覚えてて
夜の街は、店内よりも少し冷えていた。
石畳に落ちる街灯の光が、長く影を伸ばしている。
人通りはまばらで、話し声も遠い。
扉を出て、数歩。
エルフリーデは、ほんのわずかに肩をすくめた。
(……思ったより、冷えますね)
口には出さない。
この程度で寒いと言うほど、夜気は厳しくない。
だが。
「……寒い?」
横から、低い声。
ルーカスだった。
歩調を合わせたまま、ちらりとこちらを見る。
「いえ、大丈夫です」
即答する。
そう答えたのに。
彼は一瞬、足を止めるように呼吸を整えた。
「……じゃあ、念のため」
そう言って、何の躊躇もなく自らの外套に手を掛けた。
「え、いえ、本当に――」
言い終わる前に、肩に、ふわりと重さが落ちる。
温度。
それから、香り。
(……あ)
瞬間的に、息が詰まった。
あの香だ。
焚きしめた香のようでいて、強すぎない。
薬草と樹脂が混じった、乾いた温かさ。
書庫で書類を取ってもらった時。
馬車で向かい合った時。
確かに、知っている匂いだ。
知っている、はずなのに。
(……近い)
今までで、一番。
外套が肩から背へと回され、自然な動きで、彼の手が一瞬だけ、背中に触れた。
ほんの一瞬。
それだけで。
心臓が、跳ねた。
「……ごめん」
ルーカスはそう言って、すぐに手を離す。
距離を取る。
それ以上は、踏み込まない。
だが、もう遅い。
外套の内側に残った体温と香りが、
エルフリーデの感覚を、完全に包んでいた。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ低くなる。
自分でも分かる。
(……変ですね)
彼は、こちらを見ずに答えた。
「風、冷たいから」
ただそれだけ。
言い訳にも、理由にもなりすぎない声音。
歩き出す。
距離は、さっきより少しだけ近い。
外套の裾が揺れるたび、香りが、微かに動く。
(……知っている匂い、なのに)
(……どうして)
今まで、こんなふうに意識したことはなかった。
仕事中は、ただの“気配”だった。
長旅の時も、“安心する距離”だった。
でも、今は。
(……包まれている、みたい)
不意に、ルーカスが口を開く。
「……重くない?」
「いえ」
即答。
少し迷ってから、付け足す。
「……落ち着きます」
本音だった。
彼は、歩きながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それは、よかった」
それ以上は言わない。
だが、その声は、どこか満足げだった。
エルフリーデは、外套の端を、無意識に指でつまむ。
(……返す時)
(……名残惜しくなる、かもしれない)
そんな考えが浮かんだことに、
自分で驚く。
横を見る。
ルーカスは、夜の街を見据えたまま歩いている。
余裕があって、静かで、何もしていないのに、距離だけを詰めてくる。
――危険だ。
そう思うのに。
(……嫌じゃ、ない)
むしろ。
この匂いも、温度も、
この人の隣を歩く感覚も。
胸の奥で、ゆっくりと何かが積もっていく。
それが何なのか、
まだ言葉にはできないまま。
二人の影は、
石畳の上で、自然に重なっていた。
宿舎の灯りが、見えてきた。
連邦の夜に溶け込むような、控えめな光。
仕事に疲れた者が帰る場所の、静かな明るさ。
足取りが、自然と緩む。
(……もう、着いてしまうのね)
そう思った瞬間。
胸の奥で、わずかに、嫌な音がした。
名残惜しい、という感覚に近い。
だが、それよりも、もう少し――
(……離れたくない?)
自分の思考に、内心で首を振る。
(いえ、違います)
(今日は、少し気が抜けているだけ)
そう整理しようとして。
気づく。
外套を、まだ返していない。
肩に掛けられたままの布地が、彼の体温を残したまま、夜気を遮っている。
(……返さなきゃ)
当然だ。
借りたものは、返す。
業務でも、私事でも、それは同じ。
エルフリーデは、足を止めた。
「……あの」
呼びかけると、ルーカスも止まる。
「どうしたの?」
振り返った顔は、いつも通り穏やかで、
だが、どこか夜向きの静けさを帯びている。
外套の端に指を掛ける。
「こちら……お返しします」
そう言って、肩から外そうとした、その時。
「――そのままで」
低い声。
即答だった。
エルフリーデの指が、止まる。
「……え?」
聞き返すと、ルーカスは少しだけ視線を逸らした。
「今、返すと……冷える」
理由は、もっともだ。
夜気は確かに、少し冷たい。
彼の外套は、実用的で、温かい。
だが。
(……それだけ、でしょうか)
胸の奥が、また小さく鳴る。
「……すぐ、そこですから」
遠慮のつもりで言う。
すると、ルーカスは言葉を探すようにして、ほんの少しだけ、笑った。
「だから」
短く。
「そこまで、でいい」
言い切り。
拒否の余地を与えないほど強くはない。
だが、引き下がる気もない。
エルフリーデは、言葉に詰まる。
(……強引、というほどでもないけど)
(……でも)
(……自然すぎて)
その“自然さ”が、逆に心臓に悪い。
「……では」
結局、そう言ってしまう。
外套を直すと、
彼の香りが、もう一度、ふわりと近づく。
(……近い)
さっきよりも。
距離は、ほんの半歩。
触れないのに、確実に、近い。
宿舎の前に着く。
扉の前で、立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
いつも通りの礼。
だが、声の調子が、少しだけ違う。
ルーカスは、頷いた。
「こちらこそ」
それだけ。
――それだけなのに。
どちらも、すぐに動けない。
外套を返すべきだ。
そう分かっているのに、エルフリーデの手は、まだ布地に触れている。
(……返したく、ない)
その考えが浮かんだ瞬間、心臓が、はっきりと跳ねた。
(……あ)
気づいてしまった。
今まで感じたことのない種類の、はっきりとした感情。
「……エルフリーデ」
名前を呼ばれる。
驚いて顔を上げると、ルーカスが、真っ直ぐこちらを見ていた。
穏やかで、落ち着いていて――
けれど、逃がさない視線。
「……今日は、楽しかった」
それは、もう仕事の言葉ではない。
胸の奥が、じん、と熱を持つ。
「……はい」
小さく、でも、はっきりと答える。
「私も」
その返事を聞いた瞬間。
彼の表情が、ほんのわずかに、崩れた。
安堵と、満足と、それから、抑えた何か。
「……じゃあ」
一歩、下がる。
「また、誘う」
疑問形ではない。
約束だ。
エルフリーデは、外套を返す。
名残惜しさを、指先に残したまま。
「……はい」
扉を開ける前に、振り返る。
「おやすみなさい、ルーカス様」
「おやすみ」
その声は、夜の空気よりも、ずっと低くて、柔らかかった。
扉が閉まる。
エルフリーデは、背中を預けて、静かに息を吐いた。
(……匂いが)
もう、残っていない。
なのに。
胸の奥にだけ、確かに、彼の気配が残っていた。
(……これは)
(もう)
(仕事じゃ、ない)
そう気づいた瞬間。
唇に、わずかな熱が上った。




