存在すら破壊せんと、それに抑える知識すらない単純な力を受けた愚かな牝神。黒山羊の交配相手である副王共々過去を学ばぬ事象だと笑いそうになる。
不明な雲として彷徨う黒山羊を、黒山羊の仔が回収する。あれらの手により黒の森へと帰されるだろう、これが関わる必要はなく。彼女へ向けた眼球を愛しの魔王様へと向ける。
震え怯え収縮し、自身から逃れようと足掻くそれ。笛の音の鳴り響く限り動けぬそれ。不規則な打楽器の響きに撹拌されるそれ。哀れで矮小で、これが未だ逃れられぬ唯一の楔。
どれだけ意に反しようと、どれほど蔑んだ所でこれは腕を伸ばさずに居られない。
究極の混沌を無数生やした腕に抱く。奴の偽足をなんとも丁寧に一枚ずつ引き剥がし奥へと逃げようとする目玉を掴み引き寄せる。空の中に存在しない色の目玉がこれを映している。
秩序なのだ、奴は。どれほどこれと似通う見目であろうと、無秩序と限り無く同一でも。
定まらぬものに毒としかならぬ秩序の力、それを放つ瞳に黒山羊は当てられたのだ。彼女の事だ、赤子の様に身を捩る魔王の姿と己の腹から放り出す仔が重なったのだろう。心地好い子守唄を歌い抱き寄せて、今ならばきっとと思い魔王の目を直視したのだろう、笑える。
「黒山羊は貴方を愛しているのに、ね」
それの目を見て影響を受けぬのは使者であるこれだけ。これはそんなもの望んでいないというのに、なんと哀れだろう、注ぐ意思は張りぼてというのに。ただ真っ直ぐ見詰めるだけのこれを信じ込んで。
「これも愛してはいますよ」
魂とでもいうか、九百九十九分割された不可視の何かがこれの中でのたうつ。喜びだ、愉悦だ、憎しみだ。まさに混沌の内側、矛盾した精神活動がこれを苛む。抱き締めて、抱き締めて、同化したい程の愛を。突き放し、突き放し、世界を終わらせたい程の無関心を。その二つがこれを締め付ける。
今はどちらも実行出来ない。王がただ望むまま慰めるのみ、その傷心を塞ぐのみ。
無論私のやり方で私の優しさを傷の奥深くまで塗りつけて、癖になって外へ出る気も一緒に塞いで。
「貴方がそれを許さないのでしょう」
今ここに顕在した万物の魔王を包み、逃げ場のないそれへ優しく優しく囁いた。
いつか貴方を、いつか、いずれ。
「愛していますよ」