灯が、空へ登る夜
薄曇りの夕暮れだった。
連邦の街外れ、川沿いの一角だけが、いつもより少し賑わっている。
露店の明かりが点り始め、甘い焼き菓子の匂いと、かすかな香の煙が混じって流れていた。
「……お祭り、だったんですね」
エルフリーデが、少し驚いたように言う。
「毎年、この時期にね」
隣を歩くルーカスは、どこか穏やかな声だった。
仕事帰りの外套のまま、だが今日は執務室の空気を一切まとっていない。
「仕事の灯を落として、願いを空に流す。連邦では、割と古い行事だよ」
川辺には、紙で作られた小さな灯籠が並んでいた。
火を入れれば、熱でゆっくりと膨らみ、やがて空へ昇っていく――登り灯籠。
「一つ、やっていく?」
軽い調子で尋ねられて、エルフリーデは一瞬だけ迷う。
仕事ではない。
責任でも、判断でもない。
「……はい」
そう答えた自分の声が、少し柔らかかったことに気づいて、内心で首を振る。
(今日は、そういう日、なのね)
二人並んで、灯籠を受け取る。
薄い紙越しに、川面の光が揺れている。
筆と、小さな墨壺。
「願い事を」
店主が、事務的に言った。
エルフリーデは、筆を取る。
迷いはなかった。
書いた文字は、短い。
この日常が、続きますように
それ以上、何も足さない。
国も、立場も、名前も。
ただ、今。
筆を置いて、ふっと息を吐く。
「……願い事、書けた?」
「はい」
顔を上げると、ルーカスは少しだけ目を細めた。
「そっか」
彼も、自分の灯籠に向き直る。
エルフリーデは、書かれた文字を覗こうとしなかった。
それは、してはいけない気がしたからだ。
やがて、火を入れる。
灯籠の底に、小さな炎が灯る。
一つ、また一つ。
紙が、ゆっくりと膨らみ、内側から柔らかな光を宿していく。
「……綺麗ですね」
自然に、そう口を衝いて出た。
「空に昇ると、もっとだよ」
その言葉通りだった。
手を離した灯籠は、ふわりと宙に浮かび、
夜の始まりの空へ、静かに、静かに昇っていく。
橙色の光が、点となり、線となり、
やがて星と見分けがつかなくなる。
川面にも、同じ数だけの灯が映り込む。
空と水が、ゆっくりと溶け合うような光景。
エルフリーデは、息を呑んだ。
(……こんな夜が、あったのね)
隣を見る。
ルーカスは、空を見上げたまま、何も言わない。
だが、その横顔は、仕事中よりもずっと柔らかい。
「……何を、お願いしたのですか?」
思わず、聞いてしまった。
ルーカスは、一瞬だけ視線を落とし、
それから、空に戻した。
「秘密」
穏やかな声。
「……ずるいですね」
そう言うと、彼は小さく笑った。
「願い事は、隠すものだろう?」
その言い方が、あまりにも自然で、エルフリーデは、それ以上追及しなかった。
二人の灯籠は、並んで空へ昇っていく。
寄り添うように、離れず、けれど触れ合うこともなく。
(……続きますように)
胸の奥で、もう一度、願いをなぞる。
そのすぐ隣で。
ルーカスは、誰にも聞こえない声で、
灯籠に向けて、ただ一言だけ、心の中で告げていた。
(――彼女を、幸せにできるのが)
(僕でありますように)
願いは、もう空に昇っている。
戻らない。
取り消せない。
それでも。
夜空に浮かぶ無数の灯の中で、二人の灯籠は、最後まで並んで昇っていった。
まるで、そうなることが決まっていたかのように。
――そしてこの夜は、まだ、壊れる気配など、どこにもなかった。
それが、何よりも残酷で、何よりも、幸福な夜だった。




