幕間 ただ背中を押すだけ
王宮、非公式応接室。
昼の執務室とは別に設えられた、小さな部屋だった。
謁見の間ほどの格式はないが、軽い相談で使われる部屋でもない。
豪奢ではない。
だが、使われている調度はすべて上質で、磨き込まれた木目や布地が、ここで交わされる言葉の重さを静かに示している。
この部屋に通されること自体が、「正式には残らない話」を意味していた。
国王は、深く腰掛けたまま、黙って正面を見ている。
背もたれに預けるでもなく、かといって前に身を乗り出すでもない。
だが、その姿勢は、すでに“聞く準備”を終えている者のものだった。
向かいに座るのは、ヴァルディス帝国の名を名乗らない男だった。
外交官でも、使節でもない。
ただ、「記録院から来た者」とだけ紹介された人物。
その立場の曖昧さが、この場の性質を何より雄弁に物語っている。
「……お時間をいただき、感謝いたします」
声は低く、穏やかだった。
礼を述べながらも、腰は低すぎない。
相手を急かさないが、主導権を手放すつもりもない――そんな声音。
国王は、かすかに頷いた。
言葉は返さない。
この場では、それで十分だ。
「単刀直入に申し上げます」
男は、指先を軽く組んだ。
机の上に、何も置かない。
資料を広げないのは、すでに互いに前提を共有しているという合図でもある。
「貴国第三王女――エルフリーデ殿下の件です」
その名が出た瞬間、国王の肩が、ほんのわずかに強張った。
反射に近い動きだった。
「現在、セフィラ連邦におられることは、承知しております」
確認ではない。
すでに把握している事実として、淡々と置いてくる言い方だ。
「そして、貴国が正式な外交ルートで接触を試み、拒まれたことも」
沈黙。
国王は、反論しなかった。
否定する材料がないことを、本人が一番よく分かっている。
「……ですが」
男は、ここで声の調子をわずかに和らげた。
追い詰める段階ではないと判断したのだ。
「制度的には、“まだ”可能性は残っています」
その一言で、国王の視線が揺れた。
わずかだが、確かに。
「どういう、意味だ」
問いは、掠れていた。
だが、そこには明確な縋りがあった。
男は、すぐには答えない。
あえて、一拍、置く。
相手が言葉の続きを欲する時間を、きちんと与える。
「追放は、王権による処分です」
静かに、断定する。
「同時に、それは――王権によって、取り消せる」
国王の喉が、はっきりと鳴った。
唾を飲み込む音が、この静かな部屋ではやけに大きく響く。
「……連邦は、応じまい」
絞り出すような声だった。
否定というより、恐れに近い。
男は、首を横に振った。
否定ではない、修正だ。
「正面から、ではありません」
やわらかく、言葉を整える。
「連邦は、あくまで“本人の意思”を尊重している立場です」
指先が、机を軽く叩く。
規則の話をしている、という仕草。
「つまり」
ここで、ゆっくりと視線を上げる。
「本人が、王宮へ戻る意思を示せば」
言葉を、意図的に区切る。
「話は、変わります」
その瞬間、国王の胸に、熱が走った。
希望と呼ぶには、あまりにも危うい感情。
「……本人が?」
問い返す声は、ほとんど囁きだった。
「ええ」
男は、微笑んだ。
励ますためではない。
理解を示すための、最小限の表情。
「王女殿下は、現在、連邦で一定の保護下にあります」
事実だけを、丁寧に並べる。
「ですが、それは“拘束”ではない」
国王の呼吸が、少しだけ早くなる。
希望が、形を持ち始めた証拠だ。
「もし、王女殿下が――」
男は、言葉を慎重に選ぶ。
「自発的に、王宮へ戻る状況が生まれたなら」
沈黙。
「連邦は、それを妨げる理由を失います」
国王は、拳を強く握りしめた。
机の下で、爪が掌に食い込む。
「……そのような状況を、どう作る」
声に、焦りが滲む。
男は、すぐに答えない。
代わりに、こう言った。
「我々が、助言を差し上げます」
助言。
あくまで、その言葉。
「連れ戻す、という表現は適切ではありません」
やんわりと、訂正する。
「“迎えに行く”のです」
国王の目が、大きく揺れた。
「王女殿下は、追放されたとはいえ、血筋は消えていない。王家の不調。後継問題。そして――国を思う心」
一つ一つ、王が“欲しい言葉”を正確に並べていく。
「揺らぐ理由は、十分にあります」
国王は、思わず前のめりになった。
否定も、疑念も、今は遠い。
「……ヴァルディスは、どこまで関与する」
その問いに、男は穏やかに答えた。
「表には、出ません」
即答だった。
「ただし。事が起きた後の“調整”は、お手伝いできます」
あくまで調整という言葉を使うのが巧妙だった。
「連邦との摩擦、国際的評価、記録上の整合性、……必要であれば、王女殿下の今後についても」
国王の脳裏に、ひとつの光景が浮かぶ。
戻ってくる王女。
再び揃う王家。
評議会の沈黙が、称賛に変わる瞬間。
「……成功するのか」
震える声。
男は、視線を伏せた。
過度な期待を煽らないための仕草だ。
「“必ず”とは申しません」
正直だ。
「ですが」
目を上げる。
「何もしなければ、可能性は限りなく低いままです」
沈黙が、部屋を満たす。
やがて、国王は、深く息を吐いた。
長く、重い吐息だった。
「……王宮の判断として、動く」
その言葉を待っていたかのように、男は静かに頷いた。
「賢明なご決断です」
立ち上がる。
「なお」
最後に、付け加える。
「王女殿下の身柄については、あくまで“保護”を優先してください」
柔らかな声。
「価値ある人材ですから」
国王は、その言葉を疑わなかった。
男は、一礼する。
「成功を、お祈りしております」
扉が閉まる。
その後に残ったのは、取り返せる、という錯覚と、もう後戻りできない、という事実だけだった。
――ヴァルディスは、何もしていない。
ただ、背中を押しただけだ。
王宮が、崖から踏み出すのを。




