漆黒の魔女の始まり
―亡国 第6地下魔導監獄―
「看守さん、……そう、貴方よ看守さん」
甘美な声が暗闇から男を誘う。地下水が一定の間隔で滴る以外に音はない。そこに在るのは彼女と、男と、その間を分ける錆びついた牢のみ。
「私、今とっても退屈なの。わかるでしょう?こんな何もないところなんてつまらないわ。でも…」
ごくり。
男が唾を飲んだ。
「貴方がいてくれてよかった。誰もいないんじゃ寂しいもの」
光をも吸い込む闇に白い掌が映え、男を誘うように揺れ動く、そう、蝶の如く。
それに合わせて繋がれた鎖がチャリ、と微かな金属音を響かせる。
「ねえ、こっちにおいでなさいな?骨の髄まで愛してあげる」
蜘蛛の巣にかかれば、もう逃げられない。ただ喰われるのを待ち続けるのみ……。
「ああ、つまらない…つまらないわ」
物憂げに瞳を伏せ、細い指をなめらかに滑らせる。体温を失い、動かなくなった男の頬を。
「こんなに骨がないんじゃダメね、幾ら私といえど無い物をしゃぶるなんて無理な話だわ。…あら」
一筋の光も差し込まない暗く冷たい地中深く、彼女は黒目がちの眼を細め天を仰いだ。
「やだ、月が綺麗だわ」
ただ、黒く暗い闇を。
★
彼女は死んだ。斬首刑である。野次馬の民衆の前、町の高い時計塔の麓。
幾重にも張られた魔力遮断結界の中、数え切れない悪行を行ってきた彼女は異例の厳重体制での公開処刑をされた。その一挙一動で世界を震撼させた絶世の悪女の最期を見届けよう者は数億人にも上り、注目せぬ者は誰ひとりいなかった。
しかしその散り様は誰が想像していたよりも実に呆気ないものであった。瞼を閉じた美しい顔はそのままに深紅の血を噴き出せば長い黒髪が遅れて地に落ちた。
彼女は晒し首にされることになった。けれども首を切り捨てた男が人形のように動かなくなった頭部を掬い上げたとき、彼は確かに聞いた。
「また、君に逢いに来るよ」
血の気のない唇が横に引き上げられ、三日月に笑うのを。男は確かに聞いたのだ。
しかし、背筋を駆け上がるような、紅く脈打つ心の臓を素手で鷲掴みにされたかのような、その戦慄は彼しか知らない。何故ならこの処刑のすぐ後、真っ赤な華を咲かせ物言わぬ屍と化してしまったから。
また、晒すはずだった首は何処かに消えてしまった。が、不思議なことに誰ひとりそれに気付く者はいなかったのである。
★
何百年も、何千年も前からそこは存在した。在って、無い。何も無い砂地。死の砂丘。常人ならこの死の灰の鉄の臭いで気分を害する。のだが。
ぽつんと一点、白い箇所。艶やかな女の裸体には頭部がなかった。黒砂の上からゆったりとした動作で上体を持ち上げ、手探りをするように手を這わせる。と、果ての見えない天頂から何かが音を立てて地に突き刺さった。余りの勢いに地は揺れ、砂が幾らか散って女に降りかかった。しかし、それにより落下地点を把握した彼女は、緩慢な動きでそれににじり寄り、両手で掬い上げた。
美しい顔。女性の顔だ。精巧に創られた人形のようである。否、人形にしては余りにも生々しい、生物の拍動があった。
首無しの裸婦はその頭を持ち上げ―一切の躊躇いもなく、自らの首に付けた。ギロチンでも使ったかのような切断面がぴったりと合わさり、
ギュ、ゴキュ
元のように組織が繋がり合う歪つな音が鳴った。具合を確認するように軽く触れた後、パチンと左手を鳴らした。すると
「………ん、」
何事もなかったかのように。まるで始めからそうあったかのように…ぱちり、と長い睫毛に縁取られた双眸が開いた。右を左を、辺り一面の死の砂漠を見渡す。ふらりと立ち上がった。緩い曲線を描いた丘に目を留め、ザッザッと砂にとられた足を引きずり登る。ついでにもう一度パチン、と指を鳴らすと足元の影がスルスルと女の白い肌を俳這い、腰からふわりと裾が落ちるシックな黒のワンピースが身を包んだ。そんなことは気にも留めず、遥か遠くまで一望し、随所に転がる亡き者の骨や頭蓋を確認して。
「は、」
そして。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!!!」
四肢を大きく広げ、しなやかな躯を弓なりに反らし闇夜の空へ、女は狂喜の叫びを放つ。凄惨に、あくまでも貫かれた品性を伴って。
「は、ははは、はははは!!初めまして、美しき我が地獄!」
「待ち焦がれてたわ、この時を」
「貴様はこの世界を荒らし過ぎだ」
身体の芯に重く響く声が空気を震わす。眉間に深い皺を刻み、鬼のような形相で玉座から見下ろした相手は黒髪の女。ビリビリと発する威圧感をものともせず、妖艶な笑みを貼付けている。本当に―本当に侮れない。気が抜けない。
この、冥界の主たる――閻魔でさえも。
「そんなことはないわ」
ピンと正した姿勢に、臆した様子は欠片も見られない。
「待ちに待った地獄だもの。害を与えたりなんてしないわ。人畜無害よ」
「『人畜無害』、だと?白々しい。貴様の行いによって、ここの瘴気が今までに無い程乱れている。鬼共も囚人共も理性を失う現状の何処が無害だというのだ。これ以上好き勝手されては捨て置く訳にはいかぬ」
「酷い言われようね。では、そんな出る杭はどうするのかしら?」
生まれ持った険しい表情で、女を睨みつけ、閻魔は告げた。
「貴様を、地獄の底に封印する」
「………ふ、」
女は変わらず上品な微笑みを崩さない。
「私としたことが、詰めが甘かったようね。もっと考えて立ち回るべきだったわ。…例えば、貴方を壊して逃げる、とか?」
「壊す、この我輩を、…か。ふん、若気の至りと言ったところか」
閻魔は続ける。
「地獄は生前、悪行を為した者の罪を償わさせる場所だ。己が欲に掻き立てられ、恍惚を求める場ではないのだよ…貴様のようにな」
「そうね、確かに私はすごくすごく楽しかったわ。ところでねえ閻魔様?」
「……何だ」
話の腰を折られぴきりと青筋を立てた額を愛おしげに見つめ、女は言った。
「貴方とっても貫禄があって素敵ね?強い男性は嫌いじゃないわ。私とイイ事しない?」
「ふん、我輩に媚を売るか」
「いいえ、社交辞令よ。本心だけれど」
「…阿婆擦れが」
ふ、と。女は唇をめくりあげて笑った。閻魔はますます眉間の皺を濃くし、不愉快だと告げるように顔を背けさっと右手を振った。
「自らの罪を知れ、女」
★
カツーン――…、カツーン――…
地中深く、決して人の手の届くことない地下。黄泉の国の更に奥。厳重に封印が施された洞穴の向こうには何重にも錆びかけた鎖が巻き付き、覗き込んでもただ闇しか見えない。
カツーン――…、カツーン――…
そんなこの世の最下層を守るべき役目を与えられた二体の屈強な鬼―閻魔の使いである―はというと。上半身を失っていた。腰骨の辺りで奇麗に切断され、生を諦めきれないように緑色の血がどくどくと溢れている。
そんな微かな光を背に幾時。足音は止まることなく鳴り続ける。
徐々に近付いてくる振動は空気を伝わり、終焉にと身を置く彼女の鼓膜を揺らす。顔にかかった黒髪を払おうともせずに、彼女は強力に術のかかった鉄格子の向こう側を見つめた。
カツーン――…、カツーン――…
やがて、すっかり闇になれた目に一筋光が差した。否、光ではない。銀だ。重い黒の中でも一際目立つ、美しい銀。
カツーン――…、カツーン――…カッ
足音が止まった時、完全に闇に溶け込み縁を失っていたそれを見つけ、女は唇を歪め笑う。
「…貴女ね」
白と黒しか映らない世界に、赤い三日月が弧を描く。ただし……彼女のものではない。
「 久しぶり、お姉ちゃん 」
…… 凜、
鈴が鳴るような、耳に心地好い声が無の空間を震わせ、波紋を生み出す。すっかり闇に溶け込んだ黒頭巾に華奢な身体に張り付いたゴシックドレス。編み上げブーツからのびる太股は雪のように白い。
「こんなところにまで来るなんて…貴方ったら、」
彼女……檻の内に在る『黒』の彼女は眼を細め懐かしむように『白』を見る。
「貴女ったら…本当に私の事嫌いなのね」
「愚問だね、お姉ちゃん。今も昔もこれからも、僕はずっとずっと貴女のことが大嫌いさ。返吐が出る程にね」
ふ、と見た目にそぐわない笑みを浮かべ、白は膝を折り黒と視線を合わせる。
「魔力を剥奪された今の貴女になら僕でも勝てるかと思ったけど、」
黒の彼女がなまめかしく薄い唇を舐めあげた。視線を白へと移した双眸が刹那、ぎらりと紅い光を放つ。
白も同時にバッと顔をあげ、銀髪の間から覗いた右目が強く蒼に光り、
バチッ
両者の間に白い閃光が跳んだ。
「……」
「……」
「やっぱり喰えないね。これだから嫌なんだよ」
白は瞬きした。狂気を秘めた瞳が、元の深い蒼を取り戻す。
「今の僕にも勝てないお姉ちゃんだけど、果して閻魔様には本当に勝てなかったのかな?」
左目を覆い隠す長い前髪を撫で付け、白は流し目で尋ねる。
「そんなことより、どうして貴方がこんな所に?ひょっとして私の後追いでもしちゃったのかしら?」
「まさか。貴女の為に死ぬなんて、おこがましいにも程があるね」
弄っていた銀髪をぱっ、と払い白は続ける。
「お姉ちゃんのギロチン、見たよ。あっさりし過ぎてつまらなかった。もっともっと悲惨でよかったと思うのに。きっと奇麗だよ」
「それはありがとう」
「けど、甘かったな。生死の境界でさえも“血の契約”は断ち切ってくれないなんてね。流石にお姉ちゃんの魔術なだけはある」
ぱちり、黒の長い睫毛が瞬きする。
「このままあの世の果てで野垂れ死んでくれても僕としては大歓迎だけど、“契約”が結ばれたままだなんて論外だよ。そんなことは赦さない」
あくまでも軽く、白は言う。
「ちょっと無理を言わせて来ちゃった。色々摂理を無視してきたから、代償は重いだろうね。頑張って全身全霊でお姉ちゃんに押し付けるよ」
「……貴方ったら、本当に私のこと嫌いなのねえ」
「やだなあ、何言ってるのお姉ちゃん。あの時、確かに伝えたはずだよ」
黒の彼女に耳を寄せ、少し掠れた声で囁いた。
「地獄の底まで着いて行く、ってね」
・:*:・°'★,。・:*:・
荘子の斉物論に“胡蝶の夢”という言葉がある。昔、荘子が蝶になった夢を見たが、目覚めたあと自分が蝶になったのかあるいは蝶が自分になったのかわからなくなってしまったことから現実か夢か、夢か現実かがはっきり区別できないこと、また、人生が夢のように儚いことを意味する。
その惑いの蝶の黒さに準え、『黒蝶夢』という字が充てられた。そう、それこそが彼女に与えられた名――黒蝶である。
しんしんと雪が降りしきるホーム。人気のない駅で忙しなく足踏みする男がいた。
(まずいな、このままでは時間に間に合わない…全く、なんでよりによってこんな日に斬首の仕事が入ってくるんだ)
死刑執行が決まった犯罪者を心中でなじった。が、家で待つ愛しい娘の喜ぶ顔を思い浮かべ、思わず頬が綻ぶ。
(せっかくの誕生日だ、何としても急がねば)
到着を知らせるブザーが鳴り、男は弾かれたように線路の向こうに首を伸ばす。
「失礼」
あまりに必死過ぎて唐突に背にかかった声に反応が遅れた。
「道を教えて欲しいのだけれど」
「はい?悪いけど俺今急いでて、」
感情に任せ振り向くと、視界いっぱいに黒が広がった。黒い髪黒いロングドレス黒いタイツ黒い傘黒い瞳
「貴方の、死へのヴァージンロードを」
とん、
ぐしゃ、
背中に触れ、暗闇にひしゃげた音は電車の音に吸い込まれた。
「約束は、果たしたわ」
かくして、彼女――世界を震撼させる美しき絶望の魔女は“死神”という名で再び地上へと舞い戻ったのである。
「 た だ い ま 」